どうすればいいの?
「どうすればいいの?」と問う孫娘に、おばあちゃんは答えた、「どうすればいいのか分からん時は、どうもできん時やから、何もせんくていい」「どうしてよ、そんなの駄目じゃない」涙声の孫娘に、おばあちゃんは続けた、「人生は、どうにもならんことの繰り返しだよ、そんな時は下手に逆らったりせずとも、なるようにしかならんもんさね、あんた自分の力を過信しちゃあかんよ、それこそ駄目だわ、何事もどうしょうもない、どうすればいいのか分からん時は、時任せの神任せでいいんだよ、どんな煮え湯も喉元過ぎれば熱さを忘れる、せいては事を仕損じる、そのうち何処からか他力の風が吹くものさ、そん時に思い切り帆を張れるように、どうすればいいのか分からなくなった時は、帆を仕舞って、時に任せなさい、なるようになるから」そう言って、おばあちゃんは笑った。
「他力の風を信じ、感謝する気持ちがあれば、どうすればいいの?と途方に暮れる時も道は開ける」おばあちゃんの金言でした。
孫娘は、そんなおばあちゃんの金言を胸に今日も生きてます。
おばあちゃん、ありがとう。
令和6年11月21日
心幸
宝物
わたしの宝物、それは時間。
あなたとわたしの間に流れた時間、わたしへあなたへ続いた時間、そしてわたしとあなたから生まれ繋がった時間全てが宝物。
時間を感じることが出来ることは、とても素晴らしい。
時間という概念がなければ、昨日は存在しないし明日も存在しない、過去も未来も存在しない、無論たくさんの悲喜こもごもな想い出も存在しない、想い出を懐かしむ郷愁もなければ、明日を夢見る希望もない。
限りある時間があるからこそ、それを感受できるからこそ、限りある時間の刹那と怖さと優しさがあるからこそ、人は考え思い遣り愛しむことが出来る。
昭和という時代が終わった時、私はこんな言葉を聞いたことを今でも覚えている、「明治の終わりは活字で読み、大正の終はラジオで聞いた、そして今、昭和の終わりをテレビで観る」
「昭和という時代は、背中合わせの時代であった、それを天皇陛下は身を持って示された、神と人間、戦争と平和、貧困と繁栄、弾圧と自由」。
その頃私は社会に出たばかりで、この昭和という時間の終わりをテレビで見ていた、その当時大正生まれくらいの御老人方が皇居の門前で手を合わせ、膝まづき涙していた姿を今も思い出す、それは「封建的社会だ!」という言葉で片付けて良いはずがないと思った、同じ日本人なら。
ある御老人の言葉を私は今も忘れない「戦争を乗り越え、貧しさを乗り越え、そして今があり、その象徴の天皇陛下が亡くなられた、感慨深く寂しいですね」
そして、次の新しい元号が発表された「平成」平和を達成するという意味が込められていたそうです、更にそこから30年時間は流れ、平和な平成最後の日は、お祭り騒ぎだった、、達成されたのか?平和。
新しい元号は「令和」万葉集に由来するそうで美しい調和を意味するのだそうだ、時間は流れ平和を達成し続け、美しい調和が千代に八千代に、さざれ石が大きな岩になる程に続きますように、、宝物は、この流れ続ける時間。わたしの時間はそこに流れる一滴。
時間は逆に流してはいけない、「未来が知りたいなら過去を学びなさい」救われるとか救われたいとかそんな今だけを見た知ったつもりの自分本位な考えではなく、過ぎた時間から自分で学びなさい、大昔の哲学者は言いました。
時は偉大な作家である…。
令和6年11月20日
心幸
キャンドル…
キャンドルって言ったら、冬、12月、Christmas、イルミネーション、エトセトラとなるわけで、発想が貧困で、思い出がいっぱいって言ったらアルバムってくらいなので、、ロウソクって言ってみた、ロウソクって言ったら「チーン、南無南無」で、キャンドルの世界とは掛け離れた。
そして、ゆらゆら揺れる蝋燭の灯りは季節外れの怪談話を思い起こさせる。
その昔、浪人の萩原新三郎という、無口で生真面目な青年がおりました。ある日、新三郎知り合いと梅を見物に出かけ、帰り道飯島平座右衛門という侍の別宅に立ち寄ることになりました、仕官先を求めていた新三郎は、人付き合いは苦手でありましたが、誘われるまま出向きます。
そこで新三郎は「お露」という大層美しい姫御前と年老いたお付きの女中と出逢うのでした。
必然、新三郎とお露は恋仲になり、一目惚れどうしの恋は柔らかな灯籠の炎を薙ぎ倒し 江戸の火事のように燃え上がるのでした。そしてお露は新三郎に「また、お逢い出来ないのであれば死んでしまいます」と告げるのでした、新三郎もまた帰ってからもお露に逢いたい逢いたいと思いましまが、生真面目過ぎて逢いに行くことが出来ないでいました。
それから数カ月、新三郎は先の知り合いからお露が死んだことを知らされます、自分が逢いに行かなかったことを悲観して女中共々死してしまったと聞かされたのでした。
それからというもの、新三郎はお露のために念仏を唱えるだけの毎日を送っていました、一年ほどが過ぎた秋の名月の頃、月を見上げて新三郎が物思いに耽っていると、どこからともなくカランコロンカランコロンと下駄の音が聞こえて来ます、音のする方を見てみますと、牡丹芍薬の灯籠を携えた女中とお露が歩いて来ます、我が目を疑った新三郎でしたが、名月の青く妖しい光が透き通るように青白いお露の細い項から顎にかけ差して俯きかげんのお露の伏し目がちな目元を輝くほど美しく浮き上がらせているのでした。
返す言葉も見つからず、息を呑んだ新三郎は、ただ再会を喜びました。次の晩もその次の晩も新三郎とお露の逢瀬は続きました、新三郎は近頃様子がおかしく、日増しに窶れて行く様子でした、それを訝しく思った下男が、ある満月の夜、新三郎の家を覗くと、ハゲ散らかした髑髏が新三郎の首にかじりついているのを、月明かりの下に牡丹芍薬の灯籠の火が映し出しているのを見たのでした。腰を抜かした下男は、日頃新三郎が親しくしている僧侶の元へ相談に行きました、相談を受けた僧侶は新三郎の元を訪ね正気を諭します。
「このままでは、連れてゆかれます」
新三郎は、やっとお露が怨念が変幻した魔物だと気づき、真言般若心経の御札と死霊除けの海音如来像を受けて来たのでした。そして新三郎は家の周りに御札を貼り付け、海音如来像を身に着けて般若心経を唱えるのでした。
何も知らないお露は今夜もやって来ますが、中に入ることが出来ず、外から新三郎の名を呼び御札を剥がしてくれと頼みます。
それを見ていた下男は、はじめはお露を怖がっていましたが、お露に寄り添う女中がお金を見せると、御札を剥がす力を貸すと言い、次の日には、御札を剥がし海音如来像も取り替えてしまうのでした。
お露は、ついに新三郎の家に入って行くのでした。
夜が明ける頃、呪いの妖女の手引きをした下男は後ろめたい思いから、僧侶を伴い新三郎の様子を見に行きます、戸を叩いても返事がない新三郎の家に、恐る恐る入ると、新三郎は物凄い形相で虚空を掴みながら息絶えていたのでした、その首元にはハゲ散らかした髑髏がかじりついていました、朝焼けの白い月がかかっていました。
ご存知、日本三大怪談話の「牡丹燈籠」の話は、ざっとこのような風であったかと、いやはや、怨念とは恐ろしいものだと子供心に思ったものでした、欲とは念とは人を醜く変える、何時までも同じ思いにしがみつき壁に向かって子々孫々の歴史の怨みを何方が悪だ正義だとやり合う愚か、そんなものどちらも悪で正しさという怨念に取り憑かれた悲劇と理解せねばならない、そして最後はより多くのものを殺して手を血で真っ赤に汚した者が正義の味方の御託を並べて、ルールは変わるそれが世を照らす灯籠の(キャンドル)の揺らめく炎の中に彩られる物語が世の東西を問わぬ歴史であろう。
令和6年11月19日
心幸
たくさんの想い出
想い出を馬鹿にする人は心の寂しい人間だ、その人は仰った、人間にだけ許された感情と感慨それが想い出。
無限の時間を持たないからこそ想い出は残り、今だけに生きる他の生きもの達よりもより鮮明な想い出を持つことを許された人間だからこそ時間を宇宙を自分以外の生をより深く想えるのに、なんと勿体無いことか、与えたものを取り上げようと、その人は仰りたくさんの想い出なんて死に近い年寄りの戯言だ!孤独な自称毒親育ちはそう言って、オドロオドロしい言葉を吐きました、その瞬間たくさんの想い出をもつことを人間に許した人は、オドロオドロしい言葉を吐く人間の想い出を仕舞う袋を破りました、中に詰まっていた、その人間の想い出がサラサラサラと流れて落ちて消えて行きました、あたりに白い煙が立ち込め、その人間の顔を覆いその人間の世界が灰色になりました。
世界が灰色に見える、、誰のせいなんだ!
その人間は他に向けた人差し指を自分に向けることが出来ず、目もグレーの歪な紗がかかっているので、全てが歪んで見えて色もありません。こんな状態で人差し指を他に向けオドロオドロしい言葉を吐いていても、気遣っていて優しくありたくて繊細なんです、その人間は今夜も世界がグレーに見えるその薄暗くて狭い場所でブルーのライトを顔に充てて言うのです、「たくさんの想い出話しなんてする奴馬鹿」犬でも猫でも3日飼えば飼い主の顔を、その想い出と共に覚え、人間ならば3歳のころ見た夕焼けを遊んだ友を、親の匂いを、たくさんの想い出として留め仕舞い時々開いては生きる喜びや力にします。それが神が、複雑な命を与えたものに与えた力でした。それを無くしてなお気づけない気遣ってさんに憐憫を感じずにはいられません。
たくさんの想い出は、あなたの味方でしかありません、そして人生を愛し人を許し気遣える魔法の袋です、たくさんのキラキラ光る想い出を集めたいものですね。
どんなに辛い想い出も生きる力に変え、与えられた辛苦は見込まれているからだと思いなさい、いずれそれさえも呑み込んで、たくさんの想い出を仲間にしなさい、それがきっと優しくあれることですよ、優しさは包容力です(笑)
令和6年11月18日
心幸
冬になったら
碧色の五月雨が少し冷たかった去年の5月
近頃、痩せて小さくなった貴女からの電話
鬼の霍乱と笑ったのも束の間、貴女は入院してしまいました、苦しそうな素振りも痛そうな素振りも見せない貴女は、ただ小さくなって私の心に一粒の不安の種を蒔いた、、精密検査の結果は、胃癌ステージIVもう血液にも癌細胞は飛んでいた、子供たち特に夫は医師のこの言葉が信じられず、セカンド・オピニオンに「白い巨塔」の大学病院に、癌センターを巡った、その間にも季節は速足で過ぎ、砂時計の砂は落ち続ける、気丈夫で少々短気で病気ひとつしない貴女が私の前でどんどん小さくなって行きました。足の速い貴女が、何時もよりも速足でスタスタスタと駅まで続く坂の細い道を歩いていた日を想出します、「ちょっとは歩かなきゃ駄目よ!」よく通る声で私や夫を叱咤していたのはつい昨日のことです、貴女が手の施しようのない状態だと告知を受けた夏のはじめ、その細い坂道を初夏の雨にうたれ、言葉さがしながら私たちは歩いた。
余命宣告、「長くて3ヶ月」落胆は私たちの方が大きかった、あんなに気丈夫で健康だった貴女が居なくなるなんて、私には想像出来なかった、3ヶ月って、、お義母さんには秋も冬も無いってこと?キツネに抓まれたようだった。
医者は嘘をつかなかった、ついてくれよと思ったが、ついてくれなかった、貴女の砂時計は勢いを増して砂を落とし、みるみる貴女は小さく小さくなり、私がおんぶできるほどになりました。それでも貴女は痛いとも苦しいとも言わずに、ただ夫が神頼みで日頃不信心なくせに、癌の病封じデンボ(腫れ物)の神さんに御参りし御札や御水を戴き、初夏の雨のにうたれながら坂道を登って来るのを目を細めて待つのでした。
貴女は、何時も強くてそんな状態でも、遺して行く夫(義父)のことを心配し、何時もと変わらずに、あれやこれやと私に指示し、何時もと変わらずに毒を吐き、嫌味を言い、嫁の小言を吐きました。夫には、「兄ちゃん、じーちゃん(義父)が直してくれやんから庭の花に水やりするホース直して」と何時になく甘え、夫はいそいそと庭の水やりホースを直して、母親に初めてくらいに褒められたように喜ぶ貴女を見て喜んでいました。貴女が、春に植えたピーマンとトマトの実が小さい実をつけ始めていました。
貴女は、本当は大好きだったお兄ちゃん(夫)が直した水やりのホースで何度水やりをしたでしょう、、夏の光の中で貴女は倒れそのまま病院に運ばれました、義父はただ黙って義母を見送っていました。
本当に、本当に、最後まで、せっかちな貴女は律儀に先生の言葉を守り、5月の告知からキッチリ3ヶ月8月の半ばに永眠しました、嫁いでから30年以上、嫁姑の仁義なき戦いは幕を降ろしました、はっきり言ってキツイ義母でした
けれど、実母より長く「おかあさん」と呼んだ人でした。義母が私に遺した言葉は「じぃちゃん(義父)頼みます」始めて貴女にお願いされました、しかも丁寧に「…頼みます」私は、何故だか、急に寂しくなって「いやだ、おかあさん、らしくない言葉つかわんといてよ」って笑いながら泣きました。
秋の風が吹いて、紅い彼岸花が
貴女からの 便りを風にのせているようでした
あれから、急に年老いた義父でした。
落ち葉つもる道は 夏の想い出道、「もう少し、おとうさんをあの人(夫)の側に置いておいてあげてよ」私は病院の帰り道あの細い坂道を登りながら姑に話かけました。
それから、冬が来て年が明け春風が吹きまた、5月の雨が降る頃、お母さんがお父さんを迎えに来ました。お母さんよりも早くに胃癌宣告を受けてお母さんより先に逝くはずだったお父さんなんだか安心したように妻の一周忌目前にお母さんを追いかけて逝きました、三途の川の渡し場で待ち合わせでもしていたのでしょうか、
幸せそうなお父さんの最後の寝顔をお母さんの一周忌の前に私たちは見送りました。
二人共に生前の性格通りせっかちで、そして常に子供思いでした、いっぺんに終わってしまいました、親の看取り。出来ることなら、私もかくありたいと思います。
今年の秋は何時もの秋より長くなりそうな気がして、ガランとした実家を訪れ片付けをして、遠くにあなた達の声を聴き、冬が来る前にも一度あなた達に巡り会いたいと思っています。
冬になったら
夢でもし会えたら
庭の花壇は、私が受け継ぎましたと伝えたい。
冬になったら
夢でもし会えたら
来年の春は、何の種を蒔きますかと尋ねたい。
冬になったら…。
令和6年11月17日
心幸