いつの間にか貴重になってしまったもの、を挙げるならば秋風は欠かせないだろう。
乾いてて、涼しくて、それでいて身が凍えることもない。こんなに気持ちの良いものはない。
だけれども最近はすっかり夏と冬の境目もなくなり、このような秋風は贅沢品となってしまった。思えば馬が肥ゆるような高さの空も、どこか記憶の中にしかない気がしてならない。
彼方のうろこ雲を眺めて木々がさざめいたら重い腰を上げて外へ出てみよう。秋風を吸い込まずして、冬を迎えたくはない。
「また会いましょう」
事務方の大先輩、ゆかり先輩がめでたく寿退社をすることとなり、顔が隠れるほどの大きな花束を抱えながら皆の前でスピーチをしていた。
その小柄な体格からは想像もできないほどの体育系でパワフルな仕事ぶりに私も何度も頼ったものだ。
頼りない高身長の私、香織と頼れる小さなゆかり先輩。周りからは「凸凹コンビだなあ」とからかわれることもよくあったが、コンビという響きにマスクの中では笑みがこぼれていた。
先輩とは会社の垣根を越えて何度も呑みに行ったし、お泊まりもした。それでも先輩は男との結婚を選んだ。
「ごめんね、香織。私やっぱそっち側じゃなかった」
ずるい。嫌いになったと言って欲しかった。それなら諦められた。
先輩はスピーチの最後に突然もらった花束から一本ずつ皆に渡し
「これでお別れではありません。その花を見て私を思い出してください。それではまた会いましょう!」
と爽やかに礼をしてはにかんだ。
「ちょっとぶっちゃけこの花束はデカすぎるんだ」
オフィスが湧く。最後まで皆を笑わせていた。そしてその中からリンドウを私に手渡し、まっすぐな瞳で別れを告げた。
「またね」
ずるい。先輩はずるい。いっそのことさようならと言って欲しかった。
今日も玄関でその花は揺れる。またね、と偽りの希望を振りまいて。
「飛べない翼」というものはそもそも翼と呼んで良いのだろうか。飛べるから翼であって、飛べないそれはなんだ、翼的な形をした何かではないのだろうか。
でももしかしたらいつか飛べることを信じていて、本当の翼となる時が訪れる日を待っているのかもしれない。
「秋も終わりかあ」と感じる。電車に揺られ、窓の外を見ると田んぼの隅にススキが夕日を浴びて揺れていた。
毎年のように四季はだんだんと短くなり、忙しく過ぎ去った秋に別れを告げるように、ススキはさようならと私に手を振っていた。
思えばもう何十年もあの穂先に触れていない。どんな感触だっただろうか。
駅を出て線路沿いを我が家に向かって歩くと、網フェンスに挟まった不恰好なススキが目に入る。
おそるおそる腕を伸ばし、その穂先に触れるとそれは予想以上に硬くて、油断すると手が切れるほどだった。
そうか、お前も頑張ってるんだなと彼の頭を撫でて家路を急いだ。北風が冬の到来を告げていた。
「のう……うら」
「のうり、な」
国語ドリルを解いていた娘の手が止まり、まんまるな目をこちらに押し付けた。
「のうり!?り?裏って書いてり!?おかしいの!」
「まあそういうもんだ。漢字ってのは」
娘はうんうんと「りねえ」と呟き、小さい手で長い鉛筆を掴んで再び書き出す。
「校舎裏……こうしゃり。ふふふ」
「裏取引……りとりひき。リ・トリヒキ。あはあははは」
どうやら裏を「り」とも読めることがよほど楽しかったのか、娘はいろんな裏を「り」と読み、笑っていた。
そうしていると、ふと脳裏に行きつけのレストランの常連だけが頼める裏メニューである、絶品まかないトルコライスがよぎった。ごくりと喉を鳴らす。
「なあ、宿題が終わったらお母さんととっておきの『裏メニュー』を食べにいこうか」
りめにゅーだやったあ!と跳ねる娘、あなたの奢りねと笑う妻。僕は仕方ないなあと苦笑いを浮かべ、書斎の引き出しからへそく裏を取り出した。