さぁ冒険だ
草原のマルコ 〜母を訪ねて三千里より〜
はるか草原を一掴みの雲が
あてもなく彷徨い飛んでゆく
山もなく谷もくなにも見えないしない
けれどマルコお前は来たんだ
アンデスに続くこの道を
さぁ、出発だ
今、陽が昇る
希望の光両手に掴み
ポンチョに夜明けの風はらませて
母さんのいるあの空の下
はるかな北を目指せ
小さな胸中に刻みつけた願い
母さんの面影もえてゆく
風の詩草の海さえぎないものはない
そしてマルコお前は来たんだ
母さんをたずねてこの道を
さぁ、出発だ
今、日が昇る
行く手に浮かぶ朝焼けの道
膨らむ胸に憧れだいて
母さんに会える喜びの日を
はるかに思い描け
「フランダースの犬」1975年
「母を訪ねて三千里」1976年
1970年代の子供を育てた「世界名作劇場」確かに現代のコンプライアンスに反するのかも知れないが、現代の子供たちのために再放送して欲しいアニメだ。
「フランダース犬」「母を訪ねて三千里」に加えて「名作劇場」第3作「あらいぐまラスカル」までが3部作。私の友人は大人になって付き合った歳下の彼氏が「ラスカル」を知らないことに溝を感じて別れた経験を酒を飲みながら未だに話すwww それくらい当時の子供たち特に女子にとっては、日曜日のサザエさんの後のお約束であった。
懐かしいと思うものの共感共有は、まことに強い絆を生むということだ。私は上も下も歳の離れた人と付き合った経験がない為この経験を実感的にしたことはないが、やはり改めて考えてみると、好きや嫌いの共感よりも、懐かしいと思うものの共感は心に染み入る。懐かしい漫画アニメ、ドラマ映画、バラエティ、音楽、風景…懐かしい想いを共有出来ることは、側にいなくても共に生きたような錯覚を起こし、心の距離が近くなるのだ。
「好きこそものの上手なれ」好きに拘ることは自分を育み「好き」の共感は世界を広げるが一転「嫌い」に転じそれに拘れば傷つけ合うだけの生産性の無いものになってしまう。ましてや、「好き」から転じた「嫌い」は、拘れば拘るほど、みっともなく怨み節に変化すれば、狂気じみたストーカー気質になりがちで、「好き」や「嫌い」でしか人との世の中との繋がりが表現出来ないことは、心の未熟さを晒しているようなものだ。好きや嫌いを凌駕する懐かしいさの共有共感は、共に生きた時間への共に見た歴史への想いに繋がるのだろう。
ともあれ、「世界名作劇場」は1975年の「フランダース犬」を第一作と数えるらしく、提供は初期がカルピスで「トム・ソーヤの冒険」あたりからハウスに変わるらしいが、もう一度あの様なアニメ漫画を子供たちの為に創造するという冒険を大人たちにして欲しいものだ。
1960年代後半から1970年代は、私の子供時代であったが、ここにあげた「子ども劇場」の他にも、この時代の子供向けアニメには、大人になってふと思い出すような、そんな子供には難し過ぎるようなテーマを持ったものも少なく無かった。長い宿題を出されたような子供には重いテーマを持たようなものが多く、その時は分からないまま時は過ぎ、大人になってふと気づくその奥深いテーマ。それは、古いプーさんとその仲間たちのようなイマジナリーフレンドに再会したような心持ちになり有り難い想いになるのだ。
ここにあげておくが「ポニョは魚の子ではなく、人魚の姿をした、少年のイマジナリーフレンドだ」それを歌だけ聞いて魚の子と鵜呑みにする情緒の無さは嘆かわしいと言える、小学低学年ならいざ知らず。
それが想像の翼ってやつだwww
物語読む時に大事なやつで、これが無いと他でも「人魚なの!」「犬なの!」っていつまでも言ってる不粋になる。あの頃のアニメには、そんな上級教育ではなくwww 情操教育に秀でた子供向け番組も、また、逆なものも沢山あり、今よりずっと多様性が有り自由であった。そんな中で子供は自由に感受性を伸ばす事が出来た。
良くできる優等生ばかりではないから、大人たちは大変だっただろう。けれど大人たちは、面倒くさがらずに子供を躾けていたなと思う。嘗てこんな言葉をどこかで読んだことがある「若い頃、戦争で沢山人と人が殺し合い、目の前で友人が殺されるのを見て帰った人たちは、次の世代の子供たちに夢を持ち冒険し輝く未来を築いて欲しいという願いを込めて、子供向け番組を作っていた」そうだという。バトンは渡されていた、そんな後悔と夢と愛情とが乗せられて。
人生は冒険旅行
さぁ 冒険だ
私たち、嘗ての子供は、今子供たちに遺せる心は、有るのか? 大人サボってないか? 自分の不甲斐なさの言い訳に、自分たちが楽する為に子供を良い子ちゃんにして、冒険や失敗や負けて勝つって言葉の意味を教える事をサボっていないか?と自問する。 そんな怠惰な大人だらけじゃ子供も安全パイで生きたがり怠惰な大人になり、怠惰な子供をつくるのだろう。揃っていて与えられたものを当たり前だと嘯いて感謝も出来ない、可哀想な人をつくるのだろう。
「母を訪ねて三千里への招待状 🐵
〜ちょっと 脚色〜」
イタリアの港町ジェノバに、兄と両親と慎ましく暮らす少年マルコ。けれど一家の生活は貧しくなるばかり、兄を鉄道学校に通わせたい、未就学のマルコも学校に通わせたい、そんな思いを胸に母はジェノバの港から遠く離れたアルゼンチンに出稼ぎに行きます。
まだ、母が恋しいマルコは、寂しさに耐え母を見送ります。その日から、マルコにとって何よりも大切なものは母からの便りになりました。
マルコは教会に通って母の無事を祈り読み書きを習います。母からの手紙が読めるよう、母に手紙が出せるよう。しかし、母からの手紙は途絶え、母の行方は分からなくなってしまいます。父や兄や近所の人々は、きっと母は家族を捨てたのではないかと言いましたが、マルコは母を信じ、半ば家出同然に、母を訪ねてアルゼンチン行きの船に下働きとして乗り込みます。
さぁ、冒険だ!
アルゼンチンの母を訪ねて少年マルコは旅をする、道中人に騙されたり売り飛ばされたりボロボロになりながらも、友人や道連れの相棒にも恵まれて、母を信じる思いだけを胸に旅を続けます。
そして、ラストマルコは・・・
母を信じるマルコの湧き出る泉のような勇気と清い心が強い川の流れをつくり母のいる国へと続いて行く愛と冒険の物語です。
令和7年2月25日
心幸
後書き
心配で心配でって子を思ったふりして、自分の気持ちしかなくて、子をニートの引きこもりのどら息子にしてしまう哀しい親は子をおんぶに抱っこ、親バカはいつまでも子を高い高いしている。我が息子ちゃんお嬢ちゃんを高い高いしている。そして子は、与えられるのは当たり前とふんぞり返りながら、親に囲われながら、ままならない不甲斐なさを自信のなさを親のせいにする。そんな子が、毒親と親を呼ぶ可哀想な無限ループが出来上がる。
冒険は子の特権と分かっているなら、人差し指を自分に向けてみwww。
親がどう言おうが冒険に出ちまうのが子離れってやつで、その時はじめて親の恩を知るんだろうね、そんなことも分からん人差し指を自分に向けられない親バカが、わが子囲って引きこもりを作るのさwww 親バカは、いつまでも生きていないから、親におんぶに抱っこの子は放り出されて、また親を怨み世間を怨む。5080の出来上がりだwww
国が誤って殺し合いに拐われでもしない限り強制的志願ででもない限り、子離れの時は自然に訪れる。子は勝手に冒険に出て行く、そうでなければ駄目なのだと思います。何時までも、親に囲われているようじゃねぇwww
2/25/2025, 1:37:45 PM