彼の鼻歌、お揃いのマグカップ、焼き上がったばかりのクッキーは私の『お気に入り』。
天板に規則正しく並べられたそれを音をたてないよう彼の目を盗んでぱくり。
「あっ、」
鼻歌が止まり、しっかり気付かれてしまったけど怒った様子は微塵もない。
サクサクした食感の楽しいものに、ぎゅっと固まったカリッカリなクッキー、流行りのしっとりした冷めたものよりも作った瞬間にしか味わえない
「んふふ。焼きたてのふにゃってしたクッキーが好きなの」
まだ固まっていないスポンジと似たような不思議な食感。温かく、しなっとしてバニラエッセンスの香りが口から鼻へ広がる。
「だから今、紅茶をいれようとお湯を沸かしてるんじゃないか」
やかんに入った水は沸騰し始めてお湯になって、これから火から下ろして茶葉を準備して蒸らして…。紅茶になるまで数分で終わるのに数十分以上かかるようなそんな気がして。クッキーが「はやく食べて」と私に美味しい香りを振り撒いていたから。
「誘われちゃったの」
「蝶が花に誘われるみたいに?」
甘酸っぱい苺の香りがする、紅茶の茶葉だ。
「そんな綺麗な例えじゃないかな」
横でお皿を取り、彼の手伝いをしながらすすーっと小さなクッキーに手を…
「こーら、待て。あとちょっとだから」
「…わん」
待ってる間はどうしてこうも1秒すら遅く感じてしまうのか。私のマグカップに濃いめにはいった苺が香る紅茶に氷がカランと落とされる。彼と私のマグカップは別の顔をしていた。
「お待ちかねの紅茶が入ったよ、ちゃんと待てが出来るじゃないか。いいこだね」
しつけができた犬のようにわしゃわしゃ撫でられ、ご褒美の小さなクッキーが口に運ばれるかと雛鳥みたいに待っていたのに
「あぁっ!」消えた先は彼の口。私の期待…!
「うん、確かに君の言ってたこと分かるよ。手が止まらなくなりそうだ」
してやったりの彼は口の端を上げていた。
そんな彼との日々のやり取りも私の『お気に入り』。
君が悲しんでいる時は、涙で袖が濡れないように俺の胸で泣けばいい。痛むと言うなら原因を探りだし心に刺さった棘を抜いてみせよう。君がひとりになりたいと望むなら、そっと離れて悲しみの波がひくのを待つことだって。
あまり長いと俺が寂しくなるから出来れば近くにいさせてくれ。
落ち着いた頃にはお腹が空いているだろうから、軽食を食べてゆっくり休もうか。
時々、何も言わずに溜め込んでしまう君の悪い癖。心身の疲労は君を蝕んで陰が増えていく。どんな表情も好きだと豪語する俺も悲しみを孕む涙には弱い。それなら別の、分かち合えるような涙がいい。
「強く擦りすぎだよ…」
赤く腫れた君の目もとを冷やす。『誰よりも』君の幸せを願っているのに全ては拭いされない歯痒さは、今もなお慣れることはなかった。
「なんだろう、これ」
10年後の私から手紙が届いた。
なぜ分かったのって?ご丁寧に差出人の欄にそう書いてあったから。筆跡は私そっくり。封がされてまだ誰も中身を知らない。
いたずらにしては良くできすぎて、上質な封筒とにらめっこ。
「開けるか、開けないか」
わざわざ10年先から届くのだから重大なことでも書いてあるのか。宛名、宛先の字には焦って書いた形跡は読み取れない。私のことだから未来を教えることはしないと思うけど。意図がさっぱり。
「10年かぁ」
やりたいことをして、洗練された女性になっているのかな?彼とはどう?共に生きているのか、それとも…。
「開けちゃおうか」
せっかく届いたのだから読まないのは失礼な気がして、封を開ける。よくない書き出しをされてたら即捨てるつもりだった。
中には彼の瞳に似た海色の便箋が一枚だけ。
「何も書いてない…?」
表裏、用紙を上下逆さまにクルクル回し、光に翳しても読み取れる物はなかった。
『10年後の私から届いた手紙』に文字はないものの、便箋からふわりと香ったのは彼の香水。
私は10年後も彼の隣にいるようで、彼に似た匂わせ方に胸の内がなんとも言えない喜びで溢れていた。
疲れているのに全速力で走って来るとは思いもしなかった。
「まずは…っ、これ…、はぁ…」
ぜぇ、はぁと呼吸を整えながら、台風にでもあったと言いたげな小振りな花たちを渡されて花瓶に生けた。
彼を椅子に座らせて呼吸も穏やかになったところで、紅茶と私の想いをお皿に乗せて運んでいくと、食卓に飾った花が元気を取り戻し、本来の色を、部屋を明るく見せ始めている。
「紅茶をどうぞ」
ウェイトレス気取りで湯気のたつ紅茶を渡し「いつもありがとう」と日頃の感謝を込めチョコケーキを並べた。
「こちらこそ。いつも君のお陰で幸せだよ。ありがとう」
慣れた手付きで私の髪を耳にかけ、彼の整った顔を眺めているとシャラと金属が擦れウィンドチャイムのような軽やかな音がした。私は今日、アクセサリーを付けてはいない。
「?」
「うん、よく似合う」
自分の見立てに狂いはない、自信たっぷりに彼が微笑んでいた。彼の手を覆うように触れるといつの間にか髪飾りが。手触りから予想するに繊細で複雑そうな物。モチーフは花っぽい…かも?彼からの贈り物だ。
「これじゃ貰った私が見えないけど…?」
「付けたところを早く見たくて、外した後でゆっくり眺めてくれよ。」
ケーキを崩さないようにフォークをゆっくり動かして、
「一日中君が作ってくれたケーキのことで頭がいっぱいでさ。なんでひと口食べてこなかったんだろう…!って。やっと食べられる」
ゆっくり過ごすはずが急な仕事でスケジュールが狂い、名残惜しげにちらと覗いた箱の中身。ご褒美に相応しく、頭から離れなかった。
ケーキを刺して口を開ける。ひとりで食べるには少し大きいチョコケーキのはずだけど仕事で疲れてお腹を空かせた彼にはちょうどよかったみたい。
「ほろ苦いチョコケーキだ。すごくきれいに作ってくれたんだね」
ひと口いれてまたひと口。美味しい、おいしい。と夢中で食べてみるみる減っていく。苦いと顔をしかめられなくてよかった…!と私は胸を撫で下ろしていた。
大きなハートもペロリと平らげた彼の口の端にクリームが付いてる教えると見当違いな場所を拭う。
「全然違うってば」
「ん、どこだろう…。とってもらえる?」
「子どもみたい」
くすりと笑みを溢してちょこっと拭えば手首を掴まれ
「子どもはわざとクリームを付けて君の気を引いたりしないよ」
後頭部を引き寄せられてほろ苦いチョコの味。くちが離れるころには独特な苦味は消え失せ、ただただ甘い。
とてもあまくて、ビターチョコで正解だったと過去の私に拍手を贈って彼に抱き付いた。
耳もとで「ハッピー『バレンタイン』」と囁くと、大好きな優しい声色が、私の鼓膜をゆらしてとけた。
(三日連続でお題を繋げて書くなんて思ってもみませんでした…!)
普段より浮わつきを見せる街は甘い香りを漂わせていた。この日のために気合いの入った人もいれば逆に、おどおどとして周囲から勇気付けられる人も目立つ。
ある人にとってはこれが勝負の日。またある人にとっては感謝を伝える日。とある国だと女性がチョコレートを渡す日らしいが、ここではそんな決まりはない。誰だって自由に渡したい物を相手に贈れるんだ。
家族たちには日持ちするお菓子とカードを付けてこの日に間に合うように送った。きっと弟や妹たちのおやつタイムに出されてニコニコと食べてくれるはず。お返しの手紙が届くのが楽しみだ。
君の髪に映えそうな髪飾りを贈り物に、部屋を彩る花を少し。仕事が入らなかったらゆっくり君と過ごせたのに。時刻は夕暮れ、甘い香りは朝より薄くなっていた。君のもとに着く頃には辺りは暗く、街もひっそり静かになる。
「遅いと食べて寝ちゃうからね」
冗談めかしていたが寂しそうな顔までは隠せていなかった。
「『待ってて』くれると嬉しいな」
こんなこと言わなくても君は『待ってて』くれると知っているけど、わざと声にだして。
さて、急ごうか。
一緒に過ごせる残りの時間をこれ以上減らす訳にはいかない。荷物を抱えて走り出した。
君が作ってくれたチョコケーキ(『伝えたい』想い)を俺だって楽しみにしてるんだ。
(昨日のお題と繋げてみました。)