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─兄さん、ここが分からないんだけど教えてくれないかな。

そう言われたのが、20分前のこと。


普段のガヤガヤとした賑わいとは打って変わり、そこには、目の前の少年がたてる筆記音とふたりの息遣いだけがあった。

一度解説しただけで、理解してしまうのだから、最早自分の出る幕などなく、静かにしていることが最善となってしまった。
真剣な顔でテキストに臨む彼の顔を眺める。

(改めて見ても、美しいな。)
彼を受け持つ担任としての贔屓目など一切なしに、そう思った。
肌は雪のように白く、双眸は星の如くきらきらと輝いている。だが、その完成されたような美の中に、幾分の荒々しさも垣間見える。

誰でも美しいものが好きだ。それは、自分自身も例外ではなく、彼の顔に少なからず好感を抱いていた。

「兄さん、そんなに見つめられては穴が空いてしまう。」
彼は笑みを零しながら此方を見る。
気づかれていたのかと、慌てて素っ頓狂な声をあげてしまった。
「すまない。邪魔してしまったかな」

「いいや、大丈夫。」と応えた彼は、キリがいいところまで進んだのか、テキストを閉じ、完全に此方へと意識を向けた。

「それで、どうして僕の顔を見てたの?」

「もしかして、やましい事でも考えてた?」と付け足される。



「違う。君の顔はあまりにも美しいなと思って眺めていただけだ。」

素直にありのまま伝えると、彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。
だが、すぐに表情は元の、ニヤっとしたわざとらしい微笑へと戻る。

「へぇ、兄さんはこの顔が好きなんだ。」

そう言うと、彼は机から身を乗り出すようにして、顔を近づけてくる。
その意図を理解出来ず、困惑した。

「好きなんだろう?じゃあ、どうぞ遠慮なく見て」

どうするべきか分からず、美の暴力に、ただ数秒と耐えきれずに、顔を背けた。

「…もう十分だ。ありがとう」

「どういたしまして」

礼を言えば、調子のいい返事が返ってくる。
満足だと言うかのように彼は笑った。


火照った頬に手をやり、少しでも熱を冷まそうとする。
だが、あまり効果は期待できそうにない。
彼の方に向き直すまで、まだ時間がかかりそうだ。

(すごい生徒を受け持ってしまったな…)

静かな教室にふたり、
放課後の勉強会はまだ続いた。


《放課後》

10/12/2022, 10:34:02 PM