紫陽花といえば、地面の成分によって色が変わると聞いたことがある。(本当にそうかは知らないが)
犯罪小説で使えそうだなと思ったので記憶に残っている。死体を埋めた場所の紫陽花だけが色が違う、みたいな感じだ。死体が埋まっている桜は美しいとかと似たような雰囲気を感じる。
なぜか美しい花ほど残酷なイメージを持たれやすい。薔薇しかり彼岸花しかり、、
ちなみに、紫陽花には毒があることを知っているだろうか?死ぬほどの毒ではないがお腹を壊したり気持ち悪くなる程度の毒を持っている。
薔薇は棘があるし、彼岸花もたしか毒があったはずだ、つまり美しい花というものは基本的には人間に友好的ではないのだ。
しかし、人間は美しいものが好きなので勝手に育てたり、勝手に愛でたりしている。
また、高嶺の花という言葉もある。欲しい物ほど手が届かないという例えだがこれにも花が使われている。
梅雨に入り、紫陽花が咲く季節だ。最近では様々な品種が出てきて花が大ぶりで華やかなものから小さいのがちょこちょこと咲く可愛らしいものまである。
私自身も例に漏れず花が好きなので出勤時や休日の散歩などで道端の花を眺めたりする。
残念ながら私の近所にそこまで多くの紫陽花はないが、とある家の軒先に、鉢に植えられた小さな紫陽花が咲いているのを見つけた。普通の紫陽花ではなく、白色で中心に集まっているつぼみの四方に小さく花が咲くタイプのだった。とても可愛らしい紫陽花だった。
昔にテレビで紫陽花の品種を紹介しているのを見たが本当にたくさんの種類があった。
紫陽花も桜のように死体が埋まっていたら美しく咲くのだろうか。
最近、私の尊敬する方々(作家や学者など)が同じことを言っていることに気づいた。
「好き嫌いは無いです」
これは、何かをするときに好き嫌いで判断してはいけないということだ。無論、食べ物に関してもだ。
アレルギーだったり何かしら理由があるのなら仕方ないが、好き嫌いを理由に食べるのをやめたり何かをすることを諦めたりするなという事だ。
好き嫌いなんて誰にだってあるだろう。私だって甲殻類の匂いが嫌いだし辛い食べ物も食べれないし勉強も嫌いだ。
もちろん、嫌いなものを無理に食べろと言ってるわけでも、嫌いなことをやれといっているわけでもない。(と思う)
好き嫌いを理由にチャンスを逃すなと言っているのだと私は解釈している。
例えば、嫌いな食べ物に関して。
多くの好き嫌いは食わず嫌いだ。そしてそれらはちゃんと調理されたものを食べて改善することが多いらしい。私の場合は甲殻類の生臭さが苦手なのだが、高級料理だったら生臭くなくて食べられるかもしれない。だから、高級料理店に行く機会があったら食べてみる、、とかだ。
他の場合でも同じことで、「嫌いだから」を理由にしていると貴重な経験を無下にするかもしれないのだ。
なぜ自分がそれを嫌いなのか理由を今一度考えてみると良いかもしれない。
今回はこれを読んでいる人たちになにか伝えたいことがあるわけじゃない。ただ自分自身がいかに「嫌い」を理由に色々なことから逃げてきたのかを自覚したのだ。
尊敬する方々の言葉は、自分の人生の教訓となる。だから、私もいつか誰かに聞かれるとき「好き嫌いは無いです」と答えられるようになりたい。
街を歩くと色んなことを感じる。菓子屋の香ばしい焼き菓子の匂い、電車の走る音、人々の話し声、足音、カラフルな看板、前を横切った目をみはるような美しい人、見惚れているとひゅうと風が髪をなでていった。
騒がしいのは好きじゃない。けれど街の喧騒は好きだ。まるで、カラフルな街の油絵の一筆の色になれた気分。自分もこの街の一部だと思えるのが好きだ。
一人ではなく、数え切れないほどの情報のごく小さなひとつ。そう思うと、私はとても安心できた。
私が何をしようと、何を考えていようと誰にもなんにも影響がない。誰も私を見ていないし、私も他人のことなんか気にしない。
ただ自分の仕事をするだけ。自分のやりたいようにするだけ。
けれど、一人ひとりに人生がある。
これはとても不思議で、私の世界には私一人の意識しかないのに私の視界に見える人たちにも私のような一個人の意識がある。
それらが、思い思いに生きている。
まさに街の油絵。たった一つの小さな色が絵を美しく映えさせる。1色入れなくともその絵は街の絵だとわかる。しかし、完成させるにはどの色も欠けてはいけないのだ。
街の景色に溶け込むたびに、季節が変わっていくたびにこの瞬間を切り取りったものが芸術と呼ばれるのだろうなと思う。
やりたいこと。少し前までは、それを見つけるのが目標だった。
自分のやりたいことはなんだろう?
自分のやるべきことはなんだろう?
それに対する答えを20歳を過ぎてからなんとなくわかるようになってきた。
自分のやりたいことは自由になることだ。
自分のやるべきことは家族を幸せにすることだ。
曖昧に聞こえるかもしれないけれど私の中では明確に何をすべきかすでに決まっている。
これはずっとずっと私の中にあったもので、それを自覚したのが最近になってからだった。大人になったからというより、様々な経験を得てようやく自分自身を理解し始めたと言ったほうが正しいだろう。
経験が少ないと、見えるものも考えることも限界がある。経験は視野を広くし、思考のテーブルを広げる事ができる。私は視野も思考のテーブルも人よりずっとずっと狭い。だから、自分のことを理解するのに時間がかかるし他人のことを理解するなんて尚更だ。
けれど、少なくとも成長はしている。少しずつでも時折立ち止まっていたとしても、経験を得ようとしている。
いつか、完璧に自分を理解するために。
いつか、誰かを理解するために。
その為に今の私がやりたいことは自由に色々な経験を得ることだ。最初に言った「自由になる」とはちょっと意味が違ってくるかな。でも、大雑把に言えば自由に好き勝手やりたいというのは自由になると同義じゃなかろうか。
まあ、とにかく経験は大事と言うことだ。これを読んでいる君も様々なことを経験するだろう。受け身での経験でもいいが自分から様々な事に挑戦してみるのも君自身の役に立つよ。絶対ね。
最近は、出勤時間の一時間前に家を出て会社近くの公園でゆっくり朝食を食べたりする。
そこは人も少なく、青々とした葉桜の桜並木が風に揺れ、公園の直ぐ側には大きな川がありゆったりと水が流れている。
木陰になっているベンチを探して、ひと目もないのでドカッと座り足を組む。かばんから朝食用にとコンビニで買ったサンドイッチを取り出して食べる。
いつの間にか鳩と雀が集団で近くの砂利の地面をつついていた。何もやらないぞと軽く足を動かすと海の引き波みたいに鳥たちが移動した。
時折どこかからリーンリーンと風鈴の音が聞こえる。夏にはまだ早いが春と言うにはもう遅いうっすら汗ばむような気温だ。
サンドイッチを食べ終え、始業の30分前になるまでぼーっとする。あと15分ほどだ。
木陰にいるのにぽかぽかと暖かさを感じる。春と夏の間。梅雨と呼ばれる時期だけれど今日は雲ひとつない晴天だ。
ベンチから見える川が涼しげで足を浸せたらきっと気持ちいいだろうなと思う。
風が吹くたびになる風鈴が酷く夏を連想させる。そこまで猛暑ではないのに頭の中で半袖短パンの少年たちが目の前の川ではしゃいでいるのが想像できた。
もうすぐ夏だ。
この暖かい日差しも憎くなる日が近いだろう。
リーンリーンと鳴る風鈴の音を聞いてから、重い腰を上げて手を上にあげて伸びをする。
はあ、とため息をついて会社へと向かった。