好きな本は?と聞かれれば真っ先に出てくるのは「ダレン・シャン」だ。
小学校3年生のときに読んで以来いまだに読み返したいと強く思う。学生時代は1年に一周ダレン・シャンシリーズを読み返していた。
無論、同じ作者の「クレプスリー伝説」「デモナータ」「痩せっぽちの死刑執行人」「The City」も大好きだ。
大人になってから読んだ本で好きなものはと聞かれると、あまり多くは読んでないから悩むが、東山彰良の「ブラックライダー」は衝撃を受けた。東山彰良の作品を一度全部読んでみたいと思っているほど文章の書き方が好きで、物語自体もかなり奥が深くよく練られている。キャラクターも個性的な面々が揃っているうえに、あまりにも先が読めなくてページをめくりながら何度も(こうくるか!!)と感嘆してしまった。考えながら読むダークファンタジーが好きな人に特におすすめする。
それから、SFを読むきっかけとなった宮内悠介の「エクソダス症候群」だ。SFは難しそうという理由で敬遠していたのだが、図書館で題名に惹かれて読んだのが始まりだった。現実味のある書き方で科学的に有り得そうな描写が多く、その中での精神病院を舞台とした異質な作品。人間心理から科学技術まで細かく設定にこだわりが見られる。火星に移り住んでいるから未来の話なのだが、どうしても今現在進行形でこの物語が火星で紡がれているのではと錯覚してしまうほどリアリティのある作品だった。
大人になってからはあまり読書ができていないが、世の中には私達の想像を超える作品がまだ山のようにあるのだろう。
それらをこれから見つけていけたらいいなと思っている。私の大好きな作品を今後、もっと増やしていきたい。
特にダークファンタジー、SF、哲学にも興味が出てきたこの頃だ、読みたい本の幅が更に広がったと感じている。これは大人になる醍醐味なのではないかと思う。
読書は私にとって娯楽だが、私が思っている以上に読書によって私の人生は変化している。
良い方にも悪い方にも変化するが、どちらも無意識のうちに楽しんでいるのは確かだ。
少しずつでも、月に1冊でも読書を続けていけたらいいなと思っている。
今日はどうしようか。マクドナルドにするか、すき家にするか、モスバーガーにするか、コンビニにするか。
そう考えながらそれぞれの店の前を通り過ぎていく。
優柔不断。そんな言葉が頭の中をよぎる。今日の晩ごはんどうしようか?みんなもこれぐらい悩んだことがあるだろう。
ものが飽和しているこの時代。何物にも代わりがあって数え切れないほどの選択肢が提示される。たくさんの選択肢からようやく選んだのに、、それから
「アレのほうが良かったかもな」
「やっぱりこれじゃなくてもいいな」
なんて思ってしまう。特に他人を見ていると強くそう思う。
隣の芝生は青く見える、なんて言われるが隣に移ったとしても結局また隣の芝生のほうが青く見えるのだ。
下らないことで悩んで、意味のないことに心を消耗させる。
友達が言った言葉が頭に残っている。
「それが普通だよ、なんて言わないで、みんな違って皆良いって言って。普通なんて誰も分からないんだから」
普通なんて誰もわからない。確かにそうだ。誰かがこれが普通ですなんて言ってくれるわけじゃない。何となく当たり前だと思ったことを普通だと信じてるだけだ。
ある偉人の「常識とは20歳までに集めた偏見のコレクションだ」という名言を思い出す。
普通も常識も本当はこの世界には無いのだ。けれど、私達は当たり前や常識にがんじがらめに縛られて生きている。一歩でもはみ出してしまえばお前は当たり前の事すらできないのかと怒られる。
暑い日差しにシャツで顔の汗をぬぐう。
空はこんなに青いのに、海の底にいるみたいに苦しい。
未だに今日の晩御飯は決まらない。今日の仕事も反省することだらけだ。
息がしずらい。
この世界はあまりにも生きづらい。
青い澄んだ空にため息を混ぜる。曖昧な心に呼応するように空の青色も朱色が差してきていた。
紫陽花といえば、地面の成分によって色が変わると聞いたことがある。(本当にそうかは知らないが)
犯罪小説で使えそうだなと思ったので記憶に残っている。死体を埋めた場所の紫陽花だけが色が違う、みたいな感じだ。死体が埋まっている桜は美しいとかと似たような雰囲気を感じる。
なぜか美しい花ほど残酷なイメージを持たれやすい。薔薇しかり彼岸花しかり、、
ちなみに、紫陽花には毒があることを知っているだろうか?死ぬほどの毒ではないがお腹を壊したり気持ち悪くなる程度の毒を持っている。
薔薇は棘があるし、彼岸花もたしか毒があったはずだ、つまり美しい花というものは基本的には人間に友好的ではないのだ。
しかし、人間は美しいものが好きなので勝手に育てたり、勝手に愛でたりしている。
また、高嶺の花という言葉もある。欲しい物ほど手が届かないという例えだがこれにも花が使われている。
梅雨に入り、紫陽花が咲く季節だ。最近では様々な品種が出てきて花が大ぶりで華やかなものから小さいのがちょこちょこと咲く可愛らしいものまである。
私自身も例に漏れず花が好きなので出勤時や休日の散歩などで道端の花を眺めたりする。
残念ながら私の近所にそこまで多くの紫陽花はないが、とある家の軒先に、鉢に植えられた小さな紫陽花が咲いているのを見つけた。普通の紫陽花ではなく、白色で中心に集まっているつぼみの四方に小さく花が咲くタイプのだった。とても可愛らしい紫陽花だった。
昔にテレビで紫陽花の品種を紹介しているのを見たが本当にたくさんの種類があった。
紫陽花も桜のように死体が埋まっていたら美しく咲くのだろうか。
最近、私の尊敬する方々(作家や学者など)が同じことを言っていることに気づいた。
「好き嫌いは無いです」
これは、何かをするときに好き嫌いで判断してはいけないということだ。無論、食べ物に関してもだ。
アレルギーだったり何かしら理由があるのなら仕方ないが、好き嫌いを理由に食べるのをやめたり何かをすることを諦めたりするなという事だ。
好き嫌いなんて誰にだってあるだろう。私だって甲殻類の匂いが嫌いだし辛い食べ物も食べれないし勉強も嫌いだ。
もちろん、嫌いなものを無理に食べろと言ってるわけでも、嫌いなことをやれといっているわけでもない。(と思う)
好き嫌いを理由にチャンスを逃すなと言っているのだと私は解釈している。
例えば、嫌いな食べ物に関して。
多くの好き嫌いは食わず嫌いだ。そしてそれらはちゃんと調理されたものを食べて改善することが多いらしい。私の場合は甲殻類の生臭さが苦手なのだが、高級料理だったら生臭くなくて食べられるかもしれない。だから、高級料理店に行く機会があったら食べてみる、、とかだ。
他の場合でも同じことで、「嫌いだから」を理由にしていると貴重な経験を無下にするかもしれないのだ。
なぜ自分がそれを嫌いなのか理由を今一度考えてみると良いかもしれない。
今回はこれを読んでいる人たちになにか伝えたいことがあるわけじゃない。ただ自分自身がいかに「嫌い」を理由に色々なことから逃げてきたのかを自覚したのだ。
尊敬する方々の言葉は、自分の人生の教訓となる。だから、私もいつか誰かに聞かれるとき「好き嫌いは無いです」と答えられるようになりたい。
街を歩くと色んなことを感じる。菓子屋の香ばしい焼き菓子の匂い、電車の走る音、人々の話し声、足音、カラフルな看板、前を横切った目をみはるような美しい人、見惚れているとひゅうと風が髪をなでていった。
騒がしいのは好きじゃない。けれど街の喧騒は好きだ。まるで、カラフルな街の油絵の一筆の色になれた気分。自分もこの街の一部だと思えるのが好きだ。
一人ではなく、数え切れないほどの情報のごく小さなひとつ。そう思うと、私はとても安心できた。
私が何をしようと、何を考えていようと誰にもなんにも影響がない。誰も私を見ていないし、私も他人のことなんか気にしない。
ただ自分の仕事をするだけ。自分のやりたいようにするだけ。
けれど、一人ひとりに人生がある。
これはとても不思議で、私の世界には私一人の意識しかないのに私の視界に見える人たちにも私のような一個人の意識がある。
それらが、思い思いに生きている。
まさに街の油絵。たった一つの小さな色が絵を美しく映えさせる。1色入れなくともその絵は街の絵だとわかる。しかし、完成させるにはどの色も欠けてはいけないのだ。
街の景色に溶け込むたびに、季節が変わっていくたびにこの瞬間を切り取りったものが芸術と呼ばれるのだろうなと思う。