やりたいこと。少し前までは、それを見つけるのが目標だった。
自分のやりたいことはなんだろう?
自分のやるべきことはなんだろう?
それに対する答えを20歳を過ぎてからなんとなくわかるようになってきた。
自分のやりたいことは自由になることだ。
自分のやるべきことは家族を幸せにすることだ。
曖昧に聞こえるかもしれないけれど私の中では明確に何をすべきかすでに決まっている。
これはずっとずっと私の中にあったもので、それを自覚したのが最近になってからだった。大人になったからというより、様々な経験を得てようやく自分自身を理解し始めたと言ったほうが正しいだろう。
経験が少ないと、見えるものも考えることも限界がある。経験は視野を広くし、思考のテーブルを広げる事ができる。私は視野も思考のテーブルも人よりずっとずっと狭い。だから、自分のことを理解するのに時間がかかるし他人のことを理解するなんて尚更だ。
けれど、少なくとも成長はしている。少しずつでも時折立ち止まっていたとしても、経験を得ようとしている。
いつか、完璧に自分を理解するために。
いつか、誰かを理解するために。
その為に今の私がやりたいことは自由に色々な経験を得ることだ。最初に言った「自由になる」とはちょっと意味が違ってくるかな。でも、大雑把に言えば自由に好き勝手やりたいというのは自由になると同義じゃなかろうか。
まあ、とにかく経験は大事と言うことだ。これを読んでいる君も様々なことを経験するだろう。受け身での経験でもいいが自分から様々な事に挑戦してみるのも君自身の役に立つよ。絶対ね。
最近は、出勤時間の一時間前に家を出て会社近くの公園でゆっくり朝食を食べたりする。
そこは人も少なく、青々とした葉桜の桜並木が風に揺れ、公園の直ぐ側には大きな川がありゆったりと水が流れている。
木陰になっているベンチを探して、ひと目もないのでドカッと座り足を組む。かばんから朝食用にとコンビニで買ったサンドイッチを取り出して食べる。
いつの間にか鳩と雀が集団で近くの砂利の地面をつついていた。何もやらないぞと軽く足を動かすと海の引き波みたいに鳥たちが移動した。
時折どこかからリーンリーンと風鈴の音が聞こえる。夏にはまだ早いが春と言うにはもう遅いうっすら汗ばむような気温だ。
サンドイッチを食べ終え、始業の30分前になるまでぼーっとする。あと15分ほどだ。
木陰にいるのにぽかぽかと暖かさを感じる。春と夏の間。梅雨と呼ばれる時期だけれど今日は雲ひとつない晴天だ。
ベンチから見える川が涼しげで足を浸せたらきっと気持ちいいだろうなと思う。
風が吹くたびになる風鈴が酷く夏を連想させる。そこまで猛暑ではないのに頭の中で半袖短パンの少年たちが目の前の川ではしゃいでいるのが想像できた。
もうすぐ夏だ。
この暖かい日差しも憎くなる日が近いだろう。
リーンリーンと鳴る風鈴の音を聞いてから、重い腰を上げて手を上にあげて伸びをする。
はあ、とため息をついて会社へと向かった。
人生の岐路なんて、いくつもあった。
一番最初の岐路。
私にとってのそれは本との出会いだ。幼い頃から家にあった分厚い辞典を眺めるのが好きだった。文字の意味はわからなくとも何度も何度も見返すほど気に入っていた。
小学生になり、文章が読めるようになってからは学校の図書室の常連だった。
初めは低学年向けの絵本などを読むことが多かったが次第に物足りなくなり、小学3年生で高学年向けの本棚から本を探すようになっていた。
そこで出会ったのが「ダレン・シャン」だ。皆はこの小説を知っているだろうか?本の題名も「ダレン・シャン」、著者の名前も「ダレン・シャン」なのだ。
不思議だろう?
その上、書き出しもまるで自伝のようなものだから当時の私は本気でヴァンパイアが存在するのではと思ったほどだ。(ダレン・シャンはヴァンパイアの物語)
まあ、内容には触れないがとにかく私はこの「ダレン・シャン」がきっかけで読書の世界に深くのめり込むことになった。
それ以来、本を読まない日はないと言ってもいいほど毎日、本を読んだ。
当時、私が通っていた小学校の図書室は一度に借りれる本は3冊までだった。期限は1週間。私は数日おきに頻繁に借りては返却してを繰り返していた。
そんなこんなで小学校高学年に上がった頃、担任が変わりとあるルールが追加された。
その先生は読書を推進しており、宿題の漢字ノートを10ページ書くごとに図書室で本をプラス一冊借りれる券を作ったのだ。
その結果、普段は宿題を忘れて頻繁に怒られていた私は漢字ノートだけは提出率が高くなり、なんなら1日に2ページ3ページ書くこともあった。
本を読みたいがために私は漢字ノートだけはちゃんと書き続け、結果としてかなりの頻度でプラス一冊借りれる券を手に入れていた。この券のために頑張っていたのは同学年でも私ぐらいだったろうと思う。他の人が券をもらうのを見たことはあるが、正直、使っているのを見た記憶がない。ちなみに、自分は使わないからと譲ってもらった記憶はある。
と、まあ当時の私は本当に本を読むのが好きだった。中学に上がってからは授業中もこっそりと読んでいたぐらいだ。急にクラスが静かになったと思えば先生が真隣に立っていた、、、なんてことがよくあった。しかし、不思議と強く叱られたことはない。
今は昔ほど読書にのめり込んでいるわけではないが、それでも本を読むのは好きな方だ。
子供の頃、家にあった分厚い辞典。今読んでもぶっちゃけ理解できないぐらいの高度な内容の本なのだが、意味がわからなくとも当時から本に興味があったのだろう。
家にその辞典がなければ、、
学校の図書室に「ダレン・シャン」がなければ、、
もしも、「読みすぎだ」と誰かに怒られていたら、、
なんだかこういったIF世界線はSFにありそうだと思ってしまうのは読書家あるあるではないだろうか。
とりあえず、読書が嫌いな私なんて想像すらできない。自分を形作った物が無くなったとしたら、他の物で代用しているのだろうか?それとも空っぽのままよく分からない人生を歩むのだろうか?
結論。私は、これまでの岐路について「今生きているのならばそれらはすべて必要だったのだ」と思うことにしている。
世界の終わりに君と。なんてロマンチックな表現だろう。
もし世界が終わるなら、誰とともに過ごしたいだろうか?やはり一番は兄弟だろう。私にとって最も愛する家族だから。
兄弟と一緒に語り、そして兄弟とともに終わりを見届けたい。
私の答えは家族に決まっている。けれど、せっかくこんなに美しいお題が出たのだから現実的な話じゃなく、ロマンチックな物語を作ってみよう。
「世界の終わりに君と」
しゃらしゃらと舞うように花びらが踊る桜並木を君と並んで歩く。
彼女が言った。
「ピンク色の蝶々も居たら良いのにね」
そのとたん、目の前を通った花びらがふわりと舞い上がりピンクの可愛らしい蝶々へと変わる。
蝶々はパタパタと重そうに羽を動かしながら彼女の周りを2.3周回って再び花びらへと戻った。
彼女の言葉は魔法だった。信じられないほど美しい彼女は名前も住んでいる場所も年齢も教えてはくれなかった。
けれど、なぜか私にだけ魔法が存在することを目の前で証明して見せた。
「桜はさ、儚いよね。すぐに散っちゃう」
彼女は私に笑いかける。その笑みは桜並木の中でひときわ輝いているように見えた。
「人もさ、儚いよね」
その言葉は、まるで自分は人ではないかのような言い草だ。
君は、、、そう言いかけて彼女に遮られた。
「何も言わないで。君は何も知らなくていいの」
彼女は桜よりも華やかな笑顔で続ける。
「私はね。ただ世界の終わりに君と一緒にいたかったの」
「このきれいな景色の中で君は幸せなまま最期を迎えられる」
世界の終わり?幸せな最期?何を言ってるのか全く分からなかった。
「どういうこと?」
思わず私は問いかける。
その瞬間。眼の前にあったのは美しい桜並木ではなく燃え盛る街と逃げ惑い叫び狂う人々だった。
困惑して、辺りを見回すも彼女はもうどこにもいなかった。
耳をつんざく爆発音が聞こえ、体が宙に浮く。
そのときに彼女が言ったことを理解した。
最悪。最悪ね。
最悪な日?最悪な人?最悪な出来事?
うーん、どれもピンと来ない。
まだ、私の人生では最悪に出会っていないのかもしれない。
愛犬が亡くなったとき?優しい祖母が亡くなったとき?思いついたのはこの2つだけれど、それでもまだ最悪じゃない気がする。
死は人としての最悪の状態だと思うけれど、なんだか違う。酷く悲しんだし落ち込んだけれど、最悪ではなかった。
冗談交じりで人に「最悪」と言うけれど、実際に最悪だったことはない。
うーん、難しいな。最という字が使われてるのがそもそも悪い。一番悪いことだなんて、簡単には考えつかないものだ。
そうだな、一番の悪いこと。人類にとっての最悪と言うならば地球爆発とかだろうか?
地球爆発は流石に冗談だけれど、でも最悪というからにはそれぐらいの規模になるんじゃないだろうか。
まあ、結局は日常で言われる最悪なんてものは世の中から見たら酷くちっぽけだ。
今日起きた悪いことなんて、数年後にはそれを遥かに超える悪いことが起こるものだよ。
何かが起きてしまったなら、それは未来の予行練習だ。
いつか来る本当の最悪は、きっと誰も想像つかない形で私達の目の前に現れるだろうね。