朝、スマホのカレンダーアプリを見てため息を吐く。
今日の予定に、二組の藍沢さんに手紙を渡すこと。と書いてあったからだ。
彼女とは何の接点もない。だからすっぽかしても誰も何も言わないはずなんだけど……おととい届いた自分宛ての手紙に
『半年後の僕へ。この手紙に身に覚えがなくても、藍沢さんを知らなくても、同封したもう一つの手紙を彼女に必ず渡すこと。でなければ後悔する』
と書いてあれば渡さないわけにはいかない。
……おかげでクラスの女子たちの興味の的になったけど。
彼女たちからの追及をなんとかかわして逃げるように学校を出る。
下校ルートも変えて歩いていたのに待ち伏せされたと思ってしまうぐらい堂々と待ち構えていたクラスの女子の一人に捕まってしまった。
「ねえねえちょっと訊きたかったんだけど黒渕くんもコイアイ好きなの?」
「こ、コイアイ?」
「『「こっちに恋」「愛にきて」〜あなたは一番好きなひと〜』っていうドラマなんだけど、シチュエーションがほとんど一緒だったの!
だから好きなのかなーって」
「いやー……ドラマはそんなに見ないんだ」
「ふーん。まあ黒渕くんは藍沢さんが好きだもんね。
他の女優さんにうつつを抜かしてる場合じゃないもんね」
「はあっ!? ちょ、ちが」
「じゃあ私こっちだから! ファイトだよ〜!」
……明日学校であらぬ噂がはびこっているかもしれない。
手紙を渡しただけなのに、なんでこうなるんだ……
ガックリ肩を落としながらトボトボ歩いていると、とある喫茶店から藍沢さんと中学生ぐらいの知らない男の子が出てきた。
その子を見た瞬間、あの『忘れるな』という幻聴がリフレインしたかと思えばその続きも思い出した。
『忘れるな。私の弟のことを。私たちの関係を。
空がどこまで忘れるか見当もつかないが、そのことを絶対忘れるなよ』
寂しそうな声。君がどんな顔をしているのか名前も姿も、君との関係も忘れてしまったけど、君の弟のことは思い出せたよ。
「……竜くん」
前を歩いていた男の子が振り返る。
驚いたその顔は初めて見たはずなのに、ずっと前に見たことがあるような気がした。
やけに広く静かに感じる家。
なぜか片側に寄ってるおれだけがいる写真。
ふとした時に耳の奥から聞こえる幻聴。
変な違和感がありまくるのに、その違和感の主がわからない。
親も先生も友達も何の違和感もないらしく、日々元気をなくしていくおれに『志望校へ行くために頑張っているのは知ってるけど、ちょっと根を詰めすぎ』『目のクマヤバいから少し休め』と見当違いな心配をしていた。
そしてあまつさえ親は学校に電話して今日は休みますと勝手に連絡を入れていた。
……家にいても気が滅入るだけなのに。
でも親に怒っても仕方がない。だからいっそのこと気分をリフレッシュさせるため昼食を外で食べ、後はぶらぶら散歩することにした。
気になっていた場所に行ってみたり公園でボーっとしてみたり……だけど気分はそこまで晴れなかった。
日も若干傾きかけてきた頃、とある喫茶店の前を通ると一人でスイーツを爆食いしている女子高生がガラス越しに見えた。
この制服は志望校のやつじゃ……? と思っているとその女子高生と目が合った。
その瞬間、彼女は勢いよく立ち上がり目を見開いてガラスに張り付かんばかりにおれをじぃーっと見て、少し不安げな表情で言った。
「……竜くん?」
声は聞こえないのにも関わらず、絶対おれの名前を言ったと確信めいたものがあった。
だからおれは弾かれたように喫茶店に駆け込んで、彼女に声をかける。
「紫音……さん」
この巡り逢いはおれにとって間違いなく分岐点となった。
この奇跡のような巡り逢いがなければきっと完全に忘れていただろう。
……あの人のことを。
学校を早退したあの日を思うと心がモヤモヤする。
なんであんなに罪悪感と違和感を覚えたんだっけ?
なんであんなに悲しかったんだっけ?
とても……とても大事な何かを忘れてしまったような気もするけど、それがわからない。
……忘れてしまったってことは、そんなに重要でもなかったってことかなあ。
そう思っていると別のクラスの男子から呼び出されて手紙を渡された。
周りにいた女子も男子も、まさかラブレター!? と色めき立って私と手紙の男子に注目する。
彼は全く緊張の素振りも見せずに自然体な感じで明るく言った。
「覚えてないかもしれないから一応言っとくね。
僕は黒渕 空。この手紙を今日君に……藍沢 紫音さんに渡すよう、君から頼まれたんだ」
「……え? 私が頼んだの? この手紙を?」
「うん。じゃあ確かに渡したから」
黒渕くんは周りの注目を浴びながら帰っていき、私は視線を感じながら封筒を開けて手紙を確認する。
『私から私へ。
黒渕くんからちゃんと受け取ったね?
疑問がなければそれでよし。
全くわけがわからないなら、思い出して。
忘れてしまってもどうにかして思い出して。
そして、絶対に忘れないで』
……確かに私の字だけど、なんでこんなものを書いたのか、何を思い出せば良いのか、さっぱりわからない。
なんで過去の自分は主語を書かなかったのかなあ?
……というか書いた覚えもないし、わかんないことだらけだ……
よし、学校終わったら何か甘いものを一人でヤケ食いしよう!
どこへ行こうかな……まあ、適当でいいかぁ。
大好きだったんだよ。愛していたんだよ。
外の国の表記だとbig love! というくらいにね。
それなのに忘れられちゃったんだよ。悲しいね。
でも仕方ないよね。君は神様の生贄に選ばれて魂も体もなくなっちゃったんだから。
意思はまだ残ってるけどね。
でもこれで君は輪廻転生できなくなって、ついでに人々からも忘れられたんだ。
二度と会えない人のことをずっと覚えていても仕方ないしさ。ほら神様のアフターケアってやつ?
うんうん、ぼくってばなんて優しいんだろうね!
まあそれでも君のことをかすかに覚えている人もいてるんだー。まあたった三人だけだけど。
君に片思いをしていた女の子。
君の二歳下の弟。
君の一番の友達だった男の子。
それ以外の人たちはみんなちゃーんと君のこと忘れたよ。
これからこの三人が紡ぐ物語はいったいどうなるのでしょーか?
ま、どうせすぐ忘れて日常を送るんだろうけどさ。
だって人ってそういうものでしょ?
……もう、なあに? 彼らはそんな人じゃないって言いたいの?
わかってないなあ、君は。
これまで数え切れないくらい生贄を貰ってきたけどさその人のことを最後まで覚えている人なんていなかったよ。
それこそbig love……大きな愛を持っていてもね。
……それでも諦められないの?
じゃあ気の済むまで信じればいいよ。
ぼくの生贄、◯◯ ◯くん。
今日は晴天。よし、部屋の掃除をしよう。
要らない紙はシュレッダーなりゴミ箱にポイなりして読まない本は売るか廃品回収に出してしまおう。
そう思いながら最初に机の引き出しを開けると、なぜか通っている高校の写真が出てきた。
閉まっている校門だけが写っているだけの大変面白味のない写真。
なぜ僕がこんなものを引き出しに? 妹のいたずら?
不思議に思いつつふと裏を見ると“Don't forget.”と書いてあった。
『忘れるな』
そんなささやき声が耳元で聞こえた気がしてハッと後ろを振り向く。
だけど閉まったドアしか僕の目には映らなかった。
……僕は何を忘れてしまったのだろう。
気にはなるし、悲しくもある……けど、今気にしていてもどうにもならない。
僕は自分にそう言い聞かせ、写真を元あったところに戻して掃除を再開する。
だけどずっと心はモヤモヤしてたし、掃除も全くはかどらなかった。
……明日、学校に行ったらこのことを誰かに話してみようかな。そうしたらこのモヤモヤも少しは晴れるかも。
それでもしあのささやき声の主を思い出せたら万々歳だけど、それはさすがに高望みしすぎだね。
まあでもポジティブに考えよう。
物事を良い方向に考えていたら良いことが起こりやすくなるってこの前言われたばっかりだし。
……あれ、それって誰が僕に言ってたんだっけ……?