虹に顔を上げることを知った。
道端の花に目を向けるようになった。
雨音のエチュードに耳をすませはじめた。
日々の小さな発見や楽しみはすべて君が教えてくれたものだった。色あせた毎日に色を光を音を与えてくれた。
世界に溢れる何もかもに意味が楽しさが発見があると、輝いた瞳と弾んだ声がそう伝えてくるから。
けれど、だけど、それは。
君という存在があってこそだったのだと今更ながらに思い知った。君が好きだった音楽も料理も植物も君がいなければただの物体でしかないのだと。遅すぎる発見をする。
きっと君は知っていたのだと思う。自分に与えられたリミットを。それを精一杯使って楽しさを輝きを素晴らしさを教えてくれたのだと今ならわかる。それでも……
「君がいないなら……」
«ひさしぶり»
最上級生になった気分はどう? 体調は?
貴方は無理はしがちだから心配だわ。
部活の方は順調? 大会には顔を出すつもりだから頑張ってね。なんて重荷になってしまうかしら。実力は誰よりもあるから平常心で挑めばいいのよ。
私の方も新天地でなんとかやっているわ。あなたの志望校もここなのよね? 言ってくれれば案内するから声かけて頂戴ね。
P.S. 卒業式の日は花束をありがとう。一輪だけだけれど栞にして取っておいているわ。
月に一回の部活のない日の午後6時。無感情な通知が卒業してしまった大好きな先輩からの連絡を告げる。急いで内容を確認すれば先輩らしい優しく思いやりに充ちたメッセージがそこにあった。
もう使われることの無いと思っていた連絡先。それでも消せなかったその未練を見透かしたように届けられた言葉はきっと私にとって何よりの御守りになるのだろう。
それでも、その純粋な優しさが少しだけ痛かった。だってあなたの思う可愛い後輩なんてここにはいないもの。
(あの花束は……)
黄色のチューリップ·アネモネ·シオン·黄色いスイセン·ワスレナグサetc. 可憐な花に込められた想いは
マジナ
それは呪い
(こんなにも、一方通行だ)
「望みのない愛」「儚い恋·恋の苦しみ」「君を忘れない」「私のもとへ帰って」「私を忘れないで」
『神様』なんて
信じたことはなかった。
だって、そんな存在があるとしたら今の私の置かれている現状はいったいなんの冗談? それとも神様とやらにも私は嫌われているとでも言うの。とんだトラジェディ。
どちらにしても私を幸せにしてくれもしない幻想なのなら有も無も同じことだった。路肩の石よりもなお無関係な例えばそう未確認生物みたいな。
でも確かに信じたことも、いいえ、信じようとしたこともあったのだけど。どうしようもなく何かに縋り付きたくなって神頼みだなんてらしくないこともした。
なぁに? ええ、そうね。他力本願じゃ救われない。あなたの言葉は非のつけ所もない正論よ。正しくって痛くて妬ましいわ。
そうでしょ? そんなふうに何かを信じれる時点で恵まれているのだもの。悪いなんて言うつもりも責めるつもりもないけれど。でもそうね。残酷だとは思ってしまう。
だって、
カミサマ
「あなたは私を救ってくれないもの」
吸い込まれそうだと思った。
そのひとの煌めきを宿した黒いガラス玉は飾り気などなにもなく温度というものを感じさせない凛とした色をしていた。
鏡のように鋭く真っ直ぐで曇りも歪みもない、只只ひたすらに現実を映し出す穢れのない瞳。それがあまりに気高く美しすぎて直視するには胸が切り裂かれるほどに痛くて。それが、どうしようもなく怖かった。
何だか自分の弱さとか狡さを白日のもと晒されてしまうような、潔癖さや清らかさを湛える迷いのない上向きの眼差し。羨ましくて妬ましくて、それからやっぱり恐ろしかった。
(水鏡を覗き込んだみたいだ)
深く底が見えないのにただ青だけはどこまでも続いていて、清水よりも尚濁りのない静けさを伴う張り詰めた空間。人を音を温度をすべて排除しているかのような閉ざされた厳格で神聖な雰囲気。
それに自分という異物が写り込むことがどうしても許せなかった。それはきっと……
『〜でいい』
同棲中の彼は口癖のようにそう言う。"〜がいい"でも"〜の気分"でもなく『〜でいい』と。他のものがいいけれど仕方ないから代替品で妥協してやっているとでも言うかのような口調で、そう言うのだ。
もしかしたら、悪気は無いのかもしれない。深い意味は無いのかもしれない。あくまでそういう風にしか喋れない人なのであろう。
……ただ、それでも。いつまでも胸につっかえたような釈然としないモヤモヤが日に日に育っていって、なんとなく彼とこのまま過ごす未来が見えなくなっていった。
ーーーーーーーー
『中華と洋食どっちがいい〜?』
珍しく彼が出かけてくるから食事はいらないと言った土曜日の昼下がり。普段は彼の都合に合わせているから思いがけず得た久々の休みを満喫しようと出かけた先で、見覚えがあるような人影が視界に飛び込んできた。
フリルの着いた可愛らしく乙女チックな己より数歳下であろう女性の横にエスコートするように佇む彼。他人の空似を疑ってみても今朝見送った時のままの服装では勘違いの仕様もない。
『そうだなぁ。中華もいいけど洋食がいいかな。美味しい洋食屋さん知ってるから案内するよ』
『ほんと? 楽しみ! ありがとっ!』
キャッキャと楽しげに笑う女性は頬を紅潮させて彼を見上げている。当の彼も普段の仏頂面とは打って変わって優しい表情で女性を見下ろしている。……いやはやなんとも絵になる2人だ。まるでドラマでも見ているかのようだ。
二股? なんて詰め寄る気はさらさらない。どう考えてもこの場において異分子であるのは私の方で。彼はまだしも彼女の方を責める気持ちは微塵も湧かない。
ただ、心のどこかが冷え切って やっぱりなと諦念にも似たような感情にかられた。
「そういう、こと」
彼女が本命なのなら、彼にとって私の存在そのものが『でいい』ものだったのだ、きっと。
「よし、別れよう」
そうと決めれば善は急げ。楽しんでいる最中の女性には悪いけれど、おじゃま虫が消えて無事フリーになった彼と是非ともお幸せになってもらおう。
心の底からの笑みを浮かべながら、なんでもない仕草で2人に近づく。
「楽しんでるところごめんなさい。お別れしましょう」
「え? 〇〇ちゃん?」
突然の闖入者に彼が動揺を見せる。いや、それは彼女も同じか。目を丸くさせて口を小さく開けている。ごめんなさいね、すぐに居なくなるからほんの3分だけ時間を頂戴ね。
「今までありがとう」
「……は?」
別れを切り出したというのに彼はまだ理解が追いついてないらしい。動揺のひとつもしてくれないなんて本当に貴方にとっての私の存在は軽いものなのね。もう構わないけれど。
「私、妥協で選ばれるの好きじゃないの」
「何言って」
「だから、別れましょう。さようなら。そこのあなたはどうぞ彼と幸せにね」
「っ、ちょっと……!」
デートの邪魔してごめんなさいと謝罪を残して踵を返せば、我に返った彼が引き止めようと腕を掴もうとしてくる。それに口を開いたのは私ではなく怒りを宿したような可愛らしい声。
「あんた何なの!?」
「……っ、」
彼から伸ばされた手は女性の言葉でビクリと震え、そのまま力なく下に降ろされる。それを視界の端に捉えながら振り返らず歩みを進めて人混みに紛れれば、追ってくるような気配もなかった。
(ほらね。それでいい、なんて嘘じゃない)
闊歩した街の空気は意外な程に清々しくて。新しい自分を見つけたようなそんな気がした。