いま思うと彼は写真をこじらせていた。まだ見ぬ景色を撮るんだ、などと言って、暇さえあれば町中のどこでもシャッターを切るような人間だった。ごみ捨て場がラベンダー畑にでも見えているらしかった。彼が突然立ち止まるものだから、街ゆく人たちが奇異な目で見てくるので、連れ立って歩く時は恥ずかしい思いをしたのだっだ。
私はいつも彼の画角にうっかり入ってしまわないように、一緒にいる時はひたすら彼の背後を取ることを意識して歩いた。殺すほど憎くもない男の暗殺者になった気分を味合わされたのは、後にも先にもあれが最後だと思いたい。
彼の「まだ見ぬ景色撮りたい病」は悪化の一途を辿り、やがて世の中に出回っている写真はもはや偽物ばかりだと嘆き始めた。プロの写真家に失礼な発言だと思ったが、まあそれについては部分的に同意する。
「もう終わりだよ。あらゆる絶景は世界にばらまかれてしまった。まだ見ぬ景色なんてどこにもない。つまり、俺が作らなきゃいけない」
なんとスケールの大きな発言。私は椅子からずり落ちそうになった。
いよいよ国産みにでも乗り出すつもりなのだろうか、この男。そうなるとがぜん興味がわいてくる。
だが、具体的にどう行動するのかプランを問いつめる前に、彼は失踪してしまった。自分にはどうしようもない未来の行く末を憂いすぎたのだろう。
ああなってしまったらもう人としては終わりだ。彼が天才と呼ばれるべき人種かはともかく、それは歴史が証明している。
そうして私がその男の存在をほとんど忘れきったある日、彼から着信があった。
なんだ、生きていたのか。金の無心だろうかと思って出てみると、電話口からは今まで生きてきた中で一度も聴いたことがない、奇妙きわまりない音が聞こえてくる。
浅草演芸ホールにダイヤモンドの吹雪が吹き荒れて、壁一面を埋め尽くすフラミンゴの群れを絶えずなぶり続けているような音。だが不思議と528Hzで奏でられるせせらぎの穏やかさと、懐かしいゲーム音楽のようなノスタルジーを想起させる音でもある。
と言ったら伝わるだろうか。おそらく伝わらないと思う。『聴いたことのない音』を正確に描写することなどできない。彼が常に言ってきたことを思い出し、背筋が凍る思いをした。
電話口でまくし立てる彼はひどく興奮した口調だった。
「なあ未散、俺はついにまだ見ぬ景色を見つけたよ。お前もここに連れてきたかった。ここに立つお前を撮影できたら、どんなに最高の作品が撮れただろうと後悔したよ。無理矢理にでも連れてくればよかった。でも、それじゃ駄目だって気づいたんだ。まだ見ぬ景色はそれを切り取った瞬間、世界に発信した瞬間、順繰りに手足をもがれていくんだよ。『誰かが見た景色』になるまでいったい何秒かかる? 言っただろ、俺はまだ見ぬ景色を作るんだ。俺がいま見ているこの風景だけが誰にも干渉できない本物だ。つまり、」
俺はこの景色を、俺だけの網膜に焼きつけて死ぬんだよ。
彼の口調は高揚しきっていた。今から死を選ぶ人間の恐怖はひとかけらも感じられなかった。
その後、彼はきっちりと音信不通になり、行方不明者として淡々と行政上の処理をされたと聞いた。
私は今でもあのとき電話口で聴いた音を正確に表現できる言葉を探している。彼が見ていた景色を見ようとはけして思わない。もしそれが叶ってしまったら、きっと私は彼のいる谷底か何かに引きずりこまれて、二度と帰ってこれなくなるだろう。
『誰かが見た景色にはするなって言っただろ』
記憶の中で、彼の声が低く響き続けている。
彼は狭量で傲慢な恥ずかしい人間だと思う。
だが、声は案外覚えているものだと思った。
(まだ見ぬ景色)
師は走るというし、雪が降ると犬は庭を駆け回るともいう。あなたは犬であり師でもあるから、こんな年の瀬にも忙しなくしている。サンタクロースを名乗るにはちょっとだけ遅かったけれど、宝物のように誰かの骨をくわえて笑顔で走ってくるものだから、なんだかこちらまで泣き笑いになりたくなる。
どうしてこんなに寒い中まだ駆けているのだろう。止まりたくないひとは除夜の鐘をききながら、年の瀬と年始めの境界線を飛び越えて、わたしたちの知らない遠くへゆくのだろう。
こたつでみかんでも食べながら紅白観ようよ、と庭の犬に思ってみた。
たまにはそれもいいかもね、なんて、犬でも師でも思ってみてほしい。
扉を叩けばひらく準備はできている。火種はもう見つけなくていいから、あたたかいストーブの上でみかんを焼こう。
(和田康士朗だ……)
(心と心)
宅配業者から「お届け物です」と言われて受け取ったダンボール箱は思ったより小さかった。中に試供品の仲間が入っているとは、あの配達員の男性も思わなかったのだろう。
「はじめまして。私はあなたの仲間です」
そこに入っていたのは男か女かよくわからない、すくなくとも人間のかたちをしてはいる、見た感じ二十歳前後の若者だった。
「仲間、あげます」という怪しいハガキを受け取って、SNSで話のネタにでもなればと思い無料お試しサービスに応募してみたものの、まさか人間っぽいものが送られてくるとは思わなかった。SNSに投稿すれば確実にバズるか、炎上するか、嘘つきよばわりを受けるだろう。ただいま目の前にある光景だけが俺の現実だ。
「えっと……なんの仲間なの?」
とりあえず聞いてみた。なんの仲間なの、そう問われた彼だか彼女だかは首をかしげる。
「仲間ですよ。なんの仲間かはあなたが決めることです」
仲間……なんだ? 大学の同級生? 同じサークルの人? SNSの相互フォロワー? ネトゲで遊んでいる友達? どれも繋がりが希薄に思えた。それはそうだ、ほんとうに仲間だと思える人間がいればこんな怪しいサービスに応募しようなんて考えないのかもしれない。
「わからない……」
「わかりました。では明日からもっと仲間を増やしましょう」
――なんだって?
それから仲間の宅配は食品のサブスクの如く毎日届き続け(宅配業者もさすがに怪訝な顔をし始めた)、俺の部屋は同年代と思わしき何者かでいっぱいになった。
特に水や食料も必要としないようだし、手はかからないが、何をやるわけでもなく、それぞれの個性があるわけでもない……どんどん足の踏み場をなくしていくだけの仲間たちをかき分けて、あのすべての発端となったハガキを探そうとする。けれどとっくに捨てているらしかった。いや、こいつらの中の誰かが捨ててしまったのか?
だが、この空間には奇妙な安らぎがあった。
何者にもなれない俺という人間を埋め尽くしてくれるような何かが……いや。今理解した。
「「「私達はあなたの仲間です」」」
そういうことか。
結露した窓硝子にいつまでも寄りかかっていて寒くはないのだろうか。ご飯ぐらい椅子にすわって食べなよ、私が何度言っても彼はまるで聞く耳をもたず、眼鏡の奥にみえる切れ長の瞳を手許の電子書籍端末に落としつづけている。本を読む趣味がない私には、なにかめずらしい虫でも探しているみたいに見えた。
「そんなに下を向いてばかりいるといつか目玉が落っこちるよ」
「そうかもしれないな。君がそう言うなら」
いったい私をなんだと思っているのだろう。仕方がないので、鍋の中でまだぐつぐつと煮えているホワイトシチューをすくい、器に盛りつけて窓際に持っていってやる。もちろん木のスプーンもつけて。銀のスプーンは冬の底冷えをひろうのが趣味だから。
読書の趣味をもたない私にこう言う資格なんてないのだろうが、電子書籍は好きじゃない。表紙とか背表紙というものがないから、なにを読んでいるのか伝わらなくて悲しい。彼がいまなにに興味を持っているのか、私に知る権利は与えられていない。
出来立てのシチューはまた冷めるまで放っておかれるだろう。こんななにを考えているのかまるでわからない男の、なにを好きになったのか、最近よくわからなくなっている。窓の結露が雫になって床を蝕んでいる、このまま放置すればやがて腐りだすだろう。部屋を掃除する方法でも学んでくれていたら可愛いのにな、けれど私の願いはたぶん届いていない。
私が見てもまるでわからないような題名をつけられた、難しい世界の決まり事ばかり考えていそうだから、私は彼のことが好きなのだと思う。
「じゃあ、ちょっと出かけてくるから、シチュー冷めないうちに食べてね」
「出かける前にひとつ言っておくけれど、俺は君の思っているような人間じゃないと思う」
「脈絡がないね。私の脳内でも読んでる?」
「まさか。脱出ゲームの作り方だよ」
なるほど、彼は脱出ゲームを作ろうと思っているらしい。
それは楽しみだ。
出かける前に鍵がちゃんと掛かっているか確かめる。両足はしっかり枷をロックして鎖でつないであるし、念のためロープでも拘束してある。手は電子書籍を読める程度には自由にしておいたから、頑張ればシチューも食べられるだろう。
「君は自分が異常者だということに自覚がある?」
「何言ってるの……意味わからない」
熱々のシチューを食べずに本を読んでいるひとには言われたくないもんね、と私は笑った。
彼がきちんと留守番をしてくれるか心配になってきた。玄関の鍵をもうひとつぐらい自前で増やしてもいいかもしれない。防犯対策はいくらやってもいい、私は独り暮らしということになっているのだから。
外に落ちていたものを拾ってなにが悪いのだろう。
部屋の片隅に観葉植物を置くようなものだ。
私はただ美しいものが好きなだけ。
部屋と呼ぶには歪な直方体を、彼の吐いた二酸化炭素で満たしたいだけ。
(部屋の片隅で)