ありがとう、ごめんね
可哀想な、可哀想な、独居の独り住まいで部屋も散らかり放題で、そのうえ、そんな部屋の片隅で膝を抱えて悶々としているなんて、、と他人事ながら気の毒に思えたわ。
ありがとう、ごめんねも、喧嘩も仲直りも相手が居るから出来ることよ。
ありがとう、ごめんねは、セットにはならない
感謝の気持ちと謝罪の気持ちは別物。
ありがとう感謝の気持ちは、どんな時も先ず相手に伝えたい気持ち。
でも、ごめんね謝罪の気持ちは、許されるためにすることなので、「ごめんね」と言って「許さない」と言われることもあることを分からなければならないし、「ごめんね」と言われて許さない相手を悪者にしてしまうかも知れないことを考えて発しなければならない、だから「ごめんね」は相手の「もういいよ」が無ければ使うべきではない言葉だ、本当に本心から罪の意識があるなら言葉ではなく態度で示すべきである。
「償い」 作詞 さだまさし
月末になるとゆうちゃんは 薄い給料袋の
封も切らずに
必ず横町の角にある郵便局へと飛び込んで行くのだった
仲間はそんな彼を見てみんな貯金が趣味のしみったれた奴だと
飲んだ勢いで嘲笑ってもゆうちゃんはニコニコ
笑うばかり
僕だけが知っている彼はここへ来る前にたった一度たった一度だけ哀しい過ちを犯してしまったのだ
配達の帰りの雨の夜横断歩道の人影にブレーキが間に合わなかった、、彼はその日とても疲れていた
人殺しあんたを許さないと彼を罵った被害者の奥さんの涙の足元で彼は泣き乍らただ頭を床にこすりつけるだけだった
それから彼は人が変わった何もかも忘れて働いて働いて償い切れるはずもないがせめてもと
毎月あの人に仕送りをしている
今日ゆうちゃんが僕の部屋へ泣き乍ら走り込んで来た彼は一通の手紙を抱きしめていた
それは事故から数えてようやく七年目にはじめてあの奥さんから届いた手紙
「ありがとう あなたの優しい気持ちよくわかりました だからどうぞあなたご自身の人生をもとに戻してあげてください」
手紙の中身はどうでも良かったそれよりも
償いきれるはずもないあの人から
返事が来たのが ありがたくてありがたくて
ありがたくて
神様って僕は叫んだ
彼は許されたと思っていいのですか
来月も再来月もずっとずっと郵便局へ
通うはずの 優しい人を許してくれて
ありがとう ありがとう ありがとう…
長くなる為一部、割愛創作してます 悪しからず
謝罪の気持ちは言葉ではなく行動で
愛の償いは別れ、軽々しくごめんねと言うのは子供。
令和6年12月8日
心幸
部屋の片隅で
「Room」 作詞 藤井郁弥
君が窓辺に 挿した薔薇を
もうどれくらい 眺めてたのか
花は色褪せ 二度と愛は戻らないことを知ったよ
俯いたまま そっと鍵を
差し出した時 動けなかった
たったひとこと やりなおそうと
言える勇気が あればよかったよね
ふせた写真立て 倒れた空のマニュキュア
今は瞳を 伏せたくて
何も変わらない部屋で 君の香りが消えてく
そして はじめて悲しみ知ったよ
いつか涙は薄れてゆくのか
Heart Break Room
部屋の片隅で、あの日の薔薇が咲いている、長い日々への終止符の様に。
誰かこのドアを閉じておくれよ。
部屋の片隅で恋の赤い薔薇が枯れるまで…。
最後は得意の、インスパイアショートショートにしてみました。
そりゃあ、嫌いなものは嫌いさ、今更白紙にはならない。嫌よ嫌よも好きのうちの逆張りが通用するのはね、相手のイメージが出来上がるまでのこと、イメージが出来上がり、傷つけ合い愛想尽きたら女は早いよ(笑)あなたなんかに躓かないわってなるの、それをべっとり追いかける男のロマンの傷口に塩塗って悪いけど、女の最後は燕返しだわ(笑)
急に身を反転させて、飛んでゆく、追いかけても無駄よ、野暮な醜態さらすだけ、やっぱりそこは、痩せ我慢でも「行ったきりなら幸せになるが良い…」って部屋の片隅のダブルベッド壁際に背を向けて寝たふりしなきゃ。
・・・それにしても、昭和歌謡は歌詞に物語が有って良いわ、その情景が浮かぶよう。
チェッカーズの藤井郁弥は歌声やファッションだけでなく、詩人でもあり多才な方ですよね。
藤井郁弥の詩では、この「Room」と「Lonely Soldier」と「Jim & Janeの伝説」が詩の語る物語が好きである。
1980年代の歌謡シーンは、多彩でありながら老若男女楽しめた。年末の紅白も見応えがあったと今思うのは、私の歳のせいばかりではないはずだ、今の歌謡シーンは多様性多様性と念仏みたいに唱えながら、みんな同じだ、アイドル系ダンスユニット、バンドどれも似たような感じだ、秋元さん頑張ってくれ。
そんな中、同世代で40年間アイドルから始まり女優になったきらめくスターが星になった。
昨日の彼女の死のニュースは、兼ねてから私が想っていた「出口近くなって来た…」の想いをさらに強めた。
SNSのニュースでは、彼女の妹さんの元へ、インタビューに馳せ参じるマスコミへの批判を多く目にしたが、私はそのマスコミを批判する書き込みに首を捻った、この人たちにしろ私にしろ、彼女の突然の旅立ちをマスコミの報道で知り、彼女の妹さんのコメントを目にすれば読むのである、そしてそれを批判する、そんなに「そっとしてあげて」と思うのなら、その「そっとしておけマスゴミ」という、論点すり替えのマスコミ批判をマスコミの報道を読んでするという矛盾をやめるべきではないのだろうか?
亡くなられた人を想い悼み、芸能人としてのスターとしての姿を語り一時代の星をそれに相応しく華やかに送ることも、芸能人の死に対する悼み方としてあっても良いのではないだろうか?と思うのである。
そしてなにより、良心の仮面をつけて、ここぞとばかりに、裁くSNS民に哀れさを感じずにはいられない。あなたこそ、何もしないで自分は汚れずマスコミのニュースを聞いて見て部屋の片隅で叩くしか能のない下衆なのではないだろうか?と思うのであった。
悲しんで在りし日の姿を讃え送ってあげても良いのではないだろうかと思うのである。
彼女は1980年代後半から1990年代を彩った煌めく星でした。
令和6年12月14日
心幸
逆さま
吊された男…正位置は受容を逆位置なら呪縛からの解放を意味します。
はい、タロットカードです、中二が好きそうなやつです。
逆さまに吊された男は、過去と現在を見つめ新たに生まれ変わろうとしています。即ち過去を見つめられない者は現在を見失い新たに生まれ変わることが出来ません、温故知新の心は大切に(笑) 時間は過去から今へそして未来へ流れ、逆さまには流れないということは忘れてはいけません。
いくら、乗り越えたの知っているのと言ったところで、それらは他人があなたを評して使う言葉で、自分で乗り越えましたは日本語としては自惚れになります。自分のことを語り苦労を語っても、私は努力し乗り越えましたは自分に使うと非常に高慢に聞こえます。それはあなたの話を聞いた人が使う言葉で、他人に対して使ってこそ値打がある言葉です。
「ご苦労なされましたね、そうして乗り越えてらしたのですね」です。自分に対して曖昧で大まかな形容詞を使い自分を表現すると、その言葉とは逆さまに写ります。例えば、美しいも優しいも優秀だも繊細だも、乗り越えたも自分で自分に使うと逆さまに写り滑稽です。自分を語る時には具体的な出来事を話し、それを聞いた人が美しいも優しいも優れているもいないも繊細だも乗り越えたも主観で評するだけです。
逆さ男の意味は、「物事の見方を変えれば新たな真実に気づきを得ることが出来る」という意味を表しています。
「人間万事塞翁が馬」と同じようですね(笑)
その昔、国と国を区切る境の塞の近くに、老人が住んでおりました、ある時老人が飼っていた馬が隣の国に逃げてしまい、近所の人たちは可哀想にと言い合いました、しかし老人は「これが幸運を呼ぶかも知れない」と思いました。暫く日にちが経つと、逃げた馬が立派な馬を連れて帰って来たのです。
近所の人たちは驚いて祝福しましたが老人は「このことが、禍を引き起こすかも知れない」
と案じました。その通り老人の息子は馬に乗り落馬し足の骨を折る大怪我をしたのです。
近所の人たちは、見舞いに来て老人を励ましましたが老人は「このことが、幸運を呼ぶかも知れない」と思っていました。
やがて、隣の国と戦争が始まり若者たちは戦争に駆り出され、近所の人たちの子供はあいついで戦死しましたが、落馬が元で足を悪くした老人の息子は足手まといだからと戦地に駆り出されず、命を落とすことはありませんでした。
何が幸運につながり不幸につながるかは分からない、逆さまの視点を持つことはどんな状況にも大切(笑)
このエピソードから「人間塞翁が馬」という諺が生まれましたとさ。
令和6年12月6日
心幸
眠れないほど
眠れないほど奇人変人のキモい先生の話し。
先生は自然主義派という文学の師的な小説家である、自然主義派とは人間の内面を抉り出すような作風で19世紀のフランスで始まり日本では明治後半頃に流行った文学の流れとか高尚な説明ではなく簡単に言えば人間の本性は醜いって考えで、父の戒めをことごとく破り自らの出自の告白に苦悩し葛藤する主人公の心の内を赤裸々に描く島崎藤村の「破戒」や中年の妻子ある小説家が自分のファンであり弟子に迎えた娘に恋心を抱き、その娘に男が出来たと分かると叶えられなかった己の下心から、嫉妬に狂い弟子である娘を破門し故郷へ帰すが、未練断ち切れず、娘の残した蒲團に包まりその残り香を嗅ぎながら娘を想うという、それが真実か!どんな真実だ!オッサンキモイだよ!な話で、なしてこれが文学?って思う人間の内なる真実を浮き彫りにする作品として現代にも伝わる物語なのである、、真実とはいつも残酷で醜いんだわね〜となる、だから真実が現実があまりに悍ましく汚れているから、装い着飾りワクワクしたいのか?(爆)先生は。
これに反するのが「反自然主義」「耽美派」自然主義文学の現実志向とは相反する虚構性・感覚重視の世界に真実を見る作風谷崎潤一郎は有名で、三島由紀夫などもこの反自然主義に数えられる。どちらも明治後半に隆盛を極めた文学の真実であった。他にも中二病の眠れぬ夜のお供には色々な文学の潮流があり、それを読み取ることは、大変面白く興味深かった。どれも100年以上私がそれらに出会った頃でもそれほどの時間が経過している物語たちであったが、ものがなく夜が静で夜空も近く闇の静寂も深々と伝わる頃に、それしか考えることのない時間の潰し用のない頃なら想像の翼は無限であったのかも知れないと思った、これら100年以上前の文学は100年経っても興味深く100年というゼネレーションギャップさえも面白く思うが、現代の新刊小説が100年先にも誰かの好奇心を刺激するとは思えないのである。
そう、考えると田山花袋のキモイオッサンの痴話話もアホか!と読むのも一興である。
「蒲團」
田山花袋
先生は30半ばで妻子持ちの小説家、そこへ彼の文学を師事する神戸女学院の女子大生が書生として弟子入り志願をして来た。
「一生文学に従事したいと」と熱望する彼女の一途で健気な志しに感銘しとならないのが自然主義派先生はありのままの自然な(手段は全然自然じゃないがw)男としての邪念に見舞われる先生なのである。
先生はこの若くてハイカラで美しい神戸女学院の才女と不倫したくて仕方がないという、ただの自然な男の性丸出しの脂ぎったデブ眼鏡のオッサンになり下がるのだった(笑)
世間の体裁を邪推した先生は表向きは恋愛など有り得ないが信条、師と弟子としてのポーズをとるために、姉の家に下宿させます。先生は先生とは名ばかりで、彼女との不倫を夢見想いをつのらせますが、表向きは関せずに下心だけで、想いを夜な夜な闇の中で認めます、それはまるで月明かりの中での自慰行為さながら。いや、実に人間の内なる闇を自然を抉っています。そこには一切の誤魔化しがありません、とても嘘がなく真実の剥き出しの心が語られます。キモ過ぎるけど(笑)
やがて娘は文学にのみ従事したいとの言葉は何処へやら、同志社大学の学生と恋に落ちます。19歳の娘と21歳の青年何処にでもいる美しい自然な真実のカップルでした。先生は自分の弟子の心配をする体で実は自分が気になって気になって仕方のない真実を知りたがります。青年と娘の肉体関係の有無にまるで何かに取り憑かれ闇の中で念仏を唱える病みの人のように怪しい目で娘に青年との関係を問いただしますが、娘は答えるはずもなく、先生は鬱憤を妻子にぶつけてしまいました。
先生は娘と青年を引き裂くために、娘を自宅に引き取り監視し変質な執着を見せます。それでも娘と青年は恋文を遣り取りし、逢瀬の秘め事を認め合います。嫉妬に狂った先生は幸せそうな娘を見ていることが只々腹立たしく、監視を強めますが、娘と青年が深い関係にあることをそのありのままの真実を知ってしまいます。
この後に及んでも娘は堕落してしまっただけで自分が妻子がいなければ娘を手にするのは自分であった、口惜し妻子が、妻子のせいだと考える変態さで、娘と青年を無理やり引き離し娘を実父の元に帰すのでした。
娘が去った娘が使っていた部屋で、懐かしさと、恋しさと寂しさのあまり、娘が寝ていた蒲團と夜着に顔を埋めて残り香を嗅ぐのでした。
ありのままで剥き出しの抉る様な、欲と悲哀と寂しさと絶望が先生を支配し、先生は、その蒲團を敷き、夜着を抱き蒲團に伏して泣くのでした。
先生!虚構で良いので、嘘で良いので、痩せ我慢して!笑笑 物語は嘘が大事だわと教えられた一作。
眠れないほどの15の夜にどうぞ、さらに眠れなくなること請け合いです。
全て個人の感想です。
令和6年12月5日
心幸
夢と現実
花の色 うつりにけりな いたずらに
わが身世にふる ながめせし間に
小野小町
絶世の美人歌人と謳われた小野小町は晩年、過ぎ去りし日々を想いこんな歌を詠まれました。夢現に過ぎた花の日々は夢幻に消えて現実は残るってな感じでしょうか。華やかに着飾ってその着飾るものばかりを愛でたいと願う日は誰のうえにも足早に過ぎ去るという戒めの物語、絶世の美女小野小町の死絵と逸話が残る九相図は、人の欲と業を戒める諸行無常の有名な仏画である。
あなたなどに、彼女は救えないし彼女は救いを必要とはしていない。
何故なら、彼女はあなたよりずっと満足感を知っているから、ただ今を過ぎ去りし日々を愛でることが出来るのだ。自分の闇さえ晴らせないあなたが、欲と業まみれの呪の念仏を夜毎唱えるしか能のない弱いあなたが、彼女にしたってそれ以外の誰にしたって救えはしない。可哀想に、よーく鏡をご覧なさいな、あなたの欲と業が九相図のように映し出されます。
呪の念仏は無限のループをあなたにかけるだけです、その言霊はあなたに返るだけです。
もし、誰かを救いたいと本当に願うのなら、先ず自分を救え!虚飾にまみれた自分を救え!
夢の後には現実
現実の後に夢…
夢と現実
令和6年12月4日
心幸