「ここではないどこか」
いつもそうだ。何度も同じことを繰り返している私。その度に反省するものの変わることができない。50年以上生きてきたが、ずぼらな性格は直らないかもしれない。
今日は銀行のキャッシュカードが見当たらない。ああ、どうしよう。今日が期限の振り込みがあるのを、さっき思い出したのだ。
焦りながら、いつものようにあちらこちら探す。とにかく探す。
財布の中、ここではない。
かばんの中、ここではない。
化粧ポーチの中、ここではない。
タンスの引き出し、ここではない。
たたんだ洗濯物の間、ここではない。
玄関にもない。
でも、どこかにはあるはず。
散々探して、もう1度財布の中をみる。すると、あった。レシートの束の間に埋もれていた。
一昨日、お金をおろしたときに現金と一緒にいれたまま忘れていたのだ。
とりあえず一安心。
そして、次に探し物で慌てるのはいつだろうと諦める私である。
「君と最後に会った日」
56歳の図々しいおばさんである今の私が言っても、誰も信じてくれないのだが、私はとても人見知りする子どもだった。知らない人はもちろんのこと、しばらく会っていない人も目の前にすると緊張してしまい、挨拶もできなかった。
小学校入学前の、保育園の年長だったときに、私は両親に連れられ、東京から電車で秋田に行った。秋田は父の出身地なのだが、私はただ遊びに行くだけだと思っていたのかもしれない。お盆でも年末年始でもゴールデンウィークでもない、まだ少し雪が残っていたのを覚えている。
秋田に着くと、タクシーに乗り、着いた場所は病院だった。病室に入り、父はベッドに寝ている高齢の男性に挨拶し、話しを始めた。そして母も挨拶すると、私も挨拶するよう促した。
私はその人が誰なのか、全くわからない。しかし男性は優しい笑顔で
「恭子ちゃん、こんにちは」と言った。
その時、私は挨拶をしたのか思い出せない。
なぜこの人は私のことを知っているのか不思議だった。
面会時間は10分くらいに思えた。とても短時間だった。
私は幼いながらにも、本人の前で尋ねるのは失礼な気がして、病室を出ると、
「あの人誰?」
と両親に聞いた。2人ともなぜかだまっていた。
病院を後にしてから、どこへ行ったとか何をしたとかの記憶はなく、その断片だけ覚えていた。
何十年と忘れていたこのことを、なぜ思い出したかと言うと、実家の亡くなった父の部屋で、ある手紙を見つけたからである。
封筒の中の1枚の写真を見て、その思い出の断片がよみがえった。この人だ、と思った。
白黒写真の裏に、日付と男性の名前、写した場所と思われる病院名が書かれていた。
私は母から、父方の祖母は再婚していることを聞いていた。憶測にすぎないが、年齢を考えると、祖母の再婚相手だったのかもしれない。私が、誰なのか聞いたときに両親が答えなかったのは、幼い私に説明してもわからないと思ったからか。
手紙を読むと、ほとんどお礼だった。そして最後に、
「最後に恭子ちゃんに会わせてくれてありがとう」
と書かれていた。
母は介護施設に入っており、聞いてもわからないと思う。
どうして私に会いたかったのか、どうして両親は私を会わせたのか、もう知る由もない。
「繊細な花」
私は娘に「優花」と名前をつけた。気持ちとしては、つけたというより、与えたというほうがしっくりくるのだが。
夫は、その責任の重さからか、女の子だし決めて欲しいと言うので、幾つかの候補をだして夫も気にいったのが「優花」だった。静かに眠る可愛らしい娘にぴったりだと思った。
優花はすくすく成長したが、私にとって初めての育児は心配だらけだった。
優花はとてもよく寝る子で、泣いてもすぐに泣き止んだ。3、4時間寝ているので、何度も顔を覗き込むことがよくあった。1歳半になっても言葉が出なかったし、呼んでも反応がなかった。
健康診断で、自閉症の疑いがあると言われた。
そのうち、同じ年齢の子達とは明らかに発達の遅れが目立つようになった。
幸い夫の協力もあり、私は育休中に仕事を辞め、小児科の言語外来や発達障害の子と親のためのサークルに通い始めた。
もうすぐ特別支援学校に入学するという頃の優花は、少しずつ言葉を話すようになってきたが、話しかけても的はずれな言葉が返ってきたり、目を合わせることもなく、優花なりの世界の中にいるように思えた。
入学式の日、学校にも入学式会場の体育館にも、パンジー、ビオラ、デイジー、桜草などの花のプランターがたくさん置かれていた。学校の中学部の生徒達が職業実習で育てたとのことだった。
優花は玄関前でも、体育館でもプランターの前にしゃがみこみ、何か歌を歌いながら、しばらく花を見ていた。
式が始まったが、娘は時々立ち上がり、プランターの花を見に行った。そして大声で叫んでいる子もいれば、手を叩いている子も、やはりじっと座っていられず歩きまわる子もいる。
先生達は特に声をかけることはしなかった。さすがにこの子達は緊張しやすく繊細であることを知っているし、皆の障害の特性を受け入れてくれているのだ。
私は子ども達も、その親も皆が否定されずにいることを感謝した。
そして心の中で呟いた。
「大丈夫、大丈夫」と。
それぞれの色で咲くプランターの花が、とてもきれいに思えた。
「1年後」
今日は美樹の57歳の誕生日だ。
夫からも2人の娘からも、もう20年は「おめでとう」のひと言もない。誕生日といっても特別な日ではなくなった。
子どもの頃には、父が仕事帰りにデコレーションケーキを買って来てくれて、母が大好きなハンバーグを焼いてくれた。小さなお誕生日会だったが、とても嬉しかった。
来年は58歳だ。美樹は、1年後に自分は生きているのだろうかと思う。
若い頃は希望に満ち溢れていて、来年が来るのは当たり前で、良い生活をして幸せになっていると信じていた。
しかし、冷静に考えると、地震や水害などの自然災害、火事、交通事故、事件、戦争、病気、未知のウィルスなど生命に関わる要因はたくさんあるではないか。逆に、これらを避けられたのが奇跡的に思える。
まあ、ネガティブに明日の我が身を案じて生きるよりも、1年後に幸せな58歳の誕生日を迎えることを信じて生きていくか、と気持ちを切り替える美樹だった。
「子供の頃は」
娘から、来月入籍することになったと連絡を受けた。来月26歳になる娘は、会社員で電車で1時間程離れた町で独り暮らしをしている。
突然のことで驚いた私は言った。
「なんだ、お付き合いしている人がいたんだ」
「付き合ってるといえばそうだし、付き合ってないかもしれない」
娘の返事は曖昧である。
「結婚式はしないの?」
と尋ねると、
「それはないかも」
と声に元気がない。
なぜそんなに突然決まったのか、さらに尋ねると、赤ちゃんができたからと言うので、さらに驚いた。
親が親なら、子も子だ。
「やだ、今まで言わなかったけど、私もそうだったんだよ」
「ええ!」
娘が大声を出した。
今は「授かり婚」というらしいのだが、30年以上前の私の時は「できちゃった結婚」とか「でき婚」といわれていた。両親からは、とりあえず早く籍を入れなさいと怒られ、職場では順番が違うんじゃない?と冷ややかな態度をとられ、特に年配の女性からは、汚物のように避けられた。
娘が生まれて成長していくうちに、私自身の周囲に対する恥ずかしさや気まずさは少なくなっていった。何より両親と義両親が娘を可愛がって
くれたことがとても嬉しかった。
妊娠がわかった当初は、しばらく悩み泣いたりもしたが、結婚したことも産んだことも正解だったと思った。
それから娘の仕事が休みの日は、私は娘の新居のアパートに出向いて家事やら出産の準備を手伝った。母親の私が同じような道を通って来たことで、安心しているのだと思っている。
入籍を終え、予定日まであと3か月となり、私のほうが楽しみだった。
そして私は娘の思い出話を語って聞かせるのだ。
「あなたが子供の頃はね…」
あんなに可愛らしく幼かった娘が、母親となるなんて。なんて感慨深いのだろう。
まったくばばバカである。