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12/6/2024, 11:41:09 AM

逆さま

吊された男…正位置は受容を逆位置なら呪縛からの解放を意味します。

はい、タロットカードです、中二が好きそうなやつです。

逆さまに吊された男は、過去と現在を見つめ新たに生まれ変わろうとしています。即ち過去を見つめられない者は現在を見失い新たに生まれ変わることが出来ません、温故知新の心は大切に(笑) 時間は過去から今へそして未来へ流れ、逆さまには流れないということは忘れてはいけません。

いくら、乗り越えたの知っているのと言ったところで、それらは他人があなたを評して使う言葉で、自分で乗り越えましたは日本語としては自惚れになります。自分のことを語り苦労を語っても、私は努力し乗り越えましたは自分に使うと非常に高慢に聞こえます。それはあなたの話を聞いた人が使う言葉で、他人に対して使ってこそ値打がある言葉です。
「ご苦労なされましたね、そうして乗り越えてらしたのですね」です。自分に対して曖昧で大まかな形容詞を使い自分を表現すると、その言葉とは逆さまに写ります。例えば、美しいも優しいも優秀だも繊細だも、乗り越えたも自分で自分に使うと逆さまに写り滑稽です。自分を語る時には具体的な出来事を話し、それを聞いた人が美しいも優しいも優れているもいないも繊細だも乗り越えたも主観で評するだけです。

逆さ男の意味は、「物事の見方を変えれば新たな真実に気づきを得ることが出来る」という意味を表しています。

「人間万事塞翁が馬」と同じようですね(笑)

その昔、国と国を区切る境の塞の近くに、老人が住んでおりました、ある時老人が飼っていた馬が隣の国に逃げてしまい、近所の人たちは可哀想にと言い合いました、しかし老人は「これが幸運を呼ぶかも知れない」と思いました。暫く日にちが経つと、逃げた馬が立派な馬を連れて帰って来たのです。

近所の人たちは驚いて祝福しましたが老人は「このことが、禍を引き起こすかも知れない」
と案じました。その通り老人の息子は馬に乗り落馬し足の骨を折る大怪我をしたのです。

近所の人たちは、見舞いに来て老人を励ましましたが老人は「このことが、幸運を呼ぶかも知れない」と思っていました。

やがて、隣の国と戦争が始まり若者たちは戦争に駆り出され、近所の人たちの子供はあいついで戦死しましたが、落馬が元で足を悪くした老人の息子は足手まといだからと戦地に駆り出されず、命を落とすことはありませんでした。

何が幸運につながり不幸につながるかは分からない、逆さまの視点を持つことはどんな状況にも大切(笑)

このエピソードから「人間塞翁が馬」という諺が生まれましたとさ。


令和6年12月6日 

               心幸



12/5/2024, 1:56:36 PM

眠れないほど

眠れないほど奇人変人のキモい先生の話し。

先生は自然主義派という文学の師的な小説家である、自然主義派とは人間の内面を抉り出すような作風で19世紀のフランスで始まり日本では明治後半頃に流行った文学の流れとか高尚な説明ではなく簡単に言えば人間の本性は醜いって考えで、父の戒めをことごとく破り自らの出自の告白に苦悩し葛藤する主人公の心の内を赤裸々に描く島崎藤村の「破戒」や中年の妻子ある小説家が自分のファンであり弟子に迎えた娘に恋心を抱き、その娘に男が出来たと分かると叶えられなかった己の下心から、嫉妬に狂い弟子である娘を破門し故郷へ帰すが、未練断ち切れず、娘の残した蒲團に包まりその残り香を嗅ぎながら娘を想うという、それが真実か!どんな真実だ!オッサンキモイだよ!な話で、なしてこれが文学?って思う人間の内なる真実を浮き彫りにする作品として現代にも伝わる物語なのである、、真実とはいつも残酷で醜いんだわね〜となる、だから真実が現実があまりに悍ましく汚れているから、装い着飾りワクワクしたいのか?(爆)先生は。

これに反するのが「反自然主義」「耽美派」自然主義文学の現実志向とは相反する虚構性・感覚重視の世界に真実を見る作風谷崎潤一郎は有名で、三島由紀夫などもこの反自然主義に数えられる。どちらも明治後半に隆盛を極めた文学の真実であった。他にも中二病の眠れぬ夜のお供には色々な文学の潮流があり、それを読み取ることは、大変面白く興味深かった。どれも100年以上私がそれらに出会った頃でもそれほどの時間が経過している物語たちであったが、ものがなく夜が静で夜空も近く闇の静寂も深々と伝わる頃に、それしか考えることのない時間の潰し用のない頃なら想像の翼は無限であったのかも知れないと思った、これら100年以上前の文学は100年経っても興味深く100年というゼネレーションギャップさえも面白く思うが、現代の新刊小説が100年先にも誰かの好奇心を刺激するとは思えないのである。

そう、考えると田山花袋のキモイオッサンの痴話話もアホか!と読むのも一興である。


「蒲團」        
              田山花袋

先生は30半ばで妻子持ちの小説家、そこへ彼の文学を師事する神戸女学院の女子大生が書生として弟子入り志願をして来た。

「一生文学に従事したいと」と熱望する彼女の一途で健気な志しに感銘しとならないのが自然主義派先生はありのままの自然な(手段は全然自然じゃないがw)男としての邪念に見舞われる先生なのである。

先生はこの若くてハイカラで美しい神戸女学院の才女と不倫したくて仕方がないという、ただの自然な男の性丸出しの脂ぎったデブ眼鏡のオッサンになり下がるのだった(笑) 

世間の体裁を邪推した先生は表向きは恋愛など有り得ないが信条、師と弟子としてのポーズをとるために、姉の家に下宿させます。先生は先生とは名ばかりで、彼女との不倫を夢見想いをつのらせますが、表向きは関せずに下心だけで、想いを夜な夜な闇の中で認めます、それはまるで月明かりの中での自慰行為さながら。いや、実に人間の内なる闇を自然を抉っています。そこには一切の誤魔化しがありません、とても嘘がなく真実の剥き出しの心が語られます。キモ過ぎるけど(笑)

やがて娘は文学にのみ従事したいとの言葉は何処へやら、同志社大学の学生と恋に落ちます。19歳の娘と21歳の青年何処にでもいる美しい自然な真実のカップルでした。先生は自分の弟子の心配をする体で実は自分が気になって気になって仕方のない真実を知りたがります。青年と娘の肉体関係の有無にまるで何かに取り憑かれ闇の中で念仏を唱える病みの人のように怪しい目で娘に青年との関係を問いただしますが、娘は答えるはずもなく、先生は鬱憤を妻子にぶつけてしまいました。

先生は娘と青年を引き裂くために、娘を自宅に引き取り監視し変質な執着を見せます。それでも娘と青年は恋文を遣り取りし、逢瀬の秘め事を認め合います。嫉妬に狂った先生は幸せそうな娘を見ていることが只々腹立たしく、監視を強めますが、娘と青年が深い関係にあることをそのありのままの真実を知ってしまいます。

この後に及んでも娘は堕落してしまっただけで自分が妻子がいなければ娘を手にするのは自分であった、口惜し妻子が、妻子のせいだと考える変態さで、娘と青年を無理やり引き離し娘を実父の元に帰すのでした。

娘が去った娘が使っていた部屋で、懐かしさと、恋しさと寂しさのあまり、娘が寝ていた蒲團と夜着に顔を埋めて残り香を嗅ぐのでした。

ありのままで剥き出しの抉る様な、欲と悲哀と寂しさと絶望が先生を支配し、先生は、その蒲團を敷き、夜着を抱き蒲團に伏して泣くのでした。


先生!虚構で良いので、嘘で良いので、痩せ我慢して!笑笑 物語は嘘が大事だわと教えられた一作。

眠れないほどの15の夜にどうぞ、さらに眠れなくなること請け合いです。


全て個人の感想です。



令和6年12月5日 

              心幸       




12/4/2024, 11:22:55 AM

夢と現実

花の色 うつりにけりな いたずらに
わが身世にふる ながめせし間に

             小野小町

絶世の美人歌人と謳われた小野小町は晩年、過ぎ去りし日々を想いこんな歌を詠まれました。夢現に過ぎた花の日々は夢幻に消えて現実は残るってな感じでしょうか。華やかに着飾ってその着飾るものばかりを愛でたいと願う日は誰のうえにも足早に過ぎ去るという戒めの物語、絶世の美女小野小町の死絵と逸話が残る九相図は、人の欲と業を戒める諸行無常の有名な仏画である。

あなたなどに、彼女は救えないし彼女は救いを必要とはしていない。

何故なら、彼女はあなたよりずっと満足感を知っているから、ただ今を過ぎ去りし日々を愛でることが出来るのだ。自分の闇さえ晴らせないあなたが、欲と業まみれの呪の念仏を夜毎唱えるしか能のない弱いあなたが、彼女にしたってそれ以外の誰にしたって救えはしない。可哀想に、よーく鏡をご覧なさいな、あなたの欲と業が九相図のように映し出されます。

呪の念仏は無限のループをあなたにかけるだけです、その言霊はあなたに返るだけです。

もし、誰かを救いたいと本当に願うのなら、先ず自分を救え!虚飾にまみれた自分を救え!

夢の後には現実
現実の後に夢…

夢と現実

令和6年12月4日

              心幸 

12/3/2024, 11:13:08 AM

さよならは言わないで

いつも、今日のお題を見てから暫し目を閉じて沈黙、お題から連想する歌や物語や想い出を頭の中のメモ帳をパラパラ捲るように考える。この時間近頃マイブーム。いつもだいたいひとつの発想からもうひとつ発想を飛ばして浮かんだものが書ける時が個人的にヒットの時だ。

・・・ さよならは言わないで、もうあれしか浮かばないじゃない、むっちせんぱーい。

サ・ヨ・ナ・ラなんて言えないよ!バカヤロー
しか思い浮かばないわ💦

近頃ドラマ好きのエンタメ好きのオバサンから感想書き予想屋になっちゃっているが、今年は宮藤官九郎に始まり宮藤官九郎に終わりそうだ、別に今まで宮藤官九郎脚本が特別好きだった訳では無い、寧ろ苦手な部類の脚本家でした。どこか若者ですが何か?的な雰囲気が好きになれなかったから。だがしかし宮藤官九郎さんも50越えて「時をかけるダメ親父」なんかを書かれるようになり、なんかなんか、ツボっちゃいまして、今年は「不適切にもぼどがある!」から「季節のない街」「新宿野戦病院」「終りに見た街」と宮藤官九郎脚本に引き込まれた1年でした。どれもツボりました、若者描くよりオッサン描いた方がイイですよと思います宮藤官九郎さん。「季節のない街」と「終りに見た街」は元の原作が素晴らしいのも有りますが原作の持つ世界観は損なわれずリスペクトし現代の若者にも伝わるように描かれているところは、読み込んでらっしゃるのだろうなと感動しました。年始めの「不適切にもぼどがあるある」は令和と昭和のギャップの架け橋にミュージカル使ったりして、1970年代頃のホームドラマを思い出しました。今年の流行語大賞に「ふてほど」が選ばれたのは嬉しい今年を締め括るニュースでありました。


近頃は、SNSはじめ一億総批評家の時代では有りますが、全く展開が読めていないのに分かった風の先生方には驚きます(笑)如何なものでしょうね、ただのファンでしょ、あんなのが芸能関係者や制作関係者だったら値打が全く有りませんよ(笑)

顔の見えない場所での、自称先生玄人評論家はみっともないだけです。あげく展開全く読めず呪の呪文か!?みたいなヤバイ言葉の繰り返しでは人格知れます可哀想な話で文芸作もメッセージを持った素晴らしい物語も、その値打ちを落とします。

そんなものとは、さよならは言わないで、さっさと距離を置きたいものです、気持ち悪いし一緒にされたくありませんしね。

さよならは言わないではやっぱり大好きな、時をかけるダメ親父に言いたいです。地獄の小川は令和に染まってソフトになって昭和に帰っちゃたけど、純子が大学入って元のミーハー純子に戻ったみたいに、昭和の地獄の小川に戻っちゃってる、続いている日常をスペシャルで観たいなと思う今日この頃であります。

時をかけるダメ親父、さよならなんて言えないよ!バカヤロー! 

全て個人の感想です🤣🤣

さよならは言わないで。

令和6年12月3日

                心幸 




12/2/2024, 1:25:20 PM

光と闇の狭間で

汽車は闇をぬけて 光の海へ
夢がちらばる 無限の闇(宇宙)さ
星の架け橋 わたって行こう
人は誰でも しあわせ探す
旅人のようなもの 
希望の星に めぐりあうまで
歩きつづけるだろう
きっといつかは 君も出会うさ
青い小鳥に

汽車は闇をぬけて 光の海へ…

停車場

彼は闇の中での戦い方を教えてくれた
「俺より先に死ぬなよ」と語り合った
友を想出していた。

彼の髪を、闇の静寂が撫でた
彼は瞼を閉じた、闇の中なら
瞼を開いていようが閉じていようが同じだ、寧ろ瞼を閉ざすことで得ることの出来る、闇の中の闇が光を教えた。彼はあの友の言葉を想い出し、闇の中の闇の中で神経を集中させて、微かな響きを感じる、その方向目がけて戦士の銃の銃口を向ける光の矢が闇を切り裂き
彼は目的を達成する。

「大人になったな哲郎…」

今まで観た漫画の中で1番心に残っている場面だと言うのは私的な事だが、因果にも機械伯爵という彼の宿敵が父だったという皮肉に彼は真っ暗闇のその果てで、友の言葉を想い出す。長い旅路の中で出会った友の言葉は闇の静寂で彼に光を教える。
倒されて本望父ははじめて息子を讃える。
闇を知る者が光を知ることが出来るのだ。

私は、この永遠の中二病みたいな少年漫画の一節が人生には大事だと考える。闇を知らない者は光を知ることは出来ない、闇に嘆く者は光のさざめく波動を感じることは出来ない、ただ闇の中で泣き叫ぶ哀れな赤子となる、闇を恐れるな感じろ光が見える、、闇と光の狭間で。



こういう場所では、いくら百年生きたと自称されても、それで人ははかれない。永遠の中二病は真理を教えてくれるし、百年生きた先人の言葉でも浅瀬で生きた者の言葉なら響かないものは響かないからだ、何で判断するかと言えば、やはり言葉でしかないのであろう。

生きた証が言葉に出る言霊こそが、この闇に差す光となるのだろう、、光は闇の中で見るからこそその値打がある。

光と闇の狭間で。


令和6年12月2日

               心幸







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