柔らかい雨
疲れた尾鰭を休ませながら、駅の改札から群れをなし溢れ出す魚たち、傷ついて剥がれた鱗が光っていると優しい歌うたいは歌いました、昨日の電車は酷かった、駅の階段転がり落ちた年寄りと、突き飛ばした若僧の批判罵声、若僧たちの眼が年を取ることを否定しすぎた、悔しさを握りしめ過ぎた拳の中爪が突き刺さる私の敵は私ですと地下から階段を昇ったロータリーでギターケース広げて歌う優しい歌うたいは歌っていました。
今日は少し気が紛れ楽しげに 群れをなす魚たちのように波に紛れて昇って行きました。
霧のような柔らかな雨に全て流せてしまえたらいいけど、心の傷なら隠せやしない、それが一生傷というものだ。
傷ついたり失ったりしたことのない者ほど大きな声で泣き叫び自分の傷を誇示しようとする愚か、本当に傷を知る喪失を知る人なら、寄り添うなんて詭弁を叫ばなくても、霧のような柔らかな雨で黙って傷を庇い保護するように包み込むだけ。
柔らかい雨は絹の衣のようにその傷を隠す。
こんなに、そんな傷ましい毎日、人生の1番辛い時出会ったあなただから、柔らかな雨に全て包まれて抱き締めあえたら一つひとつ遠くに揺れてる街の灯が消える前に連れ去ってよと告げた。
夜の静けさに打ち明けるから、私のすべて、目を背けないでいて、あなたについて行くと決めたからと呟いたあの日、柔らかい雨に抱かれて二人朝を迎えた。
あの柔らかな朝を忘れない、、と、老人は消え入りそうな記憶の中で、「もう一度、瞳が見たかった」と呟いて、その人の冷たくなった小さな手を握り締めていた。
令和6年11月6日
心幸
一筋の光
ある日、極楽の池のほとりを散歩していました、もう下界のことは忘れかけている頃の話でした、はるか下に現世という地獄のような世界があり、それを覗き込んでは、恐怖していました。
ふと見ると男が血の池でもがいているのが見えました。
男は、その世界で、殺人や放火など、多くの凶悪な罪に手を染めていた、それがあの世の世界に来ると真っ赤な血の池でもがいているように見えるのでありました。
そんな男も決して完全無欠の悪魔ではないものである、一寸の虫にも五分の魂決めつけてはそれこそいけない、一筋の光があったのでした。
男は、子供の頃から犬猫小動物や昆虫が好きな少年で、それらをたいそう大切にしろと言う子供でした、母親は結婚はとうに破綻し父親の違う子供を何人も産み家には寄り付かず、まだ少年だった男に兄弟姉妹の世話を押し付け、たまに来ては昼間から酒の匂いとキツイ香水の匂いと煙草の匂いの入り混じった匂いを漂わせ金を置いてまた出て行くのであった、男は子供たちを忘れずにそうして月に一回でも金を渡しに来る母親の悪いところばかり探すお決まりのパターンの少年期で、やがて少年も年を取り、そんな暮らしに嫌気がさして兄弟姉妹を置いて、母親同様家出をしたのでした、誰が悪者か?の堂々巡りは、またにして、今宵は、その男の話の話をしましょう、家出の後は外道一直線の男の人生で、いいとこ無しで、他人様の返り血だか自分の血だか分からない血の池で溺れている現在の様子でありました。
そんな男のある日の出来事をお釈迦は想われたのでした。
ある少年の日、その男は道端の小さな蜘蛛の命を思いやり、蜘蛛を踏み潰そうとした男から蜘蛛を逃がして助けてやったのでした。
そんなことが、あったから天上界におられた、お釈迦様が、その男を私たちのいるところに救いあげてやろうとしたのでした、私たちはどうなるのかと下界を眺めておりました、するとお釈迦は地上に向かって一筋の光のように輝く金色の蜘蛛の糸を垂らしました。
現世の血の池で罪に溺れていた男は顔を上げると、一筋の光のような金の糸がするりと垂れているのに気づき、これでこの苦界から抜け出せると思った男は、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命上を目指したのでした。
現世の世と、私たちのいる場所とは、たいそう離れているため、疲れた男は途中下を見渡して休もうとしました、しかし下を見ると魑魅魍魎さっきまで、罪の血の池で罪にもがき罪に苦しんでいた男に、罵声を浴びせ唾吐きかけ石を投げて裁いていた者達が、目の色変えて真っ暗な血の池の辺から、うまそうな話なら自分もと現世に差す一筋の光のような金色の蜘蛛の糸にしがみついて幾人もの現世の人々が行列のように繋がっていたのでした。
このままでは重みで糸が切れて俺までまた現世に落ちる、「やめろ!下におりろ!この蜘蛛の糸は俺のものだ!」と大声で叫んだ瞬間、蜘蛛の糸はプツリと切れた、彼らはまた、再び現世の世に落ち上を目指し弱い者はさらに弱い者を叩き、罪人は血の池に溺れもがき、それを見ている者たちは、自分はそれよりはましと安堵し石を投げて叩いて憂さを晴らす現世の暮らしに落ちたのでした。
全てを見ておられたお釈迦様は、「まだまだ現世が必要だったようだ…」と呟いて立ち去りました。
この世は修行の場とは仏教の教え、修行とは天からお釈迦が垂らした糸に気づき感想し己の道を行くことなのだそうです、他人のことは捨て置きなさい、自分がどう生きるかです。
天上天下唯我独尊
「唯、我、独(ひとり)尊し」
天上天下に、ただ一人の、誰とも代わることの出来ない人間としての、この命そのままが尊し」
この言葉の本当の意味を知っていれば、男は現世から真っ直ぐお釈迦様のところへ上ってこれたのかも知れません。
まだまだ修行が必要の様子で現世に帰って来た男は今日もまた罪の血の池で溺れもがくのでしたが、きっと湧いてきた血の池の辺りで男に石を投げ裁いて唾を吐きかけ野次っていた魑魅魍魎よりも、ひょっとしたら、お釈迦様は、この男を救いたいと思われるのかも知れません。
「南無阿弥陀仏」とは、確かそんなようなこの世の地獄を歩く人に差す一筋の光のような言葉だと聞いたことがありました。
創作「蜘蛛の糸」 作 芥川龍之介
リスペクトオマージュ♪
令和6年11月5日
心幸
哀愁を誘う
ハード・ボイルドGメン'75。
「熱い心を強い意志で包んだ人間たち」渋い芥川隆行のナレーションではじまる、言わずと知れた昭和刑事ドラマの金字塔的一作は、哀愁を誘う音楽とナレーション、そして重厚感ある出演者たちが印象的だった。
日本人は哀愁が好きで、口笛吹いて主人公が現れたり去ったり、そんな映画やドラマが多かったなと思う。
そん中、Gメン'75はオープニングもエンディングも哀愁と言う言葉がよく似合い、当時子供ながら、何処か儚く物悲しくも情緒のあるこのドラマが大好きであった。
私のお気に入りはパンタロンに斜めに深く被ったツバ広女優帽子姿の女性Gメン響圭子だった響圭子は女性Gメンだけではなくその後に続く刑事ドラマの女性刑事の先駆けとなったが、現在に至るまで、響圭子ほどクールでミステリアスでおまけにその容姿スタイルまで完璧な女性刑事が登場する刑事ドラマを私は知らない。永遠のレジェンドキャラ響圭子なのである。
それと同時に、若手刑事も「太陽にほえろ!」
や「西部警察」とは違うキャラクターであった
これまた、私のお気に入りは田口刑事役の千葉ひろしさんが、子供心にとても好きであった、たしか、最初はゲストのような出演で殺されてしまう犯人のような役だったように記憶している、それから、白バイ隊になりGメン入りを果たす、ハード・ボイルドなのに何故だか他の刑事ドラマと違い少し儚さのある、田口刑事途中どこかで、また殺されやしないなとハラハラしながら観たものだった、、今もし、昭和にタイムスリップしても、私はきっと昭和50年代土曜夜9時全員集合終わって明日は日曜日で嬉しそうにテレビの前に座っているチビわたしに出会うのであろう、一緒にテレビなんか観て「いい事いっぱいあるからね」と話してみたい、そうして祖母や父や母に感謝の気持ちを伝えたい
出来ることなら、、、(笑)
「哀愁」とは、悲しさと懐かしさを併せ持つ感情を表現する言葉なのだという、実に日本的な美しい言葉であると思う。
この言葉をきっと君は理解する日が来るだろう、けれど、その時には実体がなくなってしまっているもの、けれど心の1番柔らかい場所に残る確かな想い、それが何かと理解するその瞬間の物悲しい切なさを人は「哀愁」と呼ぶのだろう、そんな日が君にも訪れることを祈る、、と初孫の瞳に写る私を観ながら想う。
令和6年11月11日
心幸
鏡の中の自分
鏡の中のあなた…
可哀想に眠りにつく前に夜ごと毎夜呪の呪文を呟くあなたは、その呪文が自分への呪縛だということを知らない、何時か騙されたと思ってでも見てご覧なさい、毎夜毎夜眠りにつく前に呪いの主への呪縛を繰り返す自分の姿を写して鏡の中の自分を見てご覧なさい、きっと口から涎を垂れた醜い餓鬼が写るはずです、あなたが吐いた言霊の呪いの呪文はあなたにかかり、怨みの呪縛はあなたを縛ります、それが人を呪わば穴二つという意味です、覚悟なさい。
自分だけが綺麗なままだなんて、怨みの呪縛に落ちた時に返上しているんですよ、覚悟なさい、鏡のなかの自分に呪をかけたのはあなたです。
南の魔女は言いました、あなたが行きたい場所に行きたいと望むなら、西の魔女と東の魔女を招き入れるが良いでしょう、きっとあなたは東の空に日が昇り西の空に日が沈み眠りにつくまで怨みの念に縛られて、身動きとれなくなり涎を垂らした餓鬼に変わります、もしももしも、戻りたいと思うのなら、この聖水で先ず自分の顔を洗い、鏡に写る鏡の中の自分をよく己の眼で見定めて、その水を流してごらんなさい、きっとあなたに呪文を唱えろと言う東の魔女はあなたの家の前で扉を開けようとして圧死し西の魔女はその水に流されてしまうことでしょう、怨みの魔女の姉妹に巣食われたあなたの心を取り戻すのは、あなたです。そう南の魔女は告げて去りました…という、オズの魔法使いリスペクトオマージュでした。
鏡の国の幼気な呪いの魔女の呪縛に取り憑かれたドロシーさんへ、早く鏡の中の自分に気づき目覚められるといいのにね。
続き、
作り笑顔はいけないという人がいる、作り笑顔は嘘だからか?嘘でも笑顔でいる方が覚悟がいる、下手な笑顔も下手な嘘も100ぺんすればつけば真を妊む。言いたいことも言わずに我慢している気遣いしてますって俯いて舌出して暗くて険しい顔で夜な夜な涎垂らした餓鬼になって怨み節の呪い節より、そんな時こそハッタリでも嘘でも笑顔でいる方がいいね(笑)気遣いしながら気を遣わせるより、嘘でも笑ってデクノボウと呼ばれても笑ってる苦にもせず苦にもされずに笑ってるそういう人が賢者ですねと想いますけどね〜(笑)鏡の中で俯いてるあなた。
令和6年11月3日
心幸
眠りにつく前に
1日の終わりに眠りにつく前には、今日一日のことを振り返り、嫌だったことよりもなるべく好かったことを想出したい。嫌だったことからも頑張って好かったを見つけ出し、見つけ出せた自分を褒めてやり、批判や否定よりも賛同や肯定をして、共感は出来なくても理解をし批難よりも弁護する人でありたい、そうすれば1日の終わりに「有り難い」と感謝して眠れる気がする。
「有り難い」とは、「有り得ない」めったにない貴重なものだということらしく、「有り難い」「ありがとう」は、めったにない勿体無くも、貴重なことへの感謝ということなのだろう。
小さな感謝を見つけ出し、有り難いと感謝し、「ありがとう」と言って1日を終える、その細やかな1日の繰り返しが、きっと幸せにつながり、何時か永遠の眠りにつく時に、その小さな好かったが永遠に変わるのだと思っている。昨日の続きになるが、永遠とは「死」であろうと私は考える。
ひとつの我の人生が終わります、時間も空間もアントニ厶が見つからない罪も善も痛みも苦しみも悲しみもそして喜びも愛もその瞬間で止まり、永遠になる。生きたそれまでの想いが止まり、永遠に年を重ねない重ねられない。
年を重ね前に進むことはない、その想いは永遠となる、それが「死」という永遠の眠り。
ならば、やがてその避けられない永遠の眠りという死が私にも訪れる定めならば、出来るだけ目に映るものを肯定したいのだ。
それでも間違いを探して鬼の首でも取ったみたいな子供っぽい人や、文句や批判批評をして偉くなった気でいる学者センセーたちを批判したくなる時があって、人に差した人差し指自分に差すことで笑う日もあるのだけれど、そういう日が多いのだけれど、それでも私は、最後は眠りにつく前に、感謝して終えたいから、なるべく正しいや正解ではなく、正しくない間違いでも、愛しく楽しい有り難いものを見つけ、その力に感謝して眠りにつく、死という永遠の眠りを迎える時もそうでありたいと思っている。
私の永遠へと続く道その1日の終わりには、眠りにつく前に「ありがとう」と手を合わせて眠ります。
「世情」
世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする
変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする
シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため
世の中は とても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている
包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる
シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため…
作詞 中島みゆき
私に死が訪れて やがて私の、時が永遠に止まっても その想いは永遠に…。
令和6年11月2日
心幸