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2/28/2025, 11:23:55 AM

あの日の温もり

いつか君と行った映画がまた来る
授業を抜け出して二人で出かけた
かなしい場面では涙ぐんでた
素直な横顔が今も恋しい
雨に破れかけた街角のポスターに
過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる
君もみるだろうか「いちご白書」を
二人だけのメモリー
何処かでもう一度

僕は無精髭と髪をのばして
学生集会へも時々出掛けた
就職が決まって髪を切って来た時
もう若くないさと君に言い訳したね
君も見るだろうか「いちご白書」を
二人だけのメモリー
何処でもう一度…

「いちご白書」をもう一度 作詞 荒井由実

「いちご白書」をもう一度は、1975年の曲であり「いちご白書」とは「国家権力に無抵抗で戦う名門校に通う若者の姿を描いた映画である」

1968年にアメリカの名門校で実際に起きた闘争を体験したジェームズ・クーネンのノンフィクション小説を映画化したものである。

舞台は、ベトナム戦争の最中のアメリカのエリート校。ここの学生のサイモンは、反戦運動や政治活動に興味のない学生であったが、近所の子供達が遊び場に使っている公園の土地が買収され軍の組織が立つ計画の裏の取引を知ることとなる。そんな中で、ある人物たちとの出会いが、彼の人生を大きく変えて行く結果となる…。その答えは視聴者が模索し考える。

「ただのゲームより、闘争こそ真実よ!」は名台詞で、その真実を見極めるのが君や僕らですつうやつです。激しい学生運動映画ではなく、とても重くて、物悲しさのある映画です。

はい、これ、どっかの新しぶってる学園ドラマの元ネタと思われます。だいたいね、もう映画もドラマもその歴史100年超えて来ますから、全て何かの模倣であります。
それが普通です。

教師がクールだの熱血だの関係ありません。だって学園ドラマの教師はクールな奴ほど熱血で、破天荒です。
非常識でなければ、時代の壁は破れないん違うんですかぁ?www なんでいきなり腐ったミカンは放り出せの常識論者になるのですかぁ?支離滅裂になってますけど分かってらっしゃる?www 
そこのあなた達www

学園ドラマの教師像は「二十四の瞳」の頃からワンパターンで、ポンコツ新米でも泣き虫先生でも、破天荒な元暴走族でも、田舎のプレスリーでも、余命幾ばくも無くても、クールなエリートでも、み~んな、本当は、胸の奥で生徒たちに未来の夢や希望を乗せている、青くさい熱血教師なんですよwwwでなきゃ話になんないのwww そして、生徒たちも、不良でも地頭良くて、優等生でも素直で正義感が強いの、でなきゃドラマになんないのwww それが古今東西今昔の学園ドラマに流れている「あの日の温もり」なんです。学園ドラマなんだから、教師や生徒にサイコパスがいる殺人ミステリーとかなら話は学園ドラマの枠になんないのよwww ミステリー枠やホラー枠になる。
これ、大人の約束今も昔も。

あの日の学生時代の温もりを忘れるな、思い出せ、そして考えろというのが学園ドラマなのですwww 周回遅れのトップは若者にとっては、はじめて観るから新しく感じる。年寄はやっぱり時代は巡り巡っているのだと分かるだけ、別に頭の良し悪しでなく、観たものが多少多いだけ引き出しが多いだけなんよwww それを経験って呼ぶ。
経験は馬鹿になんないのよwww

あの日の温もり、それは経験という財産だww


世の中はいつも変わっているから
頑固ものだけがかなしい思いをする

変わらないものを何かにたとえて
その度崩れちゃそいつのせいにする…


ようするに長いものに巻かれるなって!言ってます、この青臭さが学園ドラマです。

あの日の温もり。


後書き

さぁ、週末ですが、そんなの関係のない、未だにあの日の温もりの中にいる、引きこもりは白ヤギさんから黒ヤギさんに新聞者だか新聞配達みたいな時間に問答送るのかしらねwww さみしいというか、本当に新聞配達に出掛けているのでなければ、そんな時間にスマホに向かえる案外幸者なのかしらね、そんな人達ってwww 今の日本の若者たちは生温かく恵まれているわwww それでも、今自分が若くて目にするもの全てが新しく、自分たちが時代の最先端だと思うのは若さの特権でイイね。けれど二十年もすれば時代錯誤のガラクタ呼ばわりされるのよ、Z世代もその次の世代にね、ザマァですねwww 時間ってそういうものだから。

団塊の世代の全共闘達は、そのほとんどがその後しっかり髪を短くして就職して、御上になり1980年代の日本をつくりました。なんたってエリートですもんwww エリートのやることは何時の時代も大差ありません、良くも悪くも。若さは純粋無垢だからこそ時に暴力的で無軌道に突き進みます、今のネットイナゴだって全共闘と大差ありません、全て正義感の裏側でしかありません。

そうしてバブルは崩壊しましたが、スマホはその後の生まれですが、研究開発はその前です。

私たちは時代の流れの一部であり、後の世代が与えられたものの上にふんぞり返り与えしものを見下すことは、それこそ無能の阿呆です。そもそも令和なんてまだ、生まれて、7年の小学1年生です。今、ここにあるものは、全て、平成があり昭和があり大正、明治がありそれ以前があったからこそ有るものです。歴史を見縊ってはいけません。厳しく、そして失敗も成功も、喜びも悲しみもあるからこそ未来は繋がって行くのです。 

歴史からは、批判精神ではなく謙虚さを学びたいですね。

あの日の温もりから出てみて始めて、あの日の温もりの意味って分かるのかもねwww



令和7年2月28日 

                心幸  
           
 



 

2/27/2025, 11:24:33 AM

cute!

感嘆符ついてるから「かわいい〜っ!」って感じで良いのかしら?www

「かわいい〜っ!」って今は誰にでも使っちゃえる時代で、なんだか冴えないオジサンでも、「かわいい〜っ!」て言われちゃいますね、「私も〜ぉ!」と同じくらい軽薄で吹けば飛ぶような実の無い言葉だと個人的には思っています。良いんだか悪いんだか、下げてんだか上げてんだか、馬鹿にしてんだか、愛情示してんだか曖昧な若者言葉だと思っています。

日本語で「Cute!」「可愛い」は、本来は「かわいそうだ」「哀れだ」という言葉が起源で出来ています。「かはゆし」「かははゆし」と表現され「恥ずかしくて顔を赤くして覆い隠す」仕草などに使われた言葉で、それが「哀れで愛おしい」に転じたものです。

そう言えば「愛しい」と書いて「哀しい(かなしい)」とも読みますし、「もののあはれ」という言葉も心を動かされた時に出る溜息のような詠嘆の言葉であったようで日本語の豊かさを表す言葉であると思うと同時に、日本人は、哀しみを美しいものだと例えるところがあるのでしょうかねと思います。「もののあはれの愛おしさ」儚いものへの憐憫が「可愛い」という言葉に繋がっているように思います。このような、憂いのある言葉を母国語と語れることに誇りを感じると同時に、多様な言葉での表現力を身につけることの出来る日本人であることを大切にしたいと思いました。

叱責叱咤の言葉は受け取る方は「悪口」と言い、発する方は「正論」と思っていることが多々です。だから、「正論は吐く」と表現されます。

もし仮に「悪口」を言うなと叱責するなら、自分の胸に手をあてて、自分は「正論」と思い誰かを叱責叱咤したことは無かったか?と考えることをお勧めしますwww 自分は全く人を評価も批判も叱責も叱咤もしたことが無く、怨み言を言ったことも無いと言い切れる者だけが、人の悪口を責めなさい。

これは、子供を育てる時に由々しき問題でしたが、私は悪口は言うなとは言いませんでした。人間は、誰しも腹の立つことも、これは違うと思うこともある、熱が入れば喧嘩にもなる、寧ろ喧嘩にならん相手の方に気をつけなきゃならない、そんな奴は大抵、陰口言ってるからwww 悪口は言っても仕方ないけど陰口は言うな、けど会社に入って上司が出来たら、陰口くらいで止めておけwww ただ、大勢で一人の事を言うのは、悪口も陰口もやめておけ、自分の値打ちが下がるからと教えました。まあ、もう大人なので今は言いませんし、そんなことは自分で決めるでしょうけど、うちの子たちは悪口よりも陰口よりも大勢で一人を責めることを嫌いますね、それは良い悪を別にして。


昨日、とても不思議な言葉を話す若者をテレビで見ました。流行りのYouTuberであるようでしたが、自分の祖父くらいの、ひとつの世界を誠実に勤め上げ、功績も残された人生の大先輩を称し終始「彼」と呼んでいて、ドン引きしました。その若いYouTuberは「彼」と呼ぶことに尊敬の念を込めていたのでしょうか?そこはせめて「〇〇さん」と呼んでくださる方が、それこそ若者らしい爽やかな可愛らしさがあったように思いました。格好良く「彼」と呼ばれたのかも知れませんが、実に軽くて謙虚さの無い残念な言葉使いに、これが流行りのYouTuberかとガッカリしてしまいました。少し前も、歳上にタメ口キャラのYouTuberさんが上げられて調子乗って下げられて集中砲火の私刑で叩かれて、何処かへ行ってしまったけれど、こういう使い捨て感覚が腫れ物にでも触るように育てられた世代の創造する新しい?時代の縮図なのでしょうかねwww そりゃあ、自称 複雑な世の中の生き辛さを背負った繊細さんになる訳です。そもそも、色々あっても平気な顔して笑ってる、その笑顔の下に幾つもの涙を隠してる、そんな人が繊細なのだと思います。繊細な人は自分を自分で繊細と言うほど図々しくないわwww 勿論、それは個人にも世代にも言えることです。

「二十歳超えてんだよね、あの彼」
親の顔が見たいわ…。

思わず、テレビに向かって呟いていた婆さんでしたwww

お口直しに気分を変えて。

「花の色は うつりにけりな いたずらに
 我が身世にふる ながめせしまに」
              
               小野小町

花の色は、すっかり移り変わってしまったわ、
春の長雨が降っていて、私が虚しい気持ちであの人のことを思っているあいだに! そうしているあいだにも、私の美しい盛りが終を告げて衰えてしまったわ、、と小町さんはシトシトと降る雨に濡れ花弁を萎め俯く紅梅に我が身を重ね溜息をつくのでした。

その姿、いとあはれなり。

「she is cute !」英語ってやっぱ安ぽくて軽薄だよね、こういう時www 「I love you」も「she is cute !」も実に誰にでも言いやすい言葉である。良くも悪くも…(笑)

言葉はやはり日本語ですって、そりゃあ日本人ですもの(笑)

現代訳 心幸でした。




令和7年2月27日 

               
後書きの物語

自作自演はいい加減お止めよ、模倣じゃなくて君のは自慰だもの、独りきりの部屋でブルーライトに写る自分と争っている。鏡に向かって「シャーシャー」鳴いてる猫なら「Cute!」って言葉がピッタリだけど。

君のは、違う。

だから一行かせいぜい三行程度が精一杯の呟きしか書けないんだろう?
君の淋しさがあの場所を支配しているよ。

一行のお返事を書くために、長文を書く、また一行を書くの一人芝居の一人舞台。
一人でやってるの分かるよ、可哀想にと思って相手したら、調子に乗ったね。じゃなきゃ、自分が誰も彼もに理解され寄り添って〜ぇと泣く子供と、文章を書く場で文章を書けないピーマンの食わず嫌い選手権大会でもやってるつもりなのかな? あの場所www 
午前3時、4時の問答、よーく考えろよ、そりゃあ、どっちもどっちだろwww どっちもどっちなのではないのか?www 極端な人たちは結局同じだよなってことを、披露しているなら良く出来ている。

僕は、もう助けないよ。
同情はするが、君を理解はしない。

君が、自分で自分を助け、自分に寄り添えるこ
とを祈っている。そうすれば、誰かが寄り添ってくれるよ、誰も彼にも理解を求めるなwww


人を世を語るのはそれからだ。

お大事に









2/26/2025, 11:43:41 AM

記憶

前説

本当にネットなんとやらってのは、ぼんくらピーマンの寄せ集めだよwww

なんだね、お前さん藪から棒に。藪の中から棒が出て来て藪から棒だよ「藪の中」とは違うんだよ、いくら話しの分からないお前さんでも分かんなきゃいけないよwwwと可愛いお狐様が言ったかどうかは知らないけれど、、。

「様」つけりゃあ礼を弁えているとか思ってんのかねぇ?「様」でも「君」でも「御上」でもそこに心がなきゃねぇ、態々つける敬称や丁寧な言葉を「慇懃無礼」と言いますわ。ましてや悪意を持って丁寧な言葉使いなんて下衆の極みってもんだよwww 

ぼんくらはさぁ、狭い了見で自分に合わせて他人様の暮らしぶりを考える訳さ暇なもんなんだろうねぇwww そりゃあ、引きこもりの学生や社会人崩れと、セミリタイアの孫の居る世代と暇は暇でもその意味随分違う事くらい、ぼんくら頭でも想像しないと、なーんも分かりゃあしないよwww 全くどんな大層な家事育児やってやがんだろうねぇwww 

てめえの、チマチマっとした推量で、騒いで祭りしてたら、どっちもどっちのブーメラン頭に刺さっちまってますぜって言われやんすよwww
てめえんちの僕ちゃんとくらべられちゃあ、世も末だって、お天道様の御親戚も泣いてなさるやも知れねぇなぁwww
って口上でごさんしたwww

最近、江戸弁がマイブームなので使ってみましたwww 

只今 江戸弁勉強中www



「記憶 〜時は偉大な作家である〜」

「私たちには時間がある」

人生の絶望から自殺をはかった売れない新人女優をたまたま救った老芸人は、そう言って、彼女の濡れたツヤツヤ光る黒髪にタオルを掛けた。

自身の暮らしも楽ではないが、彼は彼女を見捨てられず、世話をやく。大切な商売道具のバイオリンを質に入れ、彼女を演劇のクラスに通わせ身なりも整えさせる。自身は売れない大道芸人かつては、大舞台のカーテンコールで中央に立ち喝采をあびる役者であった。そんな彼は今、その劇場の前でビールケースの上に立ちスタンダップコメディをして投げ銭を貰っている

そこを通る誰もが彼を忘れ去り、記憶していない。

そんな男が、駆け出しの売れない女優がパトロンに去られて、愚かにも自殺をはかろうとしたところを彼は助け、何故だか彼女に今生かされている、、、薹が立った芸人は、この娘を一端の女優にすることを夢見、劇場の前に立つのだ昨日の記憶を忘れるようにキラキラと。

やがて、彼女は彼の後押しと自身の努力によりその劇場の舞台に立つ、そして彼女は立派な女優へと花開く…。

その舞台を老芸人は見つめ静かに目を閉じる。

忘れたい記憶も、忘れたくない記憶も時という作家は、人生という素晴らしい叙事詩にする。

忘れたい記憶も忘れたくない記憶も、「人生」という名のドラマは必ず包み込んでくれる。
大事なのは生ききることだ!

「時は、偉大な作家である」 

「ライムライト」リスペクトオマージュ

偉大なる映画の神様、チャールズ・チャップリンに敬意を込めて。


令和7年2月26日

               心幸 

後書き

本日の後書き、いやーもしかして本日のお題「記憶」じゃなくて「記録?」www こりゃあ老眼鏡必要か!?ってかwww これこそが記録つうことでwww 記憶しておこう。

てか、字が小せーんだよ!えっ、人のせいかよwww 

そして、記するかどうか迷いましたが、記することにしましたことをひとつ。

もやもや病はメンタルヘルス系の心の病ではありません、脳の血管の病です。その歴史も古く1950年代頃には研究もされ文献もある病です。芸能人では歌手の徳永英明さんは、この病を公表されていらっしゃいますね。
なぜ、このもやもや病について触れたのかと言いますと、正直な気持ちで誤解されたくなかったからです。実は私の母もこの病を長く患っておりましたが、結婚し私という娘も授かっております。私も母がそいう病を持っておりましたので脳ドックは欠かせませんが今のところ問題なく過ごさせていただいており、子供も孫もおりその子たちも今のところ遺伝は認められておりません。

もやもや病という病名は、なんとなくメンタルヘルス系の精神疾患のようにも取れますが違います。脳の動脈が閉塞しそれを補う為に発生した脆弱な血管が煙のようにレントゲンなどで写るため、もやもや病と名付けられた、脳血管の病気です。

まだ私の母がこの病を患っていた頃は一般的でもなかった病名でしたので、誤解を受けそうで母の病名を言えなかったことを今恥ずかしく思い出します。母も随分心も痛めたことでしょうが、逞しく過ごしていた、記憶しか記録(アルバムなど)に残っておりませんwww あれから50年近くの月日が経ちます。医療は先人たちの経験と研究とで日進月歩でしょう。

記憶は記録され生かされ続けて行くはずです。
案ずるより産むが易しですね(笑)


だれかに気遣ってって願うのは自分勝手な独り善がりですよwww あなたに気遣って欲しいって、そんなにその人に拘るから与えられないのかもねwww 神様って案外イケズかも。気遣って貰えなくても平気な人になると気遣ってもらえるって皮肉もあるのかも知れませんねwww





2/25/2025, 1:37:45 PM

さぁ冒険だ

草原のマルコ 〜母を訪ねて三千里より〜

はるか草原を一掴みの雲が
あてもなく彷徨い飛んでゆく
山もなく谷もくなにも見えないしない
けれどマルコお前は来たんだ
アンデスに続くこの道を

さぁ、出発だ
今、陽が昇る

希望の光両手に掴み
ポンチョに夜明けの風はらませて
母さんのいるあの空の下
はるかな北を目指せ


小さな胸中に刻みつけた願い
母さんの面影もえてゆく
風の詩草の海さえぎないものはない
そしてマルコお前は来たんだ
母さんをたずねてこの道を

さぁ、出発だ
今、日が昇る

行く手に浮かぶ朝焼けの道
膨らむ胸に憧れだいて
母さんに会える喜びの日を
はるかに思い描け

「フランダースの犬」1975年
「母を訪ねて三千里」1976年

1970年代の子供を育てた「世界名作劇場」確かに現代のコンプライアンスに反するのかも知れないが、現代の子供たちのために再放送して欲しいアニメだ。

「フランダース犬」「母を訪ねて三千里」に加えて「名作劇場」第3作「あらいぐまラスカル」までが3部作。私の友人は大人になって付き合った歳下の彼氏が「ラスカル」を知らないことに溝を感じて別れた経験を酒を飲みながら未だに話すwww それくらい当時の子供たち特に女子にとっては、日曜日のサザエさんの後のお約束であった。

懐かしいと思うものの共感共有は、まことに強い絆を生むということだ。私は上も下も歳の離れた人と付き合った経験がない為この経験を実感的にしたことはないが、やはり改めて考えてみると、好きや嫌いの共感よりも、懐かしいと思うものの共感は心に染み入る。懐かしい漫画アニメ、ドラマ映画、バラエティ、音楽、風景…懐かしい想いを共有出来ることは、側にいなくても共に生きたような錯覚を起こし、心の距離が近くなるのだ。

「好きこそものの上手なれ」好きに拘ることは自分を育み「好き」の共感は世界を広げるが一転「嫌い」に転じそれに拘れば傷つけ合うだけの生産性の無いものになってしまう。ましてや、「好き」から転じた「嫌い」は、拘れば拘るほど、みっともなく怨み節に変化すれば、狂気じみたストーカー気質になりがちで、「好き」や「嫌い」でしか人との世の中との繋がりが表現出来ないことは、心の未熟さを晒しているようなものだ。好きや嫌いを凌駕する懐かしいさの共有共感は、共に生きた時間への共に見た歴史への想いに繋がるのだろう。


ともあれ、「世界名作劇場」は1975年の「フランダース犬」を第一作と数えるらしく、提供は初期がカルピスで「トム・ソーヤの冒険」あたりからハウスに変わるらしいが、もう一度あの様なアニメ漫画を子供たちの為に創造するという冒険を大人たちにして欲しいものだ。

1960年代後半から1970年代は、私の子供時代であったが、ここにあげた「子ども劇場」の他にも、この時代の子供向けアニメには、大人になってふと思い出すような、そんな子供には難し過ぎるようなテーマを持ったものも少なく無かった。長い宿題を出されたような子供には重いテーマを持たようなものが多く、その時は分からないまま時は過ぎ、大人になってふと気づくその奥深いテーマ。それは、古いプーさんとその仲間たちのようなイマジナリーフレンドに再会したような心持ちになり有り難い想いになるのだ。

ここにあげておくが「ポニョは魚の子ではなく、人魚の姿をした、少年のイマジナリーフレンドだ」それを歌だけ聞いて魚の子と鵜呑みにする情緒の無さは嘆かわしいと言える、小学低学年ならいざ知らず。

それが想像の翼ってやつだwww
物語読む時に大事なやつで、これが無いと他でも「人魚なの!」「犬なの!」っていつまでも言ってる不粋になる。あの頃のアニメには、そんな上級教育ではなくwww 情操教育に秀でた子供向け番組も、また、逆なものも沢山あり、今よりずっと多様性が有り自由であった。そんな中で子供は自由に感受性を伸ばす事が出来た。

良くできる優等生ばかりではないから、大人たちは大変だっただろう。けれど大人たちは、面倒くさがらずに子供を躾けていたなと思う。嘗てこんな言葉をどこかで読んだことがある「若い頃、戦争で沢山人と人が殺し合い、目の前で友人が殺されるのを見て帰った人たちは、次の世代の子供たちに夢を持ち冒険し輝く未来を築いて欲しいという願いを込めて、子供向け番組を作っていた」そうだという。バトンは渡されていた、そんな後悔と夢と愛情とが乗せられて。

人生は冒険旅行
さぁ 冒険だ

私たち、嘗ての子供は、今子供たちに遺せる心は、有るのか? 大人サボってないか? 自分の不甲斐なさの言い訳に、自分たちが楽する為に子供を良い子ちゃんにして、冒険や失敗や負けて勝つって言葉の意味を教える事をサボっていないか?と自問する。 そんな怠惰な大人だらけじゃ子供も安全パイで生きたがり怠惰な大人になり、怠惰な子供をつくるのだろう。揃っていて与えられたものを当たり前だと嘯いて感謝も出来ない、可哀想な人をつくるのだろう。 



「母を訪ねて三千里への招待状 🐵
 〜ちょっと 脚色〜」

イタリアの港町ジェノバに、兄と両親と慎ましく暮らす少年マルコ。けれど一家の生活は貧しくなるばかり、兄を鉄道学校に通わせたい、未就学のマルコも学校に通わせたい、そんな思いを胸に母はジェノバの港から遠く離れたアルゼンチンに出稼ぎに行きます。

まだ、母が恋しいマルコは、寂しさに耐え母を見送ります。その日から、マルコにとって何よりも大切なものは母からの便りになりました。

マルコは教会に通って母の無事を祈り読み書きを習います。母からの手紙が読めるよう、母に手紙が出せるよう。しかし、母からの手紙は途絶え、母の行方は分からなくなってしまいます。父や兄や近所の人々は、きっと母は家族を捨てたのではないかと言いましたが、マルコは母を信じ、半ば家出同然に、母を訪ねてアルゼンチン行きの船に下働きとして乗り込みます。

さぁ、冒険だ!

アルゼンチンの母を訪ねて少年マルコは旅をする、道中人に騙されたり売り飛ばされたりボロボロになりながらも、友人や道連れの相棒にも恵まれて、母を信じる思いだけを胸に旅を続けます。


そして、ラストマルコは・・・


母を信じるマルコの湧き出る泉のような勇気と清い心が強い川の流れをつくり母のいる国へと続いて行く愛と冒険の物語です。




令和7年2月25日 

               心幸


後書き

心配で心配でって子を思ったふりして、自分の気持ちしかなくて、子をニートの引きこもりのどら息子にしてしまう哀しい親は子をおんぶに抱っこ、親バカはいつまでも子を高い高いしている。我が息子ちゃんお嬢ちゃんを高い高いしている。そして子は、与えられるのは当たり前とふんぞり返りながら、親に囲われながら、ままならない不甲斐なさを自信のなさを親のせいにする。そんな子が、毒親と親を呼ぶ可哀想な無限ループが出来上がる。

冒険は子の特権と分かっているなら、人差し指を自分に向けてみwww。

親がどう言おうが冒険に出ちまうのが子離れってやつで、その時はじめて親の恩を知るんだろうね、そんなことも分からん人差し指を自分に向けられない親バカが、わが子囲って引きこもりを作るのさwww 親バカは、いつまでも生きていないから、親におんぶに抱っこの子は放り出されて、また親を怨み世間を怨む。5080の出来上がりだwww

国が誤って殺し合いに拐われでもしない限り強制的志願ででもない限り、子離れの時は自然に訪れる。子は勝手に冒険に出て行く、そうでなければ駄目なのだと思います。何時までも、親に囲われているようじゃねぇwww






2/24/2025, 1:08:50 PM

一輪の花

情熱の真っ赤な薔薇は花瓶に水を与えなければ枯れてしまう。

花瓶に水をあげましょう
心のずっと 奥の方

永遠なのか本当か 
時の流れは続くのか
いつまでたっても変わらない
そんなもの有るだろうか

見てきたものや聞いたこと
今まで覚えた全部
デタラメだったら面白い
そんな気持ち分かるでしょ

なるべく小さな幸せと
なるべく小さな不幸せ
なるべくいっぱい集めよう
そんな気持ち分かるでしょ

答えはきっと奥の方
心のずっと奥の方
涙はそこからやってくる
そんな気持ち分かるでしょ

情熱の真っ赤な薔薇を
胸に咲かせよう
花瓶に水をあげましょう
心のずっと奥の方 

「情熱の薔薇」  作詞 甲本ヒロト 

何曲か心の歌があるけれど、自分を励ます歌があるけれど、「情熱の薔薇」はそんな一曲だ。
凹んだ時はだいたいこの曲と「リンダ・リンダ」「YAH YAH YAH」あとはアン・ルイスメドレーを熱唱すればスッキリだ!ありがとう歌謡曲、ありがとうTHE BLUE HEARTS。 

そして、凹んだ時に詠う一遍の詩がある。

君は一本の葦だ
商売という汚れた土の上に立つ
一本の葦だ 

自分をつくる歌や詩は私になにか新しい息吹を吹き込んでくれる。朝の光の中で花開く一輪の花のように…合掌。


国語力読解力は基本中の基本だ。国語力読解力がなければ、理系も難しい文章を読み解き応用する力がなければ、学問に成果は望めないし、何より、仕事も成果があがらないだろうし、寄り添う〜ことも優しくありたい〜ことも出来ないだろう。人の心を推し量り想像する為にも基本は大事だ。

基本がなければ自由にもなれない。基本があるから自由に型破りになれるのだ。自由とは基本が大事だ、これを「守破離」と言う。自由とは一定のルールが必要で、自由になるためには不自由に耐えなければならないということだ。基本も知らない者が自由自由と叫ぶことは悪癖ででありましょう。

昔どなたでしたかが「ネット〇〇は頭が悪い人が多い」とか書かれた記事を読んだことがありますが、なるほどと納得しています。どこでも、ことさら自分たちの正義に拘り正義感を隠れ蓑にして自分たちの考えを汚く叫び野次る人たちは、語彙力が乏しい、だから直ぐに暴力に訴える、どこかの国会も反社も区別がつかんつうwww と考えると、つくづく国語力は大切だと考えるwww


ところで、カエルの王様は、そんな噺じゃないですよwww

あれは、「出来ない約束はしなさんな」という戒めが語られたグリム童話です。

ある日、小さな国を治める国王に娘が授かった国王は、それはそれはこの娘を可愛がり慈しみ育てた。娘が年頃になると、王様は娘に悪い虫でもつかぬように、目を配らせ注意をし、大切な娘に相応しい王子を探し諸国に使者を送らせた、姫も父の言葉を良く信じ、白馬に跨る美しい王子様が自分を迎えに来ると夢見毎夜長いブロンド色の髪を侍女に梳かさせ胸を躍らせて居たのでした。

そんなある昼下がり、鞠つきをしていた姫は転がる鞠を追いかけて森に入ったのでした。森は丁度お城の裏手にあり、普段姫はあまり立ち入らぬ場所でしたが、鞠を追いかけているうち、その森の中に入り込みました。見ると鞠は森の中にある古い沼に落ち沼の真ん中あたりまで流れて行ってしまいました。「どうしましょう」姫は随分悩みました。父が他国に行ったおりに買って来てくれた、珍しい手の込んだ朱色や金色の糸で編まれた刺繍の施された鞠は、姫の大層お気に入りの鞠でしたし、ドレスもお気に入りの誂えたばかりのドレスでした。そして何より沼に手や脚を入れて汚れることが何より気持ち悪いことだと考えました。姫が考え倦ねている様子を見ていた、沼の上に広がる蓮の葉の上にいたカエルの王子様が、姫の足元に寄って来て言いました。「姫よ、悲しむことなかれ、僕はこの沼を治めるカエルの王子だ、どうして欲しいんだい」と姫に尋ねました。姫は「あの鞠が沼に落ちてしまって、お願いです取ってくださらない」と言いました。すると、カエルの王子は「分かったとってあげるよ、だけどひとつだけお願い、取ってあげるから僕と仲良しになって、僕のお嫁さんになってよ」と言いました。姫は少し考えましたが、ここは自分とカエルの王子様しかおらず、カエルの王子も所詮カエルだし、構わないわと考えて「ええ、分かったわ、お約束するから鞠を取ってくさらない」と言いました。カエルの王子は「本当に!嬉しいな」と飛び跳ね鞠を取り姫に渡しましたすると姫はカエルの王子を振りはらい、一目散に城へ帰ったのでした。

「トントントン」その夜、姫と王様が夕食を取っていると、先ほどのカエルの王子がやって来て王様に言いました。「私は、城の裏にある沼の王子、先ほど姫と婚姻の約束を交わしました」と藪から棒に王様に申し出ましたが、他ならぬ沼の王子の申し出、自然に畏敬の念を持つ王様は、姫に約束したならば約束を守らなければ災いが起きるやも知れない、カエルの王子との約束を守らなければならないと告げ、カエルの王子を姫の横に座らせ一緒に食事をとらせ、寝室も同じにしました。姫は王様の突然の変わりように落胆、けれど自分が鞠を取って欲しさに、カエルの王子が小さなカエルであると見縊って、出来もしない約束を簡単にしてしまったことを恥じていました。もう、心の中では白馬の王子様への夢物語はどうでも良くなって、今目の前にいるカエルの王子との千夜一夜物語をどう切り抜けるかで頭が一杯になっていました。姫はとりあえず謝りましたが、そんな許してもらうがための謝罪など、カエルの王子に通じるわけもありません。けれど、姫は他に成す術も知らず、今度は誠心誠意己の軽率で品位分別に欠けた軽口を、カエルの王子に涙を流して詫びました。すると、カエルの王子に、かけられた魔法がとけて、カエルの王子は姫と同じブロンドの輝く髪と澄んだ湖を思わせる深い藍色の瞳が白い肌に映える美しい王子様に変わりました。姫はあれほど夢に描いたような王子様が目の前に現れた喜びよりも、自分の軽口が許されたことに安堵し涙を流しました。二人は静かな合衾の夜を迎えました…。という戒めのお伽噺。

簡単に「ごめんなさい」って謝って、心の中で舌出して、「何度でも簡単に軽口を寄っちゃあする。守れない約束を平気でするお嬢ちゃんは、いねえがーあ!」って噺。この噺が転じて、憧れが手に入ると、コロリと趣旨変換で「ごめんなさーい」「わたしもぉー」と寝落ちした目が急に目覚めたような言動になることを最近 「蛙化現象」と呼ぶらしいです。これが本当のカエルの魔法ですねwww 良かった下衆な話じゃなく戒めの噺でwww


「持論」

この世と言う世知辛い世間の土にしっかりと、根を張り、凛として風に向かって立つ一輪の花でありたい。

Stand Alone 凛として立つ。

寄りかからず共に立ち歩く、誰のせいでもない自分の人生だから。

独り立ち自分の有るが儘に尊い生を有り難く生きるそれが、釈迦が生まれ落ちた直ぐに唱えたとされる言葉「唯我独尊」誰かにシナダレ生きる囲われでは文句も言えまい。


令和7年2月24日

              心幸 

今日の後書き

なに屁理屈言ってるんだろwww
「書く習慣」は「書く練習」
書く習慣が身につけば、自然と上がるさ国語力www 国語力あがんないと、私が好きなの〜ぉ、嫌いなのぉ〜、もう嫌い!有り得ない!のプンプン丸になっちゃうのwww でなきゃ絵文字いっぱいの絵日記www 文字で文章で表現する「書く習慣」をつけましょうwww

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