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海辺の町に、古びた郵便局がある。今では使われなくなった手動の消印機が、埃をかぶって隅に置かれている。局長を務める佐伯俊介は、かつて都会の中央郵便局で働いていたが、十年前、妻を亡くしたのをきっかけにこの町へ越してきた。

 ある夏の午後、俊介のもとに一通の手紙が届いた。差出人の欄には名前がなかったが、見覚えのある丁寧な筆跡が躍っていた。

「お元気ですか。あなたがこの町にいると風の噂で聞きました。あの頃のことを、少しだけ思い出しています。」

 署名もなければ、返送先もない。ただ封の内側に、小さな押し花が挟まれていた。薄く色褪せた桔梗の花弁。その紫が、ふいに記憶の奥をつついた。

 俊介がまだ二十代だった頃、学生運動の熱が街を覆っていた。彼はその喧噪から一歩引いたところにいて、詩を書き、風景を撮り、手紙を書いた。ある日、駅前の喫茶店で出会った女性——藍子は、風のように自由な心を持っていた。

「風って、色があると思うの。私は、青い風が好き」と彼女は笑った。

 その一言は、俊介の記憶の中で、鮮やかに焼きついた。ふたりは何度も手紙を交わしたが、時代の波に飲まれ、やがて消息を絶った。俊介は藍子を探さず、ただ手紙を焼いた。残ったのは、一枚の写真と、短い詩だけだった。

 ——青い風 きみの髪を撫でて ぼくの声を運ぶ

 その夜、俊介は桔梗の花を携えて、町はずれの岬に立った。ここから吹く風は、海を渡ってどこまでも届く。彼はふとポケットから古い万年筆を取り出し、便箋に言葉を綴った。

「君の言う、青い風が吹いている。あのとき僕は、何も掴めなかったけれど、今なら少しだけ、風の重さがわかる気がするよ。」

 書き終えた手紙と押し花を封筒に入れ、切手を貼る。そして消印機の前に立ち、埃を払った。ガチャリ、と久々に鳴ったその音は、まるで時を遡るようだった。

 翌朝、その手紙はどこかへ向けて出されていった。返事が来ることは、おそらくない。それでも俊介の胸には、かすかな温もりが残った。

 海から吹き上げる風が、彼の白髪を揺らした。色は、確かに青だった。

7/4/2025, 11:39:45 PM