蜩ひかり

Open App

 僕の日常には何事もない。
 小学生の頃からもう人生には何事もないのが一番だと気づいてしまって、将来の夢に公務員と書いていた僕は、夢にまで見た適当な大人としての生活を手に入れた。
 夢は思ったより叶うし、叶ったほうがよい。
 ただし内容によるし、その後の人生の満足感を保証するものではない。

 もっとちゃんと夢を見ておくべきだったんだろうか。
 夢らしい夢を抱くには何が必要だったんだろうか。
 毎日朝早くに起き、同じ時間の電車に乗って、引っ越し屋に運ばれる荷物あるいは洗濯機にぶち込まれたYシャツでももう少し快適な生活をしているんじゃないかと思うほどの人口密度の中でただただじっとしている。
 やっと吐き出されても一息つく時間すらない。生活苦はない。ただ、楽しみもない。なんの物語も始まりそうにない。改札を出たらそこにはディストピア化した東京が広がっていたりしないし……の前に、通勤定期がなかった。
 どこかで落としたらしい。最悪だ。

「君、定期券を落とさなかった?」

 助かった。誰かが拾ってくれていたらしい。振り返るとそこには、アニメでも見たことがないようなパステルカラーのセーラー服を着た少女。彼女の周りだけを初夏のからりとした空気が取り巻いていて、通勤中の人通りが流れる小川のようにさえ見えた。改札口の向こうに風が吹き抜けていく。
 彼女のさしだした定期券に書かれていたのは、職場の最寄り駅ではなく、聞いたことのない駅名で。

「ここで終わり」
 え?
 セーラー服の少女が残念そうに言う。
「だって君の日常には何事もないみたいだし、私も今日は時間がないんだよね」
 そうなの?
 いや、こんなに何かが始まりそうだったのに?

 ……夢は見たほうがいい。
 そして、書き出しには気をつけるべきだ。
 僕が学びを活かす機会はあるんだろうか……。

(物語の始まり)

4/19/2025, 8:00:30 AM