白い壁、脈打つアイツは、零したインクの跡みたいに広がっている。
「無視するなよお嬢さん、俺はあんたが声を聞いてることくらい、お見通しさ」
リズムを刻んで話すアイツ。
ありえないのに、
90年代のどこか古臭いその喋りに、私はひどく悩まされた。
「どなたですか、私はあなたを存じ上げませんが」
「忘れちまったってのかい!俺は悲しいよベイビー、ずっと共にいたってのにさ」
「はぁ…」
少なくとも私には喋る臓器の知り合いはいない。いや、人間を臓器の塊とするなら、そうも言える。いや、ないな。
あまりに突飛な考えに笑ってしまう。少し思考を巡らせた後、この状況の答えを探す。
「人違いじゃないですか?」
「いや、嬢さんほどの美人、俺が忘れるわけないさ」
「いやぁどうでしょう、他人の空似というやつですよ」
中身のない会話を続けてると不意に壁の一部が倒れ込む。手のひらサイズの金属片がふよふよ浮かんでいる。垂れたコードを左右に振って、私もそれに手を振り返す。
「ごめんなさい、やっぱり人違いでした」
「おいおい、そんな金属が俺の代わりを務めるなんて無理無理だ」
「そんなことない、私にとっては命と同じくらい大切ですよ」
金属片を握りしめ、胸に当て込み部屋を出る。最後に一言告げてやる。
「私のオリジナル、見つかるといいですね」
『大切なもの』
エイプリルフール、起源もわからない。
嘘の記念日、ある人は自らの知識上での高度な嘘を、またある人はてんでつまらん嘘を。
エンタメにすらならない、興味の湧かない、あれだ。あるいは、本当の事を勘違いしたり、期待した答えが実は冗談であったりするかもしれない。
さて、そういうわけで私も嘘をつこうと思ったのだが、この日の慣習として、午後に嘘のネタバラシをするというものがある。
このお題がだされたのはいつだったろうか?
つまり、まあそういうことである。
覆水盆に返らず、私は嘘を吐けないようだ。
『エイプリル・”フール”』
幸福という言葉があります。
誰だってその権利を持っているし、目指そうと思えば、ゴールはあります。
幸せは歩いてこない、だから歩いて行く。
なんて歌詞があるくらい、幸せって普遍的なんです。じゃあ、その歩みを止める権利はどうなんでしょう?
私の知る限りの皆様は持ってるみたいです。
ノートを踏みつけて笑う人、弁当にゴミ屑を入れる人、知ってますか?食糧不足で苦しむひとって世界にいっぱいいるんですよ?
そんな理屈、皆には言葉ですらないみたい。
今日は晴天、綺麗なお日様が浮かんでて、街にはアリみたいに小さな人々の歩みがあります、少し風が強いです、ちゃんと落ちれるかな。靴も抜いで準備完了、私はぴょんと落ちました。
頭が腐ったりんごになるまえに少し夢を見ました。走馬灯というやつですかね?
綺麗な景色、大河という奴、それを挟んで閑散とした森があって、空に仏様がいっぱい浮かんでました。落ちた後は意識もなかったので、すんなり死ねました。
ところで死んだ私はなんで話しているのかって?
ちょっと早すぎたので、幸福の収支が取れなかったそうです。私は最終的に博士か何かになったそうで、その分の名誉と幸福、エネルギーが余ったのでそれまで現世にいるみたい。うーん、不便な世の中だ。
『幸せに』
光がある。深淵を照らしだす唯一のもの、
我らの複眼には明るすぎるがゆえに走性たらしめるもの。翅を揺らす、羽ばたきは一つの流動を生み出して、早る心を顕にしているようだった。もっと近く、もっと近くで。
…バチンッ!
変な音がして思わず上を見つめる。丸い蛍光電灯が唯一の光としてそこにある。
その周りを、忙しなく飛ぶものたち、近所はショッピングモールがあるくらいには発展している。だが、裏山も近いので、ここにはよく虫が集まってくる。特に今は深夜帯、大抵の人が寝静まり、残っているものは、残業に追われる社員の灯すものくらいだ。
まあ、私もその一人であったが。
ピンポーン、10階です
安っぽい音に機械的な聞き慣れた声、身体はもうくたくたなのですぐに出る。
ふと、床に落ちた小さな虫に気づいた。
きっと、光に釣られて感電死したのだろう。
まあよくあることだ。
ところで人は一日に何人死んでいるのだろうか。
「変わらないな」
独り言は空を切り、誰もいない廊下に虚しく響いた。
『何気ないふり』
「ちゃんとやれるかな」
いざときがくると、大したことでなくても不安がでてくる。
「あなたなら大丈夫、この日のためにいっぱい準備したのだから、胸を張っていきなさい」
「そうね、婆様のいう通りだわ。
ちょっと弱気になってたみたい」
あちらも準備ができたようだ。
寄れた襟袖の男たちが現れ、轟音鳴らす大扉を開いた。
「いってらっしゃい」
感極まったのか、ほろりと涙をたらしたお婆さま、ええ、いってきます。
この日のため、がんばってきたのだから。
私は胸を張って、舞台へ向かった。
歓声が上がる。その周囲には、エプロンにフォークとナイフ。
「さあ、いよいよ開幕です!年に一度のめでたき日、皿の日でございます!
皆さま、選ばれました彼女に大いなる拍手を!」
『ハッピーエンド』