六月の終わり、梅雨がぶり返したように空が重たく垂れこめていた。
僕は有給を使って、久しぶりに実家へ帰っていた。母が入院したと電話があったのは一週間前。大事には至らなかったけれど、父がひとりでは手に余るというので、古びた駅で降り立った。傘をさすほどでもない霧雨のなか、蝉の声はまだ聞こえてこない。
玄関の鍵を開けると、かすかに木の匂いと埃が混じった空気が迎えてくれた。誰もいない家なのに、声をかけたくなるのはなぜだろう。
「ただいま」
声は思ったよりも大きく、居間の奥に吸い込まれていった。
部屋の隅に、色褪せたアルバムが置かれていた。母が寝る前に見ていたのだろう。ページをめくると、僕と妹、そして若いころの父と母。薄れかけたプリントのなかに、夏の陽射しが閉じ込められていた。
——あの夏の日。僕は七歳で、妹はまだ三歳だった。
裏庭にあるあの高台へ、家族で登ったことを思い出す。父が作った木製のベンチがあって、その隣で母が持たせてくれた水筒の麦茶を飲んだ。遠くに見える田んぼが風に揺れて、金色に波打っていた。空はあくまでも青く、雲が静かに流れていた。
その風景は、アルバムには写っていない。でも、僕のなかには確かに残っている。
その晩、父と二人で夕食をとり、ふと「明日、あの高台に行ってみようか」と言ってみた。父は驚いたように顔をあげたが、すぐにうなずいた。
「そうだな。あそこ、草ぼうぼうだろうけど」
翌朝、雨は上がっていた。土がまだ湿っていて、靴の裏に少し泥がついた。懐かしい道を歩くと、子どもの頃よりも狭く感じる。父は黙って前を歩いていたが、風に乗って昔話を一つずつこぼしてくれた。
「おまえがあのとき、転んで泣いたの、覚えてるか?」
「覚えてるよ。母さんが虫さされに塗る薬、ぬってくれた」
「そうか。あのときの景色、忘れてないか」
父が立ち止まり、笑った。
「俺もだ」
草むらをかき分けて、高台に出た。ベンチはすっかり朽ちて、座るには心許ない。それでも、僕らはその場に立って、静かに見下ろした。
変わったものも、変わらないものもある。家の屋根は少し色を変え、遠くのスーパーは建て替わっていた。けれど田んぼの広がりと、風の音、湿った空気に混じる土と草の匂いは、あの夏と少しも変わらない。
その瞬間、何の前触れもなく、風が頬をなでた。空がひらけ、雲が割れ、光が差し込んできた。
——そう、こんな光だった。
胸の奥が、不意に熱くなる。誰に言うでもなく、口に出してみた。
「あの日の景色、まだここにあったんだな」
父は何も言わなかった。ただ、隣で目を細めて、空を見上げていた。
あの場所には、何も記念碑などない。ただの土と草の高台に過ぎない。けれど、僕たちの心には、確かに刻まれていた。写真には残らない、匂いや、光や、風の感触とともに。
もう一度だけ、母が元気になったら、あの場所に連れて行ってみよう。妹も一緒に。
7/8/2025, 8:54:25 PM