【もしも君が】
「もし、もしも君が、まだあいつの事信じるって言うなら、立場的には俺は、止めなきゃいけない」
「…」
「でも、君のあいつとの思い出を否定する事は、誰にもできないから」
「どんな答えを出しても、俺は応援するよ」
その日は雲ひとつ無い晴天で
澄んだ空気が、俺を置いて、遥か彼方へと駆け抜けて行った
「ありがとう、ございます」
「……今はゆっくり休んで」
「…はい」
もしも、もしも貴方が初めから、俺を使うつもりだったなら
俺はちゃんと、貴方の役に立ってから、捨てて貰えたんでしょうか
『東雲は、復職するって言ってる』
『ここには俺っていう前例があるし、あいつは優秀だ、ほぼ確実に戻って来れると思う』
『柊くん次第だけど、上に掛け合う用意はできてる』
『気持ちの整理がついてからでいいから、考えてみて』
ねえ、律さん
もしも、貴方がまだ俺を……
「っ、はは……そんなわけ、ねえのになあ…」
日の差し込む部屋の中で、自分にだけ
暗く濃い、影が差していた
【I LOVE】
「お、ねえ見て柊」
「ええ…ベランダ寒くないですか……?」
「いいから」
シャワーを浴びたばかりの濡れた髪でベランダに出る律さんに手招きをされて、冷えたスリッパに足を入れる
「さむっ…」
「ほら、あれあれ」
白い息を吐く彼につられて黒い空を見上げれば
「おお」
普段よりも大きく、丸い、白い月がそこにあって
「今日って満月ですっけ」
「そうなんじゃない?あ、一等星」
「オリオン座じゃないですか?ベテルギウスだっけ」
「へえ、詳しいね柊」
「昔テレビでみただけですよ」
そう広くないベランダで、寒いねと肩を寄せ合い、白い息を吐きながら、空を見ている
ああ、幸せだ
「柊」
「ん、はい?」
手すりにもたれかかったその人の優しい瞳が、ただ、静かに自分だけを見つめていた
「月、綺麗だね」
「そう、ですねぇ」
月は、もう、ずっと前から
【美しい】
雨の強い日だった
日が高くなってから降り始めたそれは、昼食をとりに外へ出ていた者たちへ容赦なく降り注いだ
普段なら少し長居して、雨脚の弱まるのを待っても良かったが、あいにく今日はそうとは行かない
仕事と言うのは天候くらいではどうとも動いてくれないものだ
「走るか…」
近くのコンビニにでも入ればその場しのぎの傘くらい手に入るだろう
そう決め込んで、そこら中にできた小さな水溜まりに足を踏み出した
「戻りました……」
「おかえり〜、結構降られたんじゃない?」
「いや、店からコンビニまでが意外と遠くて…」
「なるほど?ビニ傘のおかげでその程度ですんだわけか」
室内まで響く雨音に、窓をちらりと見やる
さっきまでよりもまた強くなったそれに、あの人は大丈夫だろうかと思い至り、ずっと室内にいた男を振り返る
「律さんってまだ帰ってないんですか?」
「あー、まだ戻ってないかも…?」
「…」
もしあと5分の間に連絡がなければ、電話を入れてみよう、迎えが必要なら車を出せばいいし、傘が入り用なら、さっき調達したものがある
そんな事を考えていれば、ドアの開く音がして
「ただいま…」
「おかえり〜」
「律さんもしかしてそのまま帰ってきたんですか!?」
服は張り付き、髪はまとまり、足元に水溜まりができていないことが不思議なくらい、雨に濡れた東雲律がそこにいた
「そう遠くなかったから…コンビニによる方が遠回りだったし」
そう言って職場の厚意で用意されていたタオルを手に取り少し長い髪を絞るように拭いていく
目にかかりそうな前髪の、細い毛先についた水滴が目を引いた
小さくため息をついたその横顔は、冷えた体が室内で温められ、少し赤く染まり、それはそれは、とても……
「……何?柊」
「え、あ、いえ...」
「柊くん東雲に見とれてんだ?まあねえ、水も滴るって感じだし」
「違っ」
「ふーん…?…すけべ」
「ちょ、なんでそうなるんですか!」
「ははっ、柊君も髪拭かないと風邪ひくよ〜」
美術品のようでいて、けれども俗世から遠く無く
陶器のようでいて、けれども温かみを無くしておらず
静かに、けれど雄弁に
嗚呼、美しいというのは、きっと
【恋か、愛か、それとも】
最近、ふと恐ろしいことを考える
触らせたくない、話させたくない、あの困ったように笑う顔を誰にも、見られたくない
俺にだけ、俺にだけ触れて、話して、笑いかけて欲しい
でもそれは、ただの後輩が望んでいいことなんかじゃ、絶対になくて
「…難しいな」
「珍しい、柊にも難しい事とかあるんだ?」
「ッ!り、律さん、急に後ろに来ないでください……!」
「ははっ、まだまだって事だよ、ちゃんと気づけるようになりな」
「……はい」
少し低い位置、その優しい顔を見つめる自分は、一体どんな目をしているのだろうか
「なんかでつまづいてる?聞こうか?」
「あー…いえ、そういうことでは…」
「ふぅん?」
少し甘い缶コーヒーを、円を書くように振って弄ぶ律さんに、あまり表情を気取られないよう、下を向いた
「…その……律さんは、恋とか愛とか、そういうのに近いけど、あんな綺麗じゃないなって思う感情に、なんて名前を付けます…?」
「綺麗じゃない?」
「なんかもっとこう、どろどろした、汚いなって、自分で思っちゃうような……」
「うーん……依存とか…?嗚呼、あとは」
恋か、愛か、それとも
「執着、とかかな」
【約束だよ】
「柊」
「はい」
緩く名前を呼べば、ベッドの縁から聞こえるには似つかわしくない固い返事が帰ってくる
「今日のこと、誰にも言っちゃダメだよ」
「え、はい言いませんけど…」
「うん、バレたら俺溶けて消えちゃうから」
「溶けっ、え?」
冗談に素直に慌てる柊に少し笑って、素肌に触れるシーツの感覚に身を丸めた
「2人だけの秘密、ね?」
「…はい」
表情が緩い、そんなに嬉しかったのか
ここまでするのは初めてだったが…まあ、柊相手なら悪くない手段だ
体を持ち上げれば、薄い布団がぱさりと落ちて少し肌寒い
「ん」
「…なんですか?」
「指切りげんまん、知らない?」
「知ってますけど…」
「じゃあはい」
無理やり柊の小指に自身の指を絡ませ持ち上げる
「約束、ね」
「約束…」
「約束だよ、2人の約束」
言いふらすような事でもないが、柊みたいな奴にはこういう言い方は効きやすい
約束、それは可愛らしい名前の呪縛
「ゆーびきりげんまん…」
子供の頃から幾度となく繰り返したその歌は、神経毒のように人々に染み込んでいく
「…律さんってたまに凄く可愛いですよね」
「……そうかな?」
いいこ、いい子だ、柊
そのまま、そのままでいて