【足音】
鮮やかな提灯の明かりが照らす闇夜の真ん中
腹の底まで響く太鼓と、聞きなれない笛と鐘の音が辺りを支配して、少し離れるだけでもう声が聞き取りづらい
「すごい熱気だな…」
「凄いでしょう?お盆に爺ちゃんちに来たら、毎年みんなで見に来てたんです」
隣に座る柊が、ハンディファンをこちらに向けながらそう話す
「このダンス…あー…阿波踊り?だっけ、これだけの人数が踊ると流石に圧巻だね」
「総踊りは阿波踊りの締めですからね」
目の前の道を大勢で踊り歩く人達や、それに歓声を上げる者。それは絶対に、日本に来なければ見れなかった景色で
こんな暑い時に人混みの中なんて、と思っていたけれど…まあなんだ、案外悪いものじゃなかったな、なんて手に持った経口補水液を飲み込んだ
「うちのばあちゃんは鐘やってたんですよ、子供の頃は俺も踊りの練習したりして」
「へえ?お前もこういう所で踊ったりしたの?」
「まさか!俺は盆にこっちに来てただけですから、ばあちゃんについて練習行ってただけで、こんな立派な桟敷の前で踊ったりはしてないですよ」
嗚呼でも
そう呟いた柊に目をやった
「懐かしいなぁ」
その表情を見てしまって、静かに下を向く
目を瞑れば太鼓の音、鐘の音、笛の音、人の声そして
太鼓とも鐘とも違う、恐ろしい程に揃ったこの音は…
「足音…か?」
「え、聞こえるんですか?流石…耳いい…」
「下駄だっけ?あのサンダルの音だと思うけど…」
「総踊りの下駄の音が、この席から聞こえるって…やっぱ凄いですね」
「…そんなことないよ」
そうしてまた目を閉じる
「…明日は、どこへ行きましょうか」
「…どこにでも」
「……じゃあ、東京がいいです」
「いいけど…今度はそこに何があるの?」
「…秘密です」
「…そう」
嗚呼、ひぐらしの声だ
夏が、終わる音
【終わらない夏】
「律さん、向日葵畑ですよ!」
「見ればわかるよ…はぁ…暑…」
無人の駅舎を降りて、軽い荷物を片手に道を歩く
「だからハンディファンとか要らないんですかって聞いたのに」
「あんなもん熱風に当たり続けるだけなんだから要らない」
「じゃあせめて日傘さしてください」
「帽子かぶってるだろ」
「律さんは日本の夏を舐めてます!」
降り注ぐ日差しの中を、麦わら帽子を被って、手の甲で汗を拭う
日本の夏は暑いとは聞いていたが...これは湿気の酷さも暑さに起因していそうだ
「で?これからどこ行くんだって?」
「ちゃんと話聞いてくださいよ…、……俺の祖父の家…だった場所です」
鳴り響く蝉の声の中でも、柊の声はやけにクリアで
「…今は空き家?」
「まあ、一応親が管理してるらしいんですけどね」
「ふぅん?急に夏休みだとか言って日本まで連れてこられたと思ったら、目的地がお前の家とはね」
「いえ、今回祖父の家は拠点です。」
「拠点?」
「…言ったでしょう?夏休みだ、って」
うちの夏は忙しいですよ
そう笑った柊の顔は、影がかかっているはずなのに
嫌に眩しく見えた
【もしも君が】
「もし、もしも君が、まだあいつの事信じるって言うなら、立場的には俺は、止めなきゃいけない」
「…」
「でも、君のあいつとの思い出を否定する事は、誰にもできないから」
「どんな答えを出しても、俺は応援するよ」
その日は雲ひとつ無い晴天で
澄んだ空気が、俺を置いて、遥か彼方へと駆け抜けて行った
「ありがとう、ございます」
「……今はゆっくり休んで」
「…はい」
もしも、もしも貴方が初めから、俺を使うつもりだったなら
俺はちゃんと、貴方の役に立ってから、捨てて貰えたんでしょうか
『東雲は、復職するって言ってる』
『ここには俺っていう前例があるし、あいつは優秀だ、ほぼ確実に戻って来れると思う』
『柊くん次第だけど、上に掛け合う用意はできてる』
『気持ちの整理がついてからでいいから、考えてみて』
ねえ、律さん
もしも、貴方がまだ俺を……
「っ、はは……そんなわけ、ねえのになあ…」
日の差し込む部屋の中で、自分にだけ
暗く濃い、影が差していた
【I LOVE】
「お、ねえ見て柊」
「ええ…ベランダ寒くないですか……?」
「いいから」
シャワーを浴びたばかりの濡れた髪でベランダに出る律さんに手招きをされて、冷えたスリッパに足を入れる
「さむっ…」
「ほら、あれあれ」
白い息を吐く彼につられて黒い空を見上げれば
「おお」
普段よりも大きく、丸い、白い月がそこにあって
「今日って満月ですっけ」
「そうなんじゃない?あ、一等星」
「オリオン座じゃないですか?ベテルギウスだっけ」
「へえ、詳しいね柊」
「昔テレビでみただけですよ」
そう広くないベランダで、寒いねと肩を寄せ合い、白い息を吐きながら、空を見ている
ああ、幸せだ
「柊」
「ん、はい?」
手すりにもたれかかったその人の優しい瞳が、ただ、静かに自分だけを見つめていた
「月、綺麗だね」
「そう、ですねぇ」
月は、もう、ずっと前から
【美しい】
雨の強い日だった
日が高くなってから降り始めたそれは、昼食をとりに外へ出ていた者たちへ容赦なく降り注いだ
普段なら少し長居して、雨脚の弱まるのを待っても良かったが、あいにく今日はそうとは行かない
仕事と言うのは天候くらいではどうとも動いてくれないものだ
「走るか…」
近くのコンビニにでも入ればその場しのぎの傘くらい手に入るだろう
そう決め込んで、そこら中にできた小さな水溜まりに足を踏み出した
「戻りました……」
「おかえり〜、結構降られたんじゃない?」
「いや、店からコンビニまでが意外と遠くて…」
「なるほど?ビニ傘のおかげでその程度ですんだわけか」
室内まで響く雨音に、窓をちらりと見やる
さっきまでよりもまた強くなったそれに、あの人は大丈夫だろうかと思い至り、ずっと室内にいた男を振り返る
「律さんってまだ帰ってないんですか?」
「あー、まだ戻ってないかも…?」
「…」
もしあと5分の間に連絡がなければ、電話を入れてみよう、迎えが必要なら車を出せばいいし、傘が入り用なら、さっき調達したものがある
そんな事を考えていれば、ドアの開く音がして
「ただいま…」
「おかえり〜」
「律さんもしかしてそのまま帰ってきたんですか!?」
服は張り付き、髪はまとまり、足元に水溜まりができていないことが不思議なくらい、雨に濡れた東雲律がそこにいた
「そう遠くなかったから…コンビニによる方が遠回りだったし」
そう言って職場の厚意で用意されていたタオルを手に取り少し長い髪を絞るように拭いていく
目にかかりそうな前髪の、細い毛先についた水滴が目を引いた
小さくため息をついたその横顔は、冷えた体が室内で温められ、少し赤く染まり、それはそれは、とても……
「……何?柊」
「え、あ、いえ...」
「柊くん東雲に見とれてんだ?まあねえ、水も滴るって感じだし」
「違っ」
「ふーん…?…すけべ」
「ちょ、なんでそうなるんですか!」
「ははっ、柊君も髪拭かないと風邪ひくよ〜」
美術品のようでいて、けれども俗世から遠く無く
陶器のようでいて、けれども温かみを無くしておらず
静かに、けれど雄弁に
嗚呼、美しいというのは、きっと