黄昏時の光が、窓際の古い写真立てを淡く照らしていた。埃をかぶったその写真には、十代の母と、知らない青年が肩を寄せ合って笑っていた。
「この人、誰?」
私は思わず声に出していた。
母は台所で煮物をかき混ぜていたが、ぴたりと手を止めてこちらを見た。その目に、一瞬だけ過去の影が宿ったのを見逃さなかった。
「昔の友達よ」
それだけを残して、再び鍋に向き直る。鍋の中で沸き立つ泡の音だけが、しばらくの沈黙を埋めた。
その夜、私は眠れなかった。古びたアルバムを押し入れから引っ張り出して、静かにページをめくる。母の若い頃の写真には、あの青年が何度も登場していた。けれど、どのページにも名前も説明もない。ただ、母の横にはいつもその男がいた。
翌日、町の図書館で古い卒業アルバムを閲覧した。そこにその男の名前を見つけた瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。名前は「村井翔太」。母と同じ学年で、成績優秀。だが、卒業を前に失踪し、消息不明と記されていた。
帰宅後、私は再び母に尋ねた。
「翔太さんって、母さんの恋人だったんじゃないの?」
母は黙っていた。いつも穏やかな目が、どこか遠くを見つめていた。静かな間が、何かを語り始める前の合図のように続いた。
「翔太は、あんたの父親なのよ」
その一言は、家の中の空気を変えた。
私は混乱した。小さい頃に亡くなったと聞かされていた父とは、別人の名前だ。戸籍に記された名は「中原修一」。母の再婚相手で、私にとっての“父親”だった人。
「じゃあ、本当のお父さんは…生きてるの?」
「わからない。あの春、急に姿を消したの。誰にも何も言わずに」
母は写真立てを手に取り、その男の笑顔を見つめた。
「でもね、私は信じてる。彼は私たちのそばを離れたんじゃない。きっと何か…理由があったのよ」
その夜から、私は翔太という存在を追いかけ始めた。図書館の古い新聞、町の記録、同窓会の名簿。断片的な情報の中で、彼の存在は少しずつ浮かび上がってきた。
そして、ある雑誌の古い記事に行き当たった。
「高校生、突然の家出。教師との対立、家庭問題が背景か」
記事には、顔写真が載っていた。間違いない。あの写真の男だ。
その記事の下には、ある教師の名前が載っていた。中原修一。――私の戸籍上の父だった。
事実を知ったのは、その三日後のことだ。昔の教師仲間を訪ね、修一について聞いた。彼は、翔太と何度も進路を巡って衝突していた。家庭が複雑で、翔太の母親も病気だった。大学進学を諦め、家を継ごうとする翔太に、教師である修一は進学を強くすすめたという。だが、ある日を境に、翔太は姿を消した。
もしかして、彼を追い詰めたのは修一だったのか。
それとも、彼が真実から逃げたのか。
母に話すと、彼女はぽつりと言った。
「修一さん、あの人なりに私と子どもを守ろうとしてくれたのよ」
真実は、もしかしたらもう誰にもわからない。だが、私は今、ようやく少しだけ前に進める気がした。
それは、写真立ての中で笑っている青年と、私の中の何かがようやく重なったからだった。
長く隠されたままだったその想いが、ようやく言葉になった気がした。
「ありがとう、父さん」
私はそう呟いて、そっと写真立ての埃をぬぐった。黄昏の光は、写真の中の二人を、やさしく包み込んでいた。
7/13/2025, 10:29:16 PM