扉を開けて、目に飛び込んできた光景——それは、一面の銀世界だった。
空に重くのしかかる、どんよりとした雲から真っ白い花弁のような雪が、静かに舞い落ちる。そうして作られた白い世界は、辺境の村で育った少年シリスには見慣れないものだった。思わずその美しさに目を凝らし、ぼうっと呆けていると、シリスの背中に、どん、と衝撃があった。
「お兄ちゃん、ユキ、ユキが降ってる! 外、すっごい真っ白け!」
「ああ、そうだな、レキ。……ほら、コートを着て来なさい。今日は冷えるぞ。着替えてきたら一緒に遊ぼう。雪は十分に積もっているし、雪だるまでも作ろうか」
「ユキダルマ!? わかった! 待ってて」
シリスの言葉を聞くや否や、妹のレクルスは、ぱたぱたと足音を立てて家の中に戻っていった。そんな妹の様子を見て、シリスは一足先に外の世界に足を踏み出す。ずっ、と足が僅かに雪に沈む感覚を覚え、シリスは瞠目した。何だか、この感覚は新鮮だ。シリスは、雪の感触を確かめるように家の前を円を描くように歩き、足下を振り返った。いつもは固い土の地面も、雪に塗れると随分と変容するものだ。雪の地面の上にくっきりと残った自らの足跡を見て、シリスは愉快な気持ちを覚えた。まだ、シリスの雪への興味は尽きない。次は、雪の感触はどんなだろうかと雪の上に屈んで、雪に手を触れた。手袋越しでも伝わる雪の冷たさに、シリスは思わず手を引っ込める。レキの来る前に、雪玉でも作っておこうか。シリスは手を擦り合わせると、雪を手の平で丸め始めた。——雪は少しだと柔らかいのに、集めると強度が増す。シリスが丸めて拳大となった雪玉は、力を込めても崩れることはなかった。
雪玉を三つほど拵えた頃だろうか。ばん、と派手な音を立てて、シリスの家の扉が開いた。レクルスだ。
「おまたせ、お兄ちゃん! あと、これお母さんが持ってけって……あ、それユキダマ!?」
塀の前に兄の姿を見つけると、レクルスは一目散にシリスの元へと駆け寄ってきた。手には母から預かったのだろうか。赤や茶色といった色とりどりの小さな木の実の入った容器が握られている。
「わー……凄い、冷たいね。これ、水になるの?」
「そうだ。溶けると水になる」
幼い妹は、今日に至るまで実際に雪を見たことがなかった。そんなレクルスの初々しい反応を見て、シリスはかつて自分が雪を初めて見た時のことを思い出す。あの頃は、今のレクルスよりもまだ幼い頃だっただろうか……。今日程も雪は積もらず、薄っすらと地面に雪化粧がなされたくらいであったが、大層美しいと感じたことは覚えている。外に出る頃にはもう溶けてしまっていたため、シリスがこうして雪に触れたのは、今日が初めての事だった。
「ねえねえ、お兄ちゃん! ユキガッセンしようよ! レキ、一度やってみたかったんだ!」
「はいはい、だけど、雪合戦はもう少し人数が多い方が楽しいんじゃないか? 二人で雪合戦をするにしてもここは狭いし、側には農具も置いてある。危険だ」
「だね。それもそっか。じゃあ、何処でやる?」
今なら、広場は空いている頃だろう。問題は人数だが……今はまだ早い時間帯だ。歳の近い友人を誘うにしても、もう少し時間を置いた方が賢明だろう。
「よし、広場へ行こうか。今は人も少ないだろうし、先に雪だるまを作って、皆を待っていよう」
「うん! レキの背よりもずっと大きいユキダルマつくる! ねえねえ、お兄ちゃん! 大きいバケツ持って行こうよ!」
弓の如く広場に向かおうとするレクルスを宥めながら、シリスは軒下に伏せられた赤と青の二つのバケツを手に取った。
まだまだ雪は降り止みそうにはない。心なしか、先ほどよりも薄まった足跡を見てシリスは思った。明後日か、明々後日かはわからないが、この銀世界も溶けてしまう日が必ずやってくるだろう。ふと空に視線を投げかけると、ちらちらと舞う雪がシリスの吐いた白い息で、微かにその輪郭を滲ませた。そうして雪を見つめていると、シリスを急かすレクルスの声が聞こえて、はっと視線を戻す。満面の笑みでさっさと広場へと向かう妹を追いかけて、シリスは足を速めた。
願わくば、この記憶が永遠でありますように。
瓶底に沈んだ幸福は、何色をしているのだろう。
暗い海の淵に沈むきみの手を取る夢を見た。そんなこと、ある筈がない。否、あっていい筈がない、そう理解っている。いつもよりも重い頭を擡げて、自分の身体に光を遮られて陰に染まった掌に視線を落とした。僕の心を締め付けているのは焦燥か、それとも黒い恐怖か。手の平の皺に爪を立ててみても、夢の中の冷たい手の感触がどうもついて離れない。
溟い闇の中で、きみの目だけが僕を見ていた。
きみは、僕を憎んでいるはずだ。そうでなければ、僕は。
僕は、きみの瞳を見つめた。きみが僕を許してくれないというのなら、僕は幾らか心が晴れる。そうだ。いっそのこと、僕を海の底に沈めてくれたっていい。その方が、僕の気は楽になる。僕はそれだけのことをきみにしたのだ。きみが僕に報いを与えてくれると言うのなら……、僕は少しだけ、僕を許せる気がするんだ。
——嗚呼、だと言うのに。
きみの瞳は澄んでいた。何処までも、どこまでも。
それはあの時と変わらない、誰かを信じて疑わない目。きみの瞳そのものだった。
きみは何と言った? その感情の宿らない目で。
ぞっと芯までも凍り付くような冷たい感覚が、僕の身体を支配する。ひぃ、と喉から転がり落ちた悲鳴は誰のものだったか。僕に掛かった体重が一気に遠のく。きみの手を掴む力が抜けたのだ。僕の手を放したきみは、あっという間に黒い波にさらわれて姿を消す。きみが飲まれて行くのをじっと見ていた僕は、たった一人安全な闇の上に取り残されて。そこで、やっと夢から覚めた。
きみはまだその目で僕を見るというのか。止めてくれ、僕は惨めな愚か者だ。きみの思うような良い友達ではなかった。きみにもわかっただろう? 僕は、僕自身が一番大切な人間なのだと。きみは本当に良いやつだった。誰よりも正しかった。けれども、それを簡単に裏切ったのは僕だ。なあ、僕は酷いやつだろう? それなのに、何故きみは未だにその目で僕を見る? 君が一言僕を許さないと言ってくれれば、憎んでくれたのなら…………いや、所詮はただの夢だ。本当のきみじゃない。これはただの幻想に過ぎない。僕の罪の形が君の姿を成しただけ。……これは、僕への罰だ。永遠に、逃れる事は赦されない罪。僕はそれと向き合わなければならない。そうだろう?
視界を埋め尽くす澱んだ液体の緩い感触を肌で感じ、僕はただ茫然と息をする。知っているさ。爪を立てた手の平には、赤い血は浮かばない。僕の捻じ曲がった性根が変わることはない。
きみからの手紙を、僕は見ようとしなかった。
酷く小さな、芯からの叫のつまった瓶は今も溟い海に沈んでいる。その思いが掬われることはもう、ないだろう。
ぱちり、と瞬きにも似た合図が聞こえた。
じー……っと音を立てて、レンズの付いた機械が小さな紙に思い出を現像していく。私の掌の上で形を成した思い出は、私の記憶の中に存在する光景よりもずっと鮮明に映っている。
そう思って、脳の奥に仕舞い込まれた記憶を掘り起こしてみると、いずれも写真のように日常の一瞬が切り取られた画ばかりだ。写真の技術は人が造り出したものなのに、些かそちらに引っ張られているらしい。賢いはずなのに、人は何処か間抜けだと他人事のように考え、技術の詰まった箱を机の上に置いた。
箱を置いたその足で本棚へと向かい、棚から一冊のアルバムを取り出す。少し古びたそのアルバムには、高校時代の自分達の写真がぎっしりと収められている。懐かしい思い出だ。何気なく最初の方を開き、一枚一枚ページを捲ることについ夢中になってしまう。早送りをするようにアルバムの中の時は流れ、高三の時の写真の並んだ一番新しい見開きの隅に、空いたスペースを見つけた。そこに、たった今現像した写真を挟んで、透明なシートの上からそっと撫でる。映した写真も、記憶に眠る思い出たちも、自分の大切な宝物だ。窓から届く温かい光が、そっとアルバムを包み込む。写真越しの彼等が、記憶の中で静かに微笑んだ。
からん、と気分の良い音を立てて、扉は開いた。
年季の入った室内の奥には、一人の男が黒い椅子に深く腰を掛けている。来客に気づいた男は、ぱっと目を丸くすると、にこにこと人好きのする笑みを満面に浮かべた。
「やあやあ。お久しぶりだね。今日は何のようかな?今、飲み物を用意するよ。席に着いていてくれて構わない。ああ、そこでいいよ。紅茶でいいかな?砂糖も用意するよ」
「気を使わなくて結構。それに、今日は依頼じゃあない。時間が出来たから、少し此処に寄っただけだ」
流れるように席を立ち、意気揚々と紅茶の用意を始める男を来客は静かに宥めた。間が開き、来客がコートと帽子をコートハンガーに掛けた頃には、男が二つのカップに入った紅茶を運んで来るところだった。
「はい紅茶。熱いから十分気をつけてね」
「……、相変わらずお前は人の話を聞かん奴だな」
来客は少し顔を渋くしたものの、紅茶の入ったカップに口をつけた。そんな来客の様子を見て、男は満足気に砂糖を入れた紅茶を飲む。先にカップを皿の上に置いたのは、来客のほうだった。
「事務所の看板、閉まったのか」
「おや、気付いたんだね。まあ、君なら直ぐに気が付くか」
男は来客の言葉に、肩をすくめて答える。
「辞めるのか?この仕事」
少しの間が空いて、男のカップがコトリと皿の上に置かれた。男からは最初の陽気さは消え、今は目を伏せってすっかり黙り込んでしまっている。
「……うん。そう、考えている」
男が抑揚のない声で来客の言葉を肯定した。
「そうか」
いたって真面目な顔で、来客は言葉を返した。
来客の顔を見て、男は自信なさげに薄く微笑み返す。
そんな男の顔を見て、来客は。
「そうか、やっとか。いやあ、お前にしては随分長く続いたな。お前なら三日で投げ出すとばかり思っていたのに。当てが外れた。」
——そう、事も無げに言い放ったのだ。
この空気の中、突如として落とされた爆弾のような発言に、男は思わず固まった。
「は、え、いや、どういうことさ!君には僕がそんな人間に思えていたとでも言うのかい!」
「ああ、そうだ」
あっけらかんと答える来客の姿に、男は先程までのしんみりとした雰囲気をかなぐり捨てて問いただす。特に驚いた様子も無く、しまいには、長くても七日だと思っていた、などと言い出す友人。そんな友人に、男は無性に腹が立って……、しかし、何だか面白可笑しくも思えてきた。
「この、このお。君というやつは……。僕はこんなにも真剣に悩んでいたのに……」
涙で滲んだ瞳を揺らして机に突っ伏した男の恨みがましい視線を来客は受けた。そんな男の情けない様子を前に、彼としては豪快に笑った。
「ふふ、ははは……。いや、悪い。悪い。つい、な」
「まったく。もう、酷いよなあ」
ひとしきり笑った後、不意に、来客は何かを企むかのような笑みを見せる。彼の鋭い双眸には、先程までは見られなかった愉悦の色が揺らいでいた。
「ところで、だ。お前の事だ。もう次にやりたい事は決まっているんじゃないのか?」
男は机から顔を上げると、来客の方をにやりと見やった。
「ああ、勿論さ」
ソファから立ち上がり、男は閉じていたカーテンを勢いよく開けた。小さな埃達が、沈みかけた夕日の光を浴びて雪の粒の如く、淡く輝いた。カーテンを開けた窓の外には、夕日色に染まった街が広がっている。
「僕はもっとも偉大な人物になる男だ。こんなちっぽけな探偵のままで、満足するワケないだろう?」
男は挑戦的な笑みを見せ、来客を指差して発言する。
「この街を盗んでやるのさ。君よりもずっと早くね。
ねえ?世紀の大怪盗さん」
「ふ、探偵の次は怪盗か。めちゃくちゃだな、お前は」
呆れたように、やれやれといった様に肩を竦める来客。その表情の裏には、密かに物事を楽しむ気持ちが隠されている。そんな来客の心に気づいたのだろう。男は腕を下ろし、構えを直した。
「まあいいだろう。その挑戦、受けてやるよ。元探偵さん」
「"名"探偵、だよ。挑戦を受けた事、後悔するなよ?」
夕日は沈み、半分に欠けた月が街を照らしていた。
月の光の届く、古びたアパートの一室。此処から、二人による新たな物語が幕を開けようとしていた。
いつから"視界"は色を失ったのだろうか。
自分達が生まれる前には無かった小さな液晶に、人々は目を奪われ続けている。その液晶の窓の奥には、顔も知らない人間が書き連ねた世迷言が溢れ返っている。嗚呼、今にも氾濫してしまいそうだ。この小さな窓の奥の世界には、想いをせき止める堤防など無いのだから。
かちりと、手に馴染んだ機械の電源を落とす。もう片方の手で、両耳に着けていたワイヤレスイヤホンを外した。リンリンリン……、と懐かしさを呼び起こす虫のささやかな歌声が耳に流れ込んでくる。季節は、夏だ。スマホを鞄に入れて歩き出す。突如、手元の液晶画面に気を取られた一人の人間が、自分の肩にぶつかりそうな位置を足早に通り過ぎて行った。あの人は、液晶に表示される温度の無い文字を見て初めて、季節が変わった事に気付くのだろうか。人類は日々進歩しているが、大切なものを見失い始めている。斯く言う自分も、その一人なのだ。
通りの家電屋の店頭に飾られたテレビには、"今"を取り上げたニュースが日夜流れている。テレビの中では、ジェンダーや紛争について専門家たちが顔を赤くして語っていた。自分と同じく、流れるニュースを見ている数少ない人間たちは、至って平気な顔でそれを眺めていた。明日になれば忘れてしまう。彼等にしてみれば、その程度の話らしい。ちらと彼等から焦点をずらすと、流行りものに弱い人の群れが、頬を上気させてペラペラとご機嫌に自論を語り合っている。その薄っぺらい仮面の下には、どんな面が在るのだろうか。伝えたい事の本質など、彼等には何一つ見えていないようであった。
言葉の奥に秘められた真意は、沢山の液晶によって幾度となく屈折し、誰かの手元に届く。
そこには、確かに善も悪も存在しないのだ。