(没)
─"光"のようだ。
そう思った。
決して、強く眩いものではない。
抱擁のように優しい、やわらかな光。
現のものではないような、幻想的な美しさに息を呑む。
きっと、この世の美しいものを全て詰め込んだとしても、敵いはしないであろう。
甘露のような微笑を湛えて、"光"は此方へと手を差し出す。
吸い寄せられるかのように、薄汚れた右手はその手を掴んだ。
その瞬間から私は、この"光"の為だけに生き、人生を、全てを捧げよう。そう誓ったのだ。
───────────
放課後の教室。
目の前の彼は書類と睨めっこをしていて、此方の視線にはまだ気づいていない。
窓から差し込む夕日が、ふたりを照らす。
このまま時が止まればいいのになんて、有りもしない事を考えながら、彼を眺める。
ふと、伏せ目がちだった、瞳がしっかりと此方を捉えた。そして、華々しく笑う。
またも、やわらかい光が私を照らした。
─兄さん、ここが分からないんだけど教えてくれないかな。
そう言われたのが、20分前のこと。
普段のガヤガヤとした賑わいとは打って変わり、そこには、目の前の少年がたてる筆記音とふたりの息遣いだけがあった。
一度解説しただけで、理解してしまうのだから、最早自分の出る幕などなく、静かにしていることが最善となってしまった。
真剣な顔でテキストに臨む彼の顔を眺める。
(改めて見ても、美しいな。)
彼を受け持つ担任としての贔屓目など一切なしに、そう思った。
肌は雪のように白く、双眸は星の如くきらきらと輝いている。だが、その完成されたような美の中に、幾分の荒々しさも垣間見える。
誰でも美しいものが好きだ。それは、自分自身も例外ではなく、彼の顔に少なからず好感を抱いていた。
「兄さん、そんなに見つめられては穴が空いてしまう。」
彼は笑みを零しながら此方を見る。
気づかれていたのかと、慌てて素っ頓狂な声をあげてしまった。
「すまない。邪魔してしまったかな」
「いいや、大丈夫。」と応えた彼は、キリがいいところまで進んだのか、テキストを閉じ、完全に此方へと意識を向けた。
「それで、どうして僕の顔を見てたの?」
「もしかして、やましい事でも考えてた?」と付け足される。
「違う。君の顔はあまりにも美しいなと思って眺めていただけだ。」
素直にありのまま伝えると、彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。
だが、すぐに表情は元の、ニヤっとしたわざとらしい微笑へと戻る。
「へぇ、兄さんはこの顔が好きなんだ。」
そう言うと、彼は机から身を乗り出すようにして、顔を近づけてくる。
その意図を理解出来ず、困惑した。
「好きなんだろう?じゃあ、どうぞ遠慮なく見て」
どうするべきか分からず、美の暴力に、ただ数秒と耐えきれずに、顔を背けた。
「…もう十分だ。ありがとう」
「どういたしまして」
礼を言えば、調子のいい返事が返ってくる。
満足だと言うかのように彼は笑った。
火照った頬に手をやり、少しでも熱を冷まそうとする。
だが、あまり効果は期待できそうにない。
彼の方に向き直すまで、まだ時間がかかりそうだ。
(すごい生徒を受け持ってしまったな…)
静かな教室にふたり、
放課後の勉強会はまだ続いた。
《放課後》
どうしようもなく暑い、昼下がり。
目の前で語られる、酷く面白みのない話を聞き流しながら、窓の外を眺めていた。
机の上には形だけのノートと教科書が開いてある。
授業を受けてからまだ30分にも満たないはずなのだが、もう何時間も受けているかのように感じられた。
ひとつ溜息を漏らせば、教師が此方を軽く、睨みつけてくる。
更々やる気はでず、頬杖をついた。
窓から吹き抜ける風が、青い夏の薫りを運び、汗ばんだ肌に触れる。
それに合わせ、揺れるカーテンに貴方の影を見た。
─貴方は今、どこで何をしているのですか。
《カーテン》編集中
─何故、私では駄目だったの。
かすれた声で、そうひとり呟く。
拳は無意識に力を入れていたのか、爪が皮膚にくい込み、くっきりと跡を残していた。
瞼裏には、まだ先程の光景が、鮮明に映し出されている。
あのひとと手を繋ぎ、仲睦まじそうに歩く綺麗な女性。
ふたりの顔には優しい笑みが湛えられており、傍から見ても特別な関係だと言うことがわかる。
─あぁ、お似合いだな。
不覚にも、そう思わざるを得なかった。
滲む視界をどうにかしようと、服の袖で乱暴に目を擦った。
胸が締め付けられるかのように痛む。
そんな私をよそに、ふたりは楽しげに談笑をしていた。
あの女性に罪はない。しかし、どうしても、あの場所にいる女性が憎くて仕方がなかった。
私の方が、出会った時期も早かったし、一緒にいた時間も多かった。
それに、私の方があのひとの事をよく知っている自信がある。
─なのに何故、あの場にいるのが私ではないのか!
『ははっ…』
こういうところなのだろうな。と自虐気味に乾いた笑い声がもれる。
これ以上、此処には居たくはない、そう思い、息が切れるまで走った。
人がいないところを目指し、たどり着いたのは、寂れた公園であった。
─ここ、前にもあのひとと来たことあったな。
そう思い返した途端、タガが外れたかように、涙が溢れ出す。
汚い喘ぎ声をあげ、しゃがみこみ、泣いた。
こんなところにも思い出を置いていくなんて、酷いにも程がある。
『なんで、私じゃ駄目だったの…』
答えは出ているはずなのに、どうしてもそう問わずにはいられなかった。
《涙の理由》
カーテンの隙間から差す光で目が覚めた。
身体を起こし、伸びをひとつ。
冷たい空気が肺に沁みると、幾分か意識がはっきりしたような気がする。
枕元に置かれた時計に目をやる。
現在時刻は丁度、午前6時を回った頃であった。
─いつもより早く起きてしまったな。
手を櫛代わりにし、髪を整えながら今日の予定を考える。
まずは朝御飯を食べて、それから身支度を整えて。
そういえば、読みたかった本があったんだった。
あとは、お菓子作りをしたいし…。
考えるにつれ、やりたい事もどんどん増えていく。
─まずは、何をしようか。
早起きしたおかげで、時間はたっぷりある。
今日はやりたい事全てやってしまおう。
よし、と勢いよくベッドから降り立ち、スキップせんばかりのテンションでリビングへと向かった。
《ココロオドル》