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7/14/2025, 11:31:52 PM

廃校になった小学校の隅に、小さな文房具棚が残されていた。誰のものだったのか分からない、名前の消えかけた鉛筆が、そこに五本、きちんと並んでいた。

「まだあるんだ」
僕は埃を払って、そっと一本を手に取った。六年ぶりの帰省。海辺のこの町にはもう祖母もいない。けれど、あの夏の終わりに、何かを忘れてきた気がしていた。

あの日も、空はこんな風に高かった。アスファルトに滲む陽炎。通学路の途中にある駄菓子屋の軒先で、かき氷をこぼして泣いていた僕に、彼女はそっとハンカチを差し出してくれた。

「泣くと、塩味になるから、やめたほうがいいよ」

その声を、今も覚えている。彼女は転校生だった。淡い麦藁帽子に、白いワンピース。毎朝、同じ時間に通学路の桜並木を通ってきて、教室の隅で静かに座っていた。

「絵、描くの好きなの」
ある日、そう言って見せてくれたスケッチブックには、夏の雲や、風鈴、駅前の時計台が、鉛筆だけで緻密に描かれていた。

僕はその日から、彼女の隣に座るようになった。何か言葉を交わすわけでもなく、ただ、静かに、隣で絵を見ていた。それが、心地よかった。

夏休みに入る数日前、彼女はふいに言った。

「ねえ、夏の終わりに、ひとつだけ、約束してもいい?」
「うん」
「この町に、また来て。わたし、ここに、何か残していくから」

それが何なのか、訊けなかった。八月末、彼女は突然、また転校していった。置き手紙も、連絡先もなかった。

あれから、ずっと思っていた。あの“何か”とは、なんだったのか。

僕は文房具棚の下にある、木製の引き出しを開けた。中に、一冊のスケッチブックがあった。表紙には、鉛筆で描かれた町の風景。めくると、そこにはあの夏の日々が、確かに記されていた。

駅前で見送る僕。夕暮れの堤防。教室で笑う僕たち。
そして、最後のページには、小さくこう書かれていた。

「また、夏に会いに来てくれて、ありがとう」

僕は鉛筆を握りしめた。少しだけ、芯が折れそうな気がしたけれど、それでも、彼女の描いた夏は、確かに、ここにあった。

校舎の窓から見える海が、陽に照らされて光っていた。潮の香りと蝉の声が、どこか懐かしく響いていた。

僕はそっと、スケッチブックを胸に抱えて、もう一度、あの坂道を歩き出した。
鉛筆一本で繋がれた、遠い記憶の、その続きを探すように。

7/13/2025, 10:29:16 PM

黄昏時の光が、窓際の古い写真立てを淡く照らしていた。埃をかぶったその写真には、十代の母と、知らない青年が肩を寄せ合って笑っていた。

「この人、誰?」
 私は思わず声に出していた。

 母は台所で煮物をかき混ぜていたが、ぴたりと手を止めてこちらを見た。その目に、一瞬だけ過去の影が宿ったのを見逃さなかった。

「昔の友達よ」
 それだけを残して、再び鍋に向き直る。鍋の中で沸き立つ泡の音だけが、しばらくの沈黙を埋めた。

 その夜、私は眠れなかった。古びたアルバムを押し入れから引っ張り出して、静かにページをめくる。母の若い頃の写真には、あの青年が何度も登場していた。けれど、どのページにも名前も説明もない。ただ、母の横にはいつもその男がいた。

 翌日、町の図書館で古い卒業アルバムを閲覧した。そこにその男の名前を見つけた瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。名前は「村井翔太」。母と同じ学年で、成績優秀。だが、卒業を前に失踪し、消息不明と記されていた。

 帰宅後、私は再び母に尋ねた。

「翔太さんって、母さんの恋人だったんじゃないの?」

 母は黙っていた。いつも穏やかな目が、どこか遠くを見つめていた。静かな間が、何かを語り始める前の合図のように続いた。

「翔太は、あんたの父親なのよ」
 その一言は、家の中の空気を変えた。

 私は混乱した。小さい頃に亡くなったと聞かされていた父とは、別人の名前だ。戸籍に記された名は「中原修一」。母の再婚相手で、私にとっての“父親”だった人。

「じゃあ、本当のお父さんは…生きてるの?」

「わからない。あの春、急に姿を消したの。誰にも何も言わずに」

 母は写真立てを手に取り、その男の笑顔を見つめた。

「でもね、私は信じてる。彼は私たちのそばを離れたんじゃない。きっと何か…理由があったのよ」

 その夜から、私は翔太という存在を追いかけ始めた。図書館の古い新聞、町の記録、同窓会の名簿。断片的な情報の中で、彼の存在は少しずつ浮かび上がってきた。

 そして、ある雑誌の古い記事に行き当たった。

「高校生、突然の家出。教師との対立、家庭問題が背景か」
 記事には、顔写真が載っていた。間違いない。あの写真の男だ。

 その記事の下には、ある教師の名前が載っていた。中原修一。――私の戸籍上の父だった。

 事実を知ったのは、その三日後のことだ。昔の教師仲間を訪ね、修一について聞いた。彼は、翔太と何度も進路を巡って衝突していた。家庭が複雑で、翔太の母親も病気だった。大学進学を諦め、家を継ごうとする翔太に、教師である修一は進学を強くすすめたという。だが、ある日を境に、翔太は姿を消した。

 もしかして、彼を追い詰めたのは修一だったのか。
 それとも、彼が真実から逃げたのか。

 母に話すと、彼女はぽつりと言った。

「修一さん、あの人なりに私と子どもを守ろうとしてくれたのよ」

 真実は、もしかしたらもう誰にもわからない。だが、私は今、ようやく少しだけ前に進める気がした。

 それは、写真立ての中で笑っている青年と、私の中の何かがようやく重なったからだった。
 長く隠されたままだったその想いが、ようやく言葉になった気がした。

「ありがとう、父さん」

 私はそう呟いて、そっと写真立ての埃をぬぐった。黄昏の光は、写真の中の二人を、やさしく包み込んでいた。

7/13/2025, 2:02:46 AM

夕方の風が、縁側の簾をやわらかく揺らしていた。
祖母の家に帰るのは、三年ぶりだった。

軒先には、ガラスの風鈴が吊るされていた。淡い水色の玉に、金魚の絵が描かれている。小さいころ、祖母の膝に座ってそれを見上げながら、飽きもせず鳴るのを待っていた記憶がある。
あのときの風と音は、どこか、時間の流れを止めてしまうような力があった。

「おかえり」
部屋の奥から祖母が顔を出した。少し小さくなったその背中に、時の重みを見たような気がして、胸の奥がきゅうと締めつけられた。
「急に帰ってくるなんて言うから、びっくりしたわよ」
「…うん、ちょっとだけ、息をつきたくてさ」

都会の生活は、音が多すぎた。電話の呼び出し音、パソコンの打鍵音、エレベーターのアナウンス。すべてが自分の中を通り抜けるたびに、少しずつ何かが削れていくようで、怖くなったのだ。
祖母の家は、それらが全部遠い場所にあるように思えた。

夕飯のあと、縁側に座って風を待った。
空には、少しずつ色が混ざり始め、遠くの山影が紫色に沈んでいく。

そのとき——、微かな音が耳を打った。
ちりん。

記憶の奥にしまっていた扉が、そっと開くような感覚。
風鈴の音は、小さく、小さく鳴った。
それだけなのに、不思議と目頭が熱くなった。

祖母はそっと隣に腰かけた。
「覚えてる? これ、あんたが小学生のとき、夏祭りで欲しいって言ったやつよ」
「……覚えてる。金魚、かわいいって」
「そう。あんた、帰りの電車でずっと抱えててね、割れるのが怖くて」

ふたりで静かに笑った。
もう会えない人のことも、あの夏の夕立のことも、思い出はすべて、ここに置いてあった。

「風が、止んじゃったね」
「うん。でもまた吹くわよ、必ず」

それは、祖母の言葉だったけれど、自分にも向けられた気がした。
焦らなくてもいい、立ち止まってもいい、というような。

しばらくして、少しだけ風が戻ってきた。
風鈴がまた、そっと鳴った。
それは、いまの自分にだけ聞こえる、やさしい合図のようだった。

7/8/2025, 8:54:25 PM

六月の終わり、梅雨がぶり返したように空が重たく垂れこめていた。

僕は有給を使って、久しぶりに実家へ帰っていた。母が入院したと電話があったのは一週間前。大事には至らなかったけれど、父がひとりでは手に余るというので、古びた駅で降り立った。傘をさすほどでもない霧雨のなか、蝉の声はまだ聞こえてこない。

玄関の鍵を開けると、かすかに木の匂いと埃が混じった空気が迎えてくれた。誰もいない家なのに、声をかけたくなるのはなぜだろう。

「ただいま」

声は思ったよりも大きく、居間の奥に吸い込まれていった。

部屋の隅に、色褪せたアルバムが置かれていた。母が寝る前に見ていたのだろう。ページをめくると、僕と妹、そして若いころの父と母。薄れかけたプリントのなかに、夏の陽射しが閉じ込められていた。

——あの夏の日。僕は七歳で、妹はまだ三歳だった。

裏庭にあるあの高台へ、家族で登ったことを思い出す。父が作った木製のベンチがあって、その隣で母が持たせてくれた水筒の麦茶を飲んだ。遠くに見える田んぼが風に揺れて、金色に波打っていた。空はあくまでも青く、雲が静かに流れていた。

その風景は、アルバムには写っていない。でも、僕のなかには確かに残っている。

その晩、父と二人で夕食をとり、ふと「明日、あの高台に行ってみようか」と言ってみた。父は驚いたように顔をあげたが、すぐにうなずいた。

「そうだな。あそこ、草ぼうぼうだろうけど」

翌朝、雨は上がっていた。土がまだ湿っていて、靴の裏に少し泥がついた。懐かしい道を歩くと、子どもの頃よりも狭く感じる。父は黙って前を歩いていたが、風に乗って昔話を一つずつこぼしてくれた。

「おまえがあのとき、転んで泣いたの、覚えてるか?」

「覚えてるよ。母さんが虫さされに塗る薬、ぬってくれた」

「そうか。あのときの景色、忘れてないか」

父が立ち止まり、笑った。

「俺もだ」

草むらをかき分けて、高台に出た。ベンチはすっかり朽ちて、座るには心許ない。それでも、僕らはその場に立って、静かに見下ろした。

変わったものも、変わらないものもある。家の屋根は少し色を変え、遠くのスーパーは建て替わっていた。けれど田んぼの広がりと、風の音、湿った空気に混じる土と草の匂いは、あの夏と少しも変わらない。

その瞬間、何の前触れもなく、風が頬をなでた。空がひらけ、雲が割れ、光が差し込んできた。

——そう、こんな光だった。

胸の奥が、不意に熱くなる。誰に言うでもなく、口に出してみた。

「あの日の景色、まだここにあったんだな」

父は何も言わなかった。ただ、隣で目を細めて、空を見上げていた。

 

あの場所には、何も記念碑などない。ただの土と草の高台に過ぎない。けれど、僕たちの心には、確かに刻まれていた。写真には残らない、匂いや、光や、風の感触とともに。

もう一度だけ、母が元気になったら、あの場所に連れて行ってみよう。妹も一緒に。

7/4/2025, 11:39:45 PM

海辺の町に、古びた郵便局がある。今では使われなくなった手動の消印機が、埃をかぶって隅に置かれている。局長を務める佐伯俊介は、かつて都会の中央郵便局で働いていたが、十年前、妻を亡くしたのをきっかけにこの町へ越してきた。

 ある夏の午後、俊介のもとに一通の手紙が届いた。差出人の欄には名前がなかったが、見覚えのある丁寧な筆跡が躍っていた。

「お元気ですか。あなたがこの町にいると風の噂で聞きました。あの頃のことを、少しだけ思い出しています。」

 署名もなければ、返送先もない。ただ封の内側に、小さな押し花が挟まれていた。薄く色褪せた桔梗の花弁。その紫が、ふいに記憶の奥をつついた。

 俊介がまだ二十代だった頃、学生運動の熱が街を覆っていた。彼はその喧噪から一歩引いたところにいて、詩を書き、風景を撮り、手紙を書いた。ある日、駅前の喫茶店で出会った女性——藍子は、風のように自由な心を持っていた。

「風って、色があると思うの。私は、青い風が好き」と彼女は笑った。

 その一言は、俊介の記憶の中で、鮮やかに焼きついた。ふたりは何度も手紙を交わしたが、時代の波に飲まれ、やがて消息を絶った。俊介は藍子を探さず、ただ手紙を焼いた。残ったのは、一枚の写真と、短い詩だけだった。

 ——青い風 きみの髪を撫でて ぼくの声を運ぶ

 その夜、俊介は桔梗の花を携えて、町はずれの岬に立った。ここから吹く風は、海を渡ってどこまでも届く。彼はふとポケットから古い万年筆を取り出し、便箋に言葉を綴った。

「君の言う、青い風が吹いている。あのとき僕は、何も掴めなかったけれど、今なら少しだけ、風の重さがわかる気がするよ。」

 書き終えた手紙と押し花を封筒に入れ、切手を貼る。そして消印機の前に立ち、埃を払った。ガチャリ、と久々に鳴ったその音は、まるで時を遡るようだった。

 翌朝、その手紙はどこかへ向けて出されていった。返事が来ることは、おそらくない。それでも俊介の胸には、かすかな温もりが残った。

 海から吹き上げる風が、彼の白髪を揺らした。色は、確かに青だった。

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