NoName

Open App
4/20/2024, 12:22:24 PM

何もいらない

命さえあれば
健康さえあれば
君さえいれば…

あれ、何もいらなくなくなっちゃうや。

人間は煩悩の塊で弱く、向こうにいかないところのギリギリ境界線で藻掻いている。
誰も殺めなくても生きていられるという縁と運。
何も盗まなくても生きていられたという縁と運。


だからこそ

許して許される
奪われて与えることを覚えることに気づきたい。


悪人正機

ここでいう悪人とは煩悩に苦悩する、か弱きわたしたちです。煩悩に苦しむ悪人こそ救われ許される価値があるとお釈迦様は仰いましたと親鸞様は説かれました。

南無阿弥陀仏

2024年4月20日

                心幸

4/19/2024, 6:18:53 PM

もしも未来を見れるなら

「店番」

何処にでもある駅前の商店街に、おばちゃんの店はあった。そこが1号店だから結構古い店だ一階がテナントで上はアパート7年くらい前からそんな感じで、おばちゃんは店番兼務の管理人だ。以前は内外兼務で飛び回っていたおばちゃんも、今はわりと暇な商店街で店番だ。

過去には三泊四日くらいで行きたい気がするが
「見たい未来」となると・・・あるかねぇと、おばちゃんはスマホから目を上げ店の外を眺めた。

猫は客用の長椅子を占領し眠っていた。

閉店までのひととき。

忙しいのは午前中と帰宅ラッシュの時間帯だけ後は呑気な店だ。繁忙期は春先の季節商売それもコロナで大打撃だ、おばちゃんの店も何店舗か閉店の憂き目にあい、商店街も歯抜けになっていたが、最近ようやくもとの賑わいをみせるようになっていた。それでもおばちゃんは相変わらず呑気で店番をしながら通りを眺めている。

呑気なおばちゃんは暇そうな若僧を見つける。
漫画「おじゃまんが山田くん」の山田くんの様な風貌の若僧は今起きましたというような顔にボサボサ頭を掻きながら、きっと世界がその色で見えているのではと思われるような灰色のスエットに素足にサンダルで店の前を歩いて行く
平日の午後2時過ぎ、1番店が暇な時間帯に前を通り過ぎる暇な若僧。
暇同士のニアミス。

「あの子また来てるよ、無職かねぇ…こんな時間に、あんな格好で」

おばちゃんは独り言を言いながら勝手に名付けた山田くんを見つめた。
すると山田くんもこっちに目をやった。

「暇そうな店だなぁ…」とでも独り言を言っているのか。

目が合う 暇そうな人二人。

そうだ、もしも未来を見れるなら。
半年か1年くらい未来に行って
山田くんがどうしているか見たいわ。
おばちゃんは、そう思った。

もし、まだ同じようなら声をかけてやろうか。

時間を無駄にするな!
時間泥棒のような日々
それは、もっと先にいくらでも出来るから。

先ずね
暇そうな人にも色々あることを学んで。
自分は今どの時なのか?
人生の大切な時間を時間泥棒に盗まれないようにねって。

冬眠が必要な雪深い場所で生きているのに死んでいるような時を過ごしていると狭苦しくなってしまうけど、街に出ればみんなそれぞれの時間を生きていることに気づくもの。

火曜は飲食店は休み
水曜日は水商売は休み
土日祝日に休む客商売は無し
だから平日の休み

暇な日も時間も
人によりけり
暇な理由も人によりけり

それに気づく事はとても大切

山田くんとおばちゃんは暇だけど暇な理由は同じじゃないきっと。

おばちゃんは山田くんの未来が狭い灰色の冬眠中のクマが見る世界じゃないことを祈ってる。

おばちゃんは、山田くんと名付けた灰色のスエット姿の青年と目が合って微笑んだ。

平日の午後2時過ぎ。

2024年4月19日

                 心幸














4/18/2024, 4:00:47 PM

無色の世界

「虚無 〜はてしない物語〜」

少し前「世界が灰色に見える」なんて台詞をドラマで聞きました。きっと無色じゃなくて無職で閉籠てる人は世界が灰色に見えたりモノクロに見えたり無色に見えて虚無に食われてしまうのではないか。ドラマレビューでは、なんだかプロなのか素人なのか分からないカウンセラーさん達がいろいろとシッタカな名前を付けていたけど、単に思春期だろって思ってました。高校生のその人が40年後も「世界が灰色に見える」とか言っていてからシッタカな名前をつければと思っていた。そのドラマと同じ頃モノクロの雨の中いつまでもバスを待ってる女の子の物語もやっていて、それらがとても繊細な思春期の心には見えずに、腫れ物に触るように育てられた赤子の成れの果てに私には見えてしまった。そう、無色の世界で「虚無」に食われ無表情な仮面でもつけた様な顔でセバスチャンを虐めていた子供たちのように。

世界の終わりのその果てにいるという「虚無」
子供たちの夢を食い夢想を食い物語を食いつくそうとする「虚無」

選ばれし勇者はセバスチャン相棒は白馬アトレイユ。

セバスチャンとアトレイユは「虚無」と戦い物語を守るために旅に出た。

行く手に「虚無」は広がり
美しく舞い踊り落ちる薄紅色の絹を纏った花弁たちが敷きつめた花弁の絨毯のうえを滑る子供の燥ぐ声も、シュプールを花弁の絨毯のうえに描く橇に乗った虫たちも、その花弁を喋む小鳥たちも姿を消し去り沈黙の無色の世界「虚無」はひた走っていました。

アトレイユは悲しみの沼に捕まり希望を絶やしてしまい沼にのみ込まれてしまいました。

セバスチャンは最後の勇気を振り絞り世界が灰色に見えるモノクロの雨の中バスを待つその世界の果てにいる無色で無関心で無感動で夢想で人の心を支配しようとする「虚無」と戦いました。

戦いは終わり、全てが「虚無」に支配されたような暗闇の中でセバスチャンは涙しました。その涙ひと粒の中に生命が宿り、あかりが灯りました。何処からかセバスチャンを呼ぶ声が聞こえます、声が聞こえる方を目指すと闇の中に光るお城があり女王様がおられました。

「僕は負けてしまったのですか虚無に」
「いいえ、あなたは勝利しました」
「さあ、ここから始まるのです」
「あなたの物語を描いてください」
「まず、わたしに名を」
「物語に登場するものたちに名を、あなたがつけてください」
「そこから、あなたが思い描く全てが」
「この国をつくります」

煌めく数多の物語は、たったひとつの名前から始まるのです。

無色の世界に色をつけながら、色々な物語の色を、あなたがつけるのです。

ミヒャエル・エンデ著書
「はてしない物語」へのオマージュ。

2024年4月18日

心幸







4/17/2024, 1:57:43 PM

「桜散る…いつかのきみへ」

実家の前の古寺に大きな桜の木が立っている
明治生れの彼女の写真にもう今と変わらぬ姿で写っている、その木は大層なお歳だ。

そう想いながらその木が花弁を散らすのを見ていた。

そういえば生まれたばかりの彼女を抱いた彼女の父が、その危なっかしい手つきで彼女を抱いていた日も木は花弁を散らしていた。

彼女が乳母車に乗ってやって来た日も
ランドセルを背負ってやって来た日も
セーラ服を着てやって来た日も
振り袖を着てやって来た日も

そして
おんぶ紐をしてやって来た日も
夫と息子の入った白い箱を抱いてやって来た日も…。

独り泣きながら
桜散る姿を見上げに来た日も

両手に子供の手を携えて
やって来た日も

大きなその桜の木は
そこに立っていて
見上げる彼女に
花弁を散らしていた

泣きながら見上げたり
微笑みながら見上げたり
微笑み合いながら見上げたり

また、独り見上げたり
苦しみながら見上げたり
腹立ち紛れに見上げたり

彼女は何度も何度も
桜の木の下から
花弁が舞う姿を
眺めていた

やがて月日は流れて
彼女が召され
土に帰り
その木の下で眠りにつき

春が来て
彼女は花弁になって
私の肩に舞い降りた

「おかえり」 

彼女の声を
私は確かに聞いた

桜散る午後

久かたの 光のどけき 春の日に 
しず心なく花の散るらむ     小倉山荘


2024年4月17日

心幸







4/16/2024, 12:15:22 PM

夢見る心

不来方の
お城の草に
寝転びて
空に吸われし
十五のこころ

              石川啄木

一握の砂にある啄木の詩歌である。
抒情的で繊細な思春期の心を詠んだ詩で100年以上が経った現代でも思春期の普遍性のようなものを感じることが出来る。

現代「厨二病」なんて言葉を使ってこの思春期を下げる若い人たちがいる。実際自分がその只中にいると他人の感傷的な心に嫌気がさしわざわざそんな言葉で傷つけるという、どちらが厨二病だといった言動をとる。

厨二病は素晴らしいですよ、デリケートでナイーブで誰もが詩人になれる時です。

この石川啄木の詩歌も色々な先生方が解説しますが、感じ方なんて自由じゃないかと空を見上げ寝転ぶ十五歳の心は語っているように思います。

実際不来方の城は何処の城でも良くて、自分の故郷にはひとつかふたつくらいは城もあるだろうから、その城でも思い出し草原に寝転んで空を見上げた時の心を感じろと言っている。どう感じるかは自由だが、空に心なんかどうやって吸われる?なんて野暮な話はするな、吸われそうになる心を感じろと言っている。

夢見る頃を過ぎても
夢見る心は
置いておきたいものだ
心のどこか奥の方に…。

2024年4月16日

                心幸                

Next