鏡の森 short stories

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#019 『一度だけの理由』

 紫陽花が咲く頃になると、そろそろ実家に顔を出さなきゃと思う。
 実家は居心地のいい場所ではなかったから、お盆や年末年始でさえ、理由をつけて帰省しないことの方が多かった。年に一度も顔を出せば十分だよという姉の言葉と距離に甘えて、今年はまだ一度も帰省していない。
 夫と娘の都合を聞いて、姉の都合を聞いて、それから駅前の和菓子屋の営業日を確認した。今年も取り扱いの始まった紫陽花のお菓子の画像をうっとり眺め、帰省という儀式の後の唯一のお楽しみに想いを馳せる。
 アレルギーで洋菓子が食べられないわたしにとって、そのお店のお菓子は洋菓子にも負けないくらいキラキラして見えた。私が子供の頃は全然そんなじゃなかったけど、キラキラの路線に足を踏み入れてからは、昔ながらの定番のお菓子と並行して、色鮮やかで華やかなお菓子展開を継続しているらしい。
 中でもわたしが一等お気に入りなのは、淡く色づけた寒天を細かく刻み、白餡を包んだお菓子だった。洋菓子店のショーウィンドウに張り付いてたわたしがアレルギー持ちと知った和菓子屋のご主人が特別に作ってくれたものだった。

 駅前に降り、梅雨の合間のじっとり重い空の下からお店に入れば、色鮮やかな練り切りをはじめとしたお菓子ぎ所狭しと並んでいる。
「いらっしゃーい、……あら! 久しぶりやね」
 年に一度しか顔を出さないのに、女将さんは今も顔を覚えてくれていた。
「紫陽花のお菓子、今年もいただきに来ました。自宅用に六個と、それからお土産でこっちの……」
 この時期にしか立ち寄らない事情を聞きもせず、女将さんは愛想よくお菓子を包んでくれる。
「いつもありがとうね。またご贔屓にね」
 紙袋を手に店を出ると、来た時には視界から外れていた駅舎の横で色鮮やかな紫陽花がさざめいていた。

お題/あじさい
2023.06.13 こどー

6/13/2023, 2:47:03 PM