#022 『理由はそれだけ』
雨が降っていることを忘れて玄関を開けてから慌てて低反発傘ベルトを取りに引き返すと、姉に「だから言ったのに」と笑われた。
うるせー、と返してからベルトを身につけ、起動させる。反発層が発生するまで約五分、その間は家を出られず玄関先に座り込んで待つ。発生に時間がかかるだけで、全身を包むのは早いんだけどなぁ。
「お先ー」
事前にベルトを起動させていた姉が俺を追い越していった。
今朝はいつもの地下鉄に間に合わないかもしれない。だが、自転車の傘差し運転は罰金が高い。結構な確率で見つかるし免停をくらう可能性があるから、濡れたくなければ待つしかないのだ。
原理はよく分からんが、規定粒度の水と湿気だけを反発してくれる「まとう傘」こと低反発傘ベルトは日本じゃ爆発的に売れた。自転車の傘差し運転がほぼなくなっただけじゃなく、傘を持ち歩くわずらわしさがなくなったと喜ぶユーザーは多いらしい。国のスタートアップ支援だとかなんとかで、意外に安価なのも好評だ。
ガレージに停めてあった自転車に乗り、駅へと急いだ。案の定いつもの地下鉄には間に合わなかったが、仕方ない。人混みの中、通路を急ぐ。
出口付近で同じ学校の制服を見つけ、俺は歩調を落とした。同じクラスの女の子だ。……今日も可愛い。
いつもは会わないのに、今日に限って会ったのは一本遅い地下鉄に乗ったせいか。だとしたらラッキーだ。
結構急いでも遅刻しそうな時間なのに、何やってるんだ? 声をかけるか迷いながら近づきかけたら、向こうが振り向いて目が合った。
「……はよ。遅刻するんじゃね?」
声をかけると、彼女は困ったように微笑んだ。
「今朝ね、寝過ごしちゃってあわてたの。それで傘、壊れてるの忘れて出てきちゃって。あたしの家、駅直結だから気づかなくて……」
彼女が差し出した低反発傘ベルトの起動部には、確かにエラーサインが出ている。
「濡れるの嫌だけど、走るしかないかな。傘を売ってるコンビニに寄るのも遠回り──」
「あー、入ってく?」
彼女が言い終える前に、つい食い気味に言ってしまった。
えっ、と小さくつぶやいた彼女の頬が赤くなる。しまった、深く考えずに言っちまった。
「いやその、今なら一緒に走れば間に合いそうだし? 多分ほら、このへん、袖をつかむだけでも大丈夫だから。せっかくここまで濡れずに来たんだからさ」
「あっ……うん。じゃあ、お邪魔しちゃっていいかな……」
彼女の華奢な指先が制服の袖先に触れる。起動しっぱなしだった反発層はすぐに広まって、小柄な彼女を包み込む。
「じゃ、ちょっと走ろうぜ。速すぎたら引っ張ってくれていいから」
ついつい早口に宣言して、俺は駅を出る。彼女は小走りについてくる。時々、腕や指先が互いに触れる。距離が近い。
走ったから、ってだけじゃ説明のつかない心臓の爆音を抱えながら、俺はいつもの通学路を急いだ。
お題/相合傘
2023.06.20 こどー
#021 『天界からの落とし物』
ある朝、毎朝恒例の掃き掃除をしていたら、緋袴を履いた少女が境内に落ちていた。
中高生くらいの可愛らしい少女だ。
……空から美少女が降ってきた系のラノベが流行ったのって、もうずいぶん前のことじゃないか?
真っ先に思ったのはそれだった。今の流行りは確か異世界転生やらやり直し系悪役令嬢ものじゃなかったか?
どこかから迷い込んだだけと思わなかったのは、我が家の境内では昔からこういうことがよくあるせいだ。
でかいものだとソファやテーブル、小さいものだとぬいぐるみやら文具やら食べ終えたスナック菓子の袋やら、時には古くさいブラウン管テレビやら電子レンジやらといった電化製品のこともあった。
子供の頃、級友に話したら嘘つきだと決めつけられ、それはそれは面倒な思いをしかけたものだが、実際を見せたら「不法投棄じゃね?」で話が終わった。
悔しかったので親父にねだって監視カメラを取り付けたが、そういう時期に限ってなかなか何も落ちてこない。
空のどこかから出現した物が落ちてくる決定的瞬間が取れた頃には俺は進学していて、ついでに、監視カメラを取り付けた理由も忘れかけていた。
その後も何かの飲み会で話したことはあったが、何せ空から落ちてくる物だけに大半は落下の衝撃で壊れていて役に立たない。役に立たないだけならまだしも廃棄の手間と金がかかるってんで、終いには憐れまれる始末だった。
話を戻そう。我が家の上空がどこかの不思議空間につながっているのは確定だとして、だ。
辺りに落ちていた棒切れで突くと、少女は小さく声を上げた。……生きてやがるよ。
いや、これはさすがにただの不法侵入者かなと思いかけた頃、そいつはうっすら目を開け、身を起こした。
「おぉ……おおおおぉ!?」
くりくりとした目で忙しなく周囲を見回す姿に、じわじわと嫌な予感を覚える。根拠はない。断じてないが……。
「おおぉ! ここが人界か! おぬし、名はなんと言う?」
勢いよく襟首をつかまれ、がっくんがっくん揺らされる。
多分、あれだ。俺は気づかないふりをして立ち去っておくべきだった。
あかんやつを拾ってしまったと思ったが、どうやらあとの祭りのようだった。
十分後、俺はそいつとともに客間にいた。
本人が言うにはそいつは神様のはしくれで、人界にはかねてから興味津々だったのだと言う。
家に入れる気はさらさらなかったのだが、仕方がない。休日には珍しく早起きしてきた娘に見つかってしまったのだ。
そりゃ、あれだけ大声で騒がれればな。
「……で? 天界の神様とやらがなんで巫女姿でこんなところに?」
そいつは両手で湯呑みを持ち、立ち上る湯気を不思議そうに眺めている。
「巫女姿、これか? 良いじゃろ? コスプレというやつじゃ!」
なんて?
「近くの学校の制服と迷ったんじゃがのー。そっくりの制服は売ってなくてのー」
そりゃそうだ。
「えぇと……それで? 神様はいったいなんのために我が神社まで?」
「なんのため……はて?」
神様とやらは不思議そうに首を傾げる。
「なぜか知らんが、落とされる側の身になってみろと侍従に突き落とされてのー」
コメントのしようもなく黙っていたら、首をふりふり、そいつは続けた。
「前々から、いらなくなったものはポイポイ捨ててたんじゃがのー。なんでもかんでも捨てるなと怒られてのー」
お・ま・え・かー!!
「まあ、役に立っとるじゃろ? このソファ、わっちがずいぶん前に飽きて捨てたやつじゃもんなぁ」
「神様、神様? 大半はゴミでしたけど?」
努めて冷静に俺は言う。神様とやらは再び不思議そうに首を傾げた。
「ゴミはゴミでも、役に立ってるじゃろ?」
いや、だから大半は本当なゴミでね、と続けようとした言葉を俺は呑み込んだ。来春には小学生になる娘が神様とやらの横にぴったりはりついている。
「ねー、パパー。かおちゃんもね、お空の上から落ちてきたよー? ぴゅーんって」
……駄目だ、娘は可愛い。ゆえに娘の前で神様とやらを糾弾するわけにはいかない。
「おぉー、かお! かおはめんこいのー」
並んでソファに座り、向き合ってキャッキャするさまは可愛らしいが、俺にしてみれば人質をとられているようなもんだ。
この天界からの落とし物とやらをどう始末したらいいのか、答えが出るのは遠い先のことになりそうだった。
お題「落下」
2023.06.19 こどー
#020 『精霊の花日記』
旧街道沿いの古い屋敷の前には広大な庭があって、誰もが四季折々の花を楽しめるようにと開放されていた。屋敷の女主人は物静かな人で、自由に庭を散策する人々をいつも穏やかな目で見つめていた。
テーブルの上には香り豊かな紅茶と茶菓子、それに古びた表紙の一冊の本。中身は女主人が気まぐれに描く花の線画で、白紙のページがなくなれば大半の紙を入れ替え、抜いたものは製本して屋敷の書斎に保管しているのだという。
ただし本の最初のページだけは一度も抜かれることなく、ずっと同じ位置にあり続けた。他はすべてモノクロの線画なのにその一ページだけには花びらが一枚ずつ貼り付けられ、ところどころに数字が記されている。
好奇心旺盛な子供の頃、その意味を尋ねたら女主人は微笑んで言った。
「一年が過ぎたことをすぐ忘れてしまうから、その年最初に見つけた勿忘草から花びらを一枚だけいただいてるの」
よく意味も分からないまま「ふーん」と答え、それきり忘れ、その意味に不意に思い至ったのは十数年が過ぎ、すっかり大人になってからのことだった。
女主人は年をとらない。なんでも先祖返りなのだそうで、一族には時々、そういう性質の女性が生まれるのだそうだ。
ある時から突然食事量が落ち、睡眠時間が増えて、それから髪や爪が伸びなくなった。不老を悟ったその年から、彼女は花日記を始めたのだという。
その枚数を数えてみたいという誘惑は、頭をよぎっただけですぐに消えた。それは彼女だけが知っていればよいことだから。
一年前、自分は今より一歳若かった。
そんな当たり前のことが当たり前ではない時間の中を、彼女はただ一人過ごしている。
お題/1年前
2023.06.17 こどー
#019 『一度だけの理由』
紫陽花が咲く頃になると、そろそろ実家に顔を出さなきゃと思う。
実家は居心地のいい場所ではなかったから、お盆や年末年始でさえ、理由をつけて帰省しないことの方が多かった。年に一度も顔を出せば十分だよという姉の言葉と距離に甘えて、今年はまだ一度も帰省していない。
夫と娘の都合を聞いて、姉の都合を聞いて、それから駅前の和菓子屋の営業日を確認した。今年も取り扱いの始まった紫陽花のお菓子の画像をうっとり眺め、帰省という儀式の後の唯一のお楽しみに想いを馳せる。
アレルギーで洋菓子が食べられないわたしにとって、そのお店のお菓子は洋菓子にも負けないくらいキラキラして見えた。私が子供の頃は全然そんなじゃなかったけど、キラキラの路線に足を踏み入れてからは、昔ながらの定番のお菓子と並行して、色鮮やかで華やかなお菓子展開を継続しているらしい。
中でもわたしが一等お気に入りなのは、淡く色づけた寒天を細かく刻み、白餡を包んだお菓子だった。洋菓子店のショーウィンドウに張り付いてたわたしがアレルギー持ちと知った和菓子屋のご主人が特別に作ってくれたものだった。
駅前に降り、梅雨の合間のじっとり重い空の下からお店に入れば、色鮮やかな練り切りをはじめとしたお菓子ぎ所狭しと並んでいる。
「いらっしゃーい、……あら! 久しぶりやね」
年に一度しか顔を出さないのに、女将さんは今も顔を覚えてくれていた。
「紫陽花のお菓子、今年もいただきに来ました。自宅用に六個と、それからお土産でこっちの……」
この時期にしか立ち寄らない事情を聞きもせず、女将さんは愛想よくお菓子を包んでくれる。
「いつもありがとうね。またご贔屓にね」
紙袋を手に店を出ると、来た時には視界から外れていた駅舎の横で色鮮やかな紫陽花がさざめいていた。
お題/あじさい
2023.06.13 こどー
#018 『安らかな眠り』
眠れないんだ、と少年は言った。半年ほど前、突然目の前に現れた魔物に不眠を願って以来のことだという。
眠らずとも体力が尽きることはなく、二十四時間を余すところなく使えるようになるはずだった。ゲーム、動画視聴、ジョギング、音楽鑑賞、筋トレ、時々勉強、しんと静まり返った深夜の一時。そのどれもが楽しく、これまでの睡眠時間のすべてを充ててもまだ時間ぎ足らないほどだと思っていた。
眠りたい。高校の修学旅行の二日目、二徹に挑戦した級友たちが全員脱落した部屋で、真摯に願った。眠りたい。
眠れないんだ、と青年は言った。すぐ隣では名前も知らない女が寝息を立てている。
足りなかったはずの時間をいつしか持て余すようになっていた。やりたいことがあるはずなのに、何もやりたいと思わない。
眠りたい。深酒をして酩酊しても眠気を感じることはなかった。ただただ流れる無為な時間は苦痛でしかない。眠りたい。あらゆる感覚を閉ざし、意識さえも手放してしまいたい。
眠れないんだ、と老人は言った。通常なら意識を失うような怪我をしても、完全に気を失ってしまうことはなかった。眠りとは気絶と同義なのだと思い知らされた。
眠りたい。もう何十年眠っていないのかさえ分からない。かつて眠らなくてよい肉体に変えてくれた魔物が実在していたのかどうかも分からない。
ただ、何もしない時間を何もしないままにやり過ごすことには慣れた。苦痛を感じないわけではないが、他にやりようがないだけだ。
始まったが最後、終わりのない時間を持て余すようになるとは思わなかった。なんて最悪な願いごとをしてしまったのだろうと何度も何度も考えた。
ある時、唐突に初めての感覚に襲われた。胸のあたりがざわつき、呼吸が苦しくなり、何かがいつもと違うと思った。
針先で突かれるような痛みが、やがて剣山でも押し当てられているような痛みへと変わっていく。これは初めてのことだと思った。わけが分からないままにうめき、背を丸め、その場に崩れ落ちた。
そして訪れた少年時代以来の眠りが、すべてを奪った。
お題/最悪
2023.06.07 こどー