NoName

Open App

廃校になった小学校の隅に、小さな文房具棚が残されていた。誰のものだったのか分からない、名前の消えかけた鉛筆が、そこに五本、きちんと並んでいた。

「まだあるんだ」
僕は埃を払って、そっと一本を手に取った。六年ぶりの帰省。海辺のこの町にはもう祖母もいない。けれど、あの夏の終わりに、何かを忘れてきた気がしていた。

あの日も、空はこんな風に高かった。アスファルトに滲む陽炎。通学路の途中にある駄菓子屋の軒先で、かき氷をこぼして泣いていた僕に、彼女はそっとハンカチを差し出してくれた。

「泣くと、塩味になるから、やめたほうがいいよ」

その声を、今も覚えている。彼女は転校生だった。淡い麦藁帽子に、白いワンピース。毎朝、同じ時間に通学路の桜並木を通ってきて、教室の隅で静かに座っていた。

「絵、描くの好きなの」
ある日、そう言って見せてくれたスケッチブックには、夏の雲や、風鈴、駅前の時計台が、鉛筆だけで緻密に描かれていた。

僕はその日から、彼女の隣に座るようになった。何か言葉を交わすわけでもなく、ただ、静かに、隣で絵を見ていた。それが、心地よかった。

夏休みに入る数日前、彼女はふいに言った。

「ねえ、夏の終わりに、ひとつだけ、約束してもいい?」
「うん」
「この町に、また来て。わたし、ここに、何か残していくから」

それが何なのか、訊けなかった。八月末、彼女は突然、また転校していった。置き手紙も、連絡先もなかった。

あれから、ずっと思っていた。あの“何か”とは、なんだったのか。

僕は文房具棚の下にある、木製の引き出しを開けた。中に、一冊のスケッチブックがあった。表紙には、鉛筆で描かれた町の風景。めくると、そこにはあの夏の日々が、確かに記されていた。

駅前で見送る僕。夕暮れの堤防。教室で笑う僕たち。
そして、最後のページには、小さくこう書かれていた。

「また、夏に会いに来てくれて、ありがとう」

僕は鉛筆を握りしめた。少しだけ、芯が折れそうな気がしたけれど、それでも、彼女の描いた夏は、確かに、ここにあった。

校舎の窓から見える海が、陽に照らされて光っていた。潮の香りと蝉の声が、どこか懐かしく響いていた。

僕はそっと、スケッチブックを胸に抱えて、もう一度、あの坂道を歩き出した。
鉛筆一本で繋がれた、遠い記憶の、その続きを探すように。

7/14/2025, 11:31:52 PM