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夕方の風が、縁側の簾をやわらかく揺らしていた。
祖母の家に帰るのは、三年ぶりだった。

軒先には、ガラスの風鈴が吊るされていた。淡い水色の玉に、金魚の絵が描かれている。小さいころ、祖母の膝に座ってそれを見上げながら、飽きもせず鳴るのを待っていた記憶がある。
あのときの風と音は、どこか、時間の流れを止めてしまうような力があった。

「おかえり」
部屋の奥から祖母が顔を出した。少し小さくなったその背中に、時の重みを見たような気がして、胸の奥がきゅうと締めつけられた。
「急に帰ってくるなんて言うから、びっくりしたわよ」
「…うん、ちょっとだけ、息をつきたくてさ」

都会の生活は、音が多すぎた。電話の呼び出し音、パソコンの打鍵音、エレベーターのアナウンス。すべてが自分の中を通り抜けるたびに、少しずつ何かが削れていくようで、怖くなったのだ。
祖母の家は、それらが全部遠い場所にあるように思えた。

夕飯のあと、縁側に座って風を待った。
空には、少しずつ色が混ざり始め、遠くの山影が紫色に沈んでいく。

そのとき——、微かな音が耳を打った。
ちりん。

記憶の奥にしまっていた扉が、そっと開くような感覚。
風鈴の音は、小さく、小さく鳴った。
それだけなのに、不思議と目頭が熱くなった。

祖母はそっと隣に腰かけた。
「覚えてる? これ、あんたが小学生のとき、夏祭りで欲しいって言ったやつよ」
「……覚えてる。金魚、かわいいって」
「そう。あんた、帰りの電車でずっと抱えててね、割れるのが怖くて」

ふたりで静かに笑った。
もう会えない人のことも、あの夏の夕立のことも、思い出はすべて、ここに置いてあった。

「風が、止んじゃったね」
「うん。でもまた吹くわよ、必ず」

それは、祖母の言葉だったけれど、自分にも向けられた気がした。
焦らなくてもいい、立ち止まってもいい、というような。

しばらくして、少しだけ風が戻ってきた。
風鈴がまた、そっと鳴った。
それは、いまの自分にだけ聞こえる、やさしい合図のようだった。

7/13/2025, 2:02:46 AM