目が覚めてすぐに昨日枕元に置いたしおりの有無を確認する。
しおりはしっかりとそこにあって、カーテン越しの朝日に照らされてキラキラ煌めいて見えた。
昨日のことを忘れてないことにガッツポーズをしてから、しおりを胸に抱く。
……ずっと一緒。もう忘れないからね。
そう念じてから優しくそっと鞄の中に入れた。
朝ごはんを食べ、あくびをかみ殺しながら通学路を歩く。
ちらちらと私を見てくる人がいて、昨日の手紙が原因だろうなあとちょっと遠い目になる。
教室に入ると待ってましたとばかりに噂好きな女子たちが私を取り囲んだ。
「ねえねえねえ! 昨日さ、隣のクラスの黒渕くんと並んで歩いてたらしいじゃん!
あれなの? あの手紙はやっぱラブレターで、告られたってこと!?」
「やだすごいじゃん! 黒渕くん優しいしそこそこイケメンだから狙ってる女子いっぱいいるのに〜!」
「藍沢さんこれまで全然黒渕くんノーマークだったのに、いったいどういう風の吹き回し?」
きゃあきゃあと騒いで黄色い声を上げる女子たちに私は笑って首を横に振る。
「違う違う。あれラブレターでもなかったし、そもそも黒渕くんから告られてもないよ。
そもそも、彼のこと好きになれないの。好みのタイプじゃないから」
「ふーん……そうなんだ」
女子たちは私に興味をなくしたみたいで自然と解散していった。
でもひそひそ声で「まだ私にもワンチャンあるかも」「藍沢さんのあれは照れ隠しじゃね」とか聞こえてきたから数日は私も黒渕くんも噂に振り回されることになるんだろうなあと思った。
……黒渕くんとは恋愛関係になることはない。
恋愛的な意味で好きになれない、嫌いになれない。
あの人のことを覚えている特別な友達。私にとってはそれでいいの。
私が好きなのはあの人。忘れていたあの人だけ。
それはきっとこれからも変わらない。
「……絶対に忘れない。忘れたりしない。永遠に」
小声で呟いた私の決意は誰にも聞かれることはなかった。
私は生涯をかけてあの人を愛する。
その結果一人になっても構わない。あの人が思い出の中で生きているなら、私はそれで幸せなの。
【忘却のリンドウ 12/16】
奇跡のような偶然が続いている。
今日彼女に手紙を渡さなければあの人の弟、竜くんに出会うこともなかったし、こうして竜くんの家に行くこともなかっただろう。
竜くんは僕たちに玄関前で待ってるように言って家の中に入ってしまった。
そしてややあって嬉しそうに竜くんが戻ってきた。
「これだよ、これ。見せたかったもの」
そう言って見せてきたのは押し花のしおりだった。
その花は青紫色をしていて葉は笹みたいな形をしている。
何の花だろう? と思っていると藍沢さんがしおりを手に取って震える声で言った。
「これ……リンドウ……?」
「えっ凄い! 紫音さんよくわかったね」
「リンドウは好きな花だから……」
そしてしおりをじっと見たかと思えばスッと竜くんの方を向いて真剣な顔をした。
「竜くん。勝手なのはわかってる。強欲な人だと思われても無理もないことだけど、このしおり、私にください」
「うん。いいよ」
あっさり答えた竜くんに僕はもちろん藍沢さんも目を丸くして驚きの声をあげる。
「いっ、いいの!?」
「うん……というか覚えてない?
まあ……おれもついさっき思い出したばっかだけど、おれと紫音さんと空さんと……あの人とで、お揃いの押し花のしおりを作ったこと。
裏に名前を書いてさ、出来上がったら渡すねって。
だからむしろ……遅くなってごめんなさい」
藍沢さんがくるりと裏を向けると“S.A.”と藍沢さんのイニシャルが隅の方に書いてあった。
「じゃあ僕のも……?」
「あるよ。ほら!」
竜くんのポケットから出されたしおりには確かに僕のイニシャル“S.K.”が書いてあった。
そして竜くんのイニシャル“R.K.”を見たその瞬間、リンドウの花を持って寂しそうに笑っている同じ制服の男の子の幻が見えたような気がした。
日がほぼ沈みかけていたから藍沢さんを家まで送り、自分の家へ帰る。
お母さんになんでこんなに遅くなったのか聞かれたけど、友達に勉強を教えていたと適当にごまかした。
明日になっても僕は……僕たちは忘れてないだろうか。今日の日のことを。おぼろげなあの人のことを。
不安に思いながらもベッドに入り、そして夜が明けた。
【忘却のリンドウ 11/16】
奇跡、というのは滅多に起こらないから奇跡というらしい。
だとすれば今日この日はおれにとってまさに奇跡中の奇跡といっても過言ではないはず。
「はじめまして? 久しぶり?
うーん、どっちも違うなあ……」
困ったように頬を搔く男子高校生。初対面なはずなのに彼の名前がスッと口をついて出てきた。
「空、さん……」
「え? 竜くん知り合いなの?」
おれと空さんを交互に見て、紫音さんが驚いた様子で言う。
おれは彼女に軽く頷いて、空さんの手を掴む。
「ちょうど良かった。空さんにも見せたいものがあるんだ。
また忘れても困るし、うちに来て!」
「そりゃもちろん行くけど、お母さんに連絡入れてからでもいいかな?」
「ああ……、黒渕くんのお母さんって過保護っていうかちょっとヘリコプターペアレント気質があるって前に…言って、た……」
目を見開いて口を押さえる紫音さんに空さんも同じように驚いた顔をしている。
きっと今の今まで忘れていたんだろう。おれが紫音さんのことも空さんのこともキレイさっぱり忘れていたように。
「な、なんで……私、そんなこと、知ってるの……?
だって、黒渕くんとは……」
「うん。今日が初対面なはず……だよ」
空さんは少し考えるような仕草をして、これは推測なんだけどと前置きをして紫音さんに語った。
「もしかしたら竜くんと出会ったから忘れていた記憶が声をあげているのかもしれないね。
これまでふとした瞬間にあの人のことを思い出すことはあっても、藍沢さんみたいにそれ以外の人のことを思い出すことはなかったから」
あの人、という言葉に紫音さんも真剣な顔つきになって大きく頷く。
おそらく空さんの言うあの人も、おれや紫音さんが思い浮かべているあの人も同じ人に違いない。
なぜだか知らないけど、とにかく確信めいたものを感じた。
「だったら忘れないうちに早く行こう。
おれの記憶違いじゃなければ……それか母さんが捨ててなければあるはずだから」
二人が頷いたのを見ておれは小走りで家に向かう。
急いでいるのもあるけど、どうしようもなく胸が高揚してたまらなかった。
忘れていたもの、求めていたものがすぐそこにある。
そしてそれはもうすぐ手に入れられるんだ!
【忘却のリンドウ 10/16】
書いた覚えのない私直筆の手紙。それを渡してきた知らない男子。
謎めきすぎて何がなんだかわからない。
よし、甘いものをヤケ食いしよう。
そう決意したものの、学校の近場では手ごろなお店がないし、あと見られたら恥ずかしい。だからちょっと遠くにあるあの喫茶店に行くことにした。
結構前に教えてもらった穴場の喫茶店。
誰に教えてもらったのか忘れちゃったけど、ご飯もスイーツも美味しくてお財布にも優しいからちょくちょく通っているとてもいいお店。
たった一人で切り盛りしてる女の店主さんのことがわりと好きだし、ここでバイトしてもいいかな? とちょっとだけ思ってる。
まあお店のことはさておいて。食べたいものをとにかく頼んでバクバク食べていると、ガラス越しに私を見ていた中学生くらいの男の子と目が合った。
この子、まさか!
私はガラスにへばりつく勢いでその子をまじまじと見る。
確か、そう……名前は……
「……竜くん?」
そう言うと彼はとてもびっくりした顔をして喫茶店の中に急いで入ってきた。
嬉しそう……だけどどこかぎこちない笑顔を浮かべて私の名前を呼ぶ。
「紫音……さん」
面識はないはずなのに、知ってる、知られていると思えることがとても嬉しかった。
そんな私たちを見て、なんだかワケありだと察したのか店主さんはバックヤードに行くかと提案してきたけど竜くんはそれを断った。
「見せたいものが家に……あった、はず。おれの思い違いじゃなければ……
また忘れても困るし、すぐ来て!」
グイグイ私を引っ張る竜くんをなだめて、お会計を済ませてから喫茶店を出る。
数歩歩いたところで竜くんの名前を呼ぶ声が聞こえて思わず振り返る。
そこには安心したように笑って私たちを見つめる黒渕くんがいた。
『どんなに離れていても私たちの絆は不変だと信じている。
だから忘れないでくれ。私という男がいたことを』
懐かしい声が耳の奥でリフレインする。
そうだ、あなたは私にいつも笑いかけてくれた。
……ああ、どうして忘れていたんだろう。
私の一番大好きなあの人のことを。
【忘却のリンドウ 09/16】
朝、スマホのカレンダーアプリを見てため息を吐く。
今日の予定に、二組の藍沢さんに手紙を渡すこと。と書いてあったからだ。
彼女とは何の接点もない。だからすっぽかしても誰も何も言わないはずなんだけど……おととい届いた自分宛ての手紙に
『半年後の僕へ。この手紙に身に覚えがなくても、藍沢さんを知らなくても、同封したもう一つの手紙を彼女に必ず渡すこと。でなければ後悔する』
と書いてあれば渡さないわけにはいかない。
……おかげでクラスの女子たちの興味の的になったけど。
彼女たちからの追及をなんとかかわして逃げるように学校を出る。
下校ルートも変えて歩いていたのに待ち伏せされたと思ってしまうぐらい堂々と待ち構えていたクラスの女子の一人に捕まってしまった。
「ねえねえちょっと訊きたかったんだけど黒渕くんもコイアイ好きなの?」
「こ、コイアイ?」
「『「こっちに恋」「愛にきて」〜あなたは一番好きなひと〜』っていうドラマなんだけど、シチュエーションがほとんど一緒だったの!
だから好きなのかなーって」
「いやー……ドラマはそんなに見ないんだ」
「ふーん。まあ黒渕くんは藍沢さんが好きだもんね。
他の女優さんにうつつを抜かしてる場合じゃないもんね」
「はあっ!? ちょ、ちが」
「じゃあ私こっちだから! ファイトだよ〜!」
……明日学校であらぬ噂がはびこっているかもしれない。
手紙を渡しただけなのに、なんでこうなるんだ……
ガックリ肩を落としながらトボトボ歩いていると、とある喫茶店から藍沢さんと中学生ぐらいの知らない男の子が出てきた。
その子を見た瞬間、あの『忘れるな』という幻聴がリフレインしたかと思えばその続きも思い出した。
『忘れるな。私の弟のことを。私たちの関係を。
空がどこまで忘れるか見当もつかないが、そのことを絶対忘れるなよ』
寂しそうな声。君がどんな顔をしているのか名前も姿も、君との関係も忘れてしまったけど、君の弟のことは思い出せたよ。
「……竜くん」
前を歩いていた男の子が振り返る。
驚いたその顔は初めて見たはずなのに、ずっと前に見たことがあるような気がした。
【忘却のリンドウ 08/16】