七雪*

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 からん、と気分の良い音を立てて、扉は開いた。
年季の入った室内の奥には、一人の男が黒い椅子に深く腰を掛けている。来客に気づいた男は、ぱっと目を丸くすると、にこにこと人好きのする笑みを満面に浮かべた。

「やあやあ。お久しぶりだね。今日は何のようかな?今、飲み物を用意するよ。席に着いていてくれて構わない。ああ、そこでいいよ。紅茶でいいかな?砂糖も用意するよ」
「気を使わなくて結構。それに、今日は依頼じゃあない。時間が出来たから、少し此処に寄っただけだ」

流れるように席を立ち、意気揚々と紅茶の用意を始める男を来客は静かに宥めた。間が開き、来客がコートと帽子をコートハンガーに掛けた頃には、男が二つのカップに入った紅茶を運んで来るところだった。

「はい紅茶。熱いから十分気をつけてね」
「……、相変わらずお前は人の話を聞かん奴だな」

来客は少し顔を渋くしたものの、紅茶の入ったカップに口をつけた。そんな来客の様子を見て、男は満足気に砂糖を入れた紅茶を飲む。先にカップを皿の上に置いたのは、来客のほうだった。

「事務所の看板、閉まったのか」
「おや、気付いたんだね。まあ、君なら直ぐに気が付くか」
男は来客の言葉に、肩をすくめて答える。
「辞めるのか?この仕事」
少しの間が空いて、男のカップがコトリと皿の上に置かれた。男からは最初の陽気さは消え、今は目を伏せってすっかり黙り込んでしまっている。

「……うん。そう、考えている」
男が抑揚のない声で来客の言葉を肯定した。

「そうか」

いたって真面目な顔で、来客は言葉を返した。
来客の顔を見て、男は自信なさげに薄く微笑み返す。
そんな男の顔を見て、来客は。



「そうか、やっとか。いやあ、お前にしては随分長く続いたな。お前なら三日で投げ出すとばかり思っていたのに。当てが外れた。」




——そう、事も無げに言い放ったのだ。
この空気の中、突如として落とされた爆弾のような発言に、男は思わず固まった。

「は、え、いや、どういうことさ!君には僕がそんな人間に思えていたとでも言うのかい!」

「ああ、そうだ」

あっけらかんと答える来客の姿に、男は先程までのしんみりとした雰囲気をかなぐり捨てて問いただす。特に驚いた様子も無く、しまいには、長くても七日だと思っていた、などと言い出す友人。そんな友人に、男は無性に腹が立って……、しかし、何だか面白可笑しくも思えてきた。

「この、このお。君というやつは……。僕はこんなにも真剣に悩んでいたのに……」

涙で滲んだ瞳を揺らして机に突っ伏した男の恨みがましい視線を来客は受けた。そんな男の情けない様子を前に、彼としては豪快に笑った。

「ふふ、ははは……。いや、悪い。悪い。つい、な」
「まったく。もう、酷いよなあ」

 ひとしきり笑った後、不意に、来客は何かを企むかのような笑みを見せる。彼の鋭い双眸には、先程までは見られなかった愉悦の色が揺らいでいた。

「ところで、だ。お前の事だ。もう次にやりたい事は決まっているんじゃないのか?」

男は机から顔を上げると、来客の方をにやりと見やった。

「ああ、勿論さ」

ソファから立ち上がり、男は閉じていたカーテンを勢いよく開けた。小さな埃達が、沈みかけた夕日の光を浴びて雪の粒の如く、淡く輝いた。カーテンを開けた窓の外には、夕日色に染まった街が広がっている。

「僕はもっとも偉大な人物になる男だ。こんなちっぽけな探偵のままで、満足するワケないだろう?」

男は挑戦的な笑みを見せ、来客を指差して発言する。

「この街を盗んでやるのさ。君よりもずっと早くね。

ねえ?世紀の大怪盗さん」

「ふ、探偵の次は怪盗か。めちゃくちゃだな、お前は」

呆れたように、やれやれといった様に肩を竦める来客。その表情の裏には、密かに物事を楽しむ気持ちが隠されている。そんな来客の心に気づいたのだろう。男は腕を下ろし、構えを直した。

「まあいいだろう。その挑戦、受けてやるよ。元探偵さん」
「"名"探偵、だよ。挑戦を受けた事、後悔するなよ?」


 夕日は沈み、半分に欠けた月が街を照らしていた。
月の光の届く、古びたアパートの一室。此処から、二人による新たな物語が幕を開けようとしていた。

4/27/2023, 1:31:03 PM