『1つだけ叶うなら』
─── 努力し続ける才能が欲しい。
素晴らしい誰にも負けない能力も、永遠の美貌と命も、使い切れないほどの大金もいらないから。だから、自分の望みを自力で叶えられるだけのチャンスが与えられる力が欲しいと、その人は真っ直ぐに言った。
誰もが非現実的な夢のような御伽噺を願った。そんな軽いほんのアイスブレイクのテーマで、背伸びして届くギリギリの実現させることを視野に入れた望みを囁いた人物。
周りは彼の人を指して変わった人だと形容した。空気の読めない人物だと。けれど、私にとっては目がさめるような言葉であった。叶えたいのなら叶えるまでだと、なんの疑問も持たず言えるその真っ直ぐさと強さは 既に自分が無くしてしまったそれであったから。誰よりも現実的なリアルを語っていたにも関わらず、無垢な子供の純粋さで夢を届くと言っているように聞こえたから。
(あなたは簡単に手を伸ばせてしまうのね)
懐かしい、香りがした。
誰もが視線も交わらせない凍えるような雑踏の中。ふわりと鼻に触れた慣れた、かつて傍にあった特有の匂い。
纏わりつくように甘く、覆い尽くすような煙っぽい、何処か退廃的で危うい崩れそうな あの人の好んだ影を被せる不可思議な世界の香り。
「っ……」
急いで振り返った視界に映るのは忙しないマネキンだけで。思い出だけを引き出したその分子は直ぐに空気に混じって風に流された。
アスファルトの上の水溜りが暗く歪んだ人影を覗かせていた。それが自分自身だと理解するのに有した数十秒。どこかで鳴ったクラクションに現実に意識が過去に飛んでいたことを思い知らされた。馬鹿馬鹿しいほどに幸せで夢のようだった日々。
(本当に、馬鹿だ)
なくしてから、気づいたんだ。
繋いだ手の温もりを。眼差しの輝きを。声音の滑らかさを。熱も、色も、音も、感触も 嗅覚ひとつで。思い出してしまって。
こんなにも求めてしまうのに、それらはすべて取り零してしまった過去で。もう、戻らない。
(大切なもの、だったのに)
後悔はもう叶わない。いまさら何も変わらない。
«大切なもの»
"嘘、でよかった"
"嘘、にしたかった"
だから、始まりにもならない『告白』の終止符として新学期の始まりとなるその日を選んだ。真実すらも偽者へとすりかえる為に。
── 好きだよ。ずっと前から、好きだった。
それは最後のチャンスで、故に最低で最悪な別れの言葉だったと我ながら思う。
何を言われているのかわからないとでも言いたげな表情をした貴方。それはそうであろう。今日まで自分は友人の誰よりも近く、けれど恋人なんて甘さはない 普通の当たり前の友情を築いてきたのだから。
だからこれは、裏切り行為に等しい。否、それ以外のなんでもない。けれど、この学び舎から別の空に向かって飛び立った自分たちはこれまでの地位を変わらず保つことは厳しくて。ならせめて思い出にと欲張ってしまったこの業。
── 返事はいらない。伝えたかっただけだから。身勝手でごめんね。今までありがとう。
身勝手に言い募り、呆然と立ち尽くす貴方に背を向ける。優しい貴方はどんな返事も出来ずに私の言葉が消化できるまで思考の迷走を続けるでしょう。その世界で私はきっと永遠だ。
『それはきっと幸せなこと』
--------
「随分と昔のことを……」
あのころ私は幼くて我儘で。大切なものが手からすり抜けてゆくことがどうしても許せなかった。だからせめても、と。そんな子供騙しの行為。
思い出したのはきっと薄く儚い花のせい。どこを見ても視界に入る柔らかな花弁。私の罪の証。
「嘘、でよかった と思いたかったの」
「何が? ようやく見つけた」
吹き付けてきた風が桜花のカーテンとなり視界を遮る。そして再び瞳を開けたら、ここにいるはずもない人が見えた。
今年のエイプリールフールの気まぐれは随分と都合よくできているのだと笑いながら、その幻覚に一歩だけ近づいてみる。あまり傍によれば消えてしまいそうな気がして、普段より小幅な一歩になった。
「ねぇ、あの日私は私以外に嘘をつかないように と心がけていたんだよ」
甘く優しい幻想に向けて種明かしをする。あの日私に嘘があったとすれば、『嘘をついてもいい日』を『嘘をつく日』だと思い込ませたこと。
嘘と真実の境目がぼやけた瞬間は都合の悪い事象を嘘にできたから。現実に傷つくことなく逃れられるから。
「嘘、にしたいと願う程 本気だったから」
なりたいと願った。
─── "しあわせ"になりたいと願った。
「そう願うことはいけないことかしら?」
縋るように尋ねた言葉を聞いた相手は少し困ったような悲しそうな、いろいろな感情が入り交じったような不可思議な表情をしていた。ように思う。
「悪い、と一概に言うことではないけれど。……割とありふれた当然の願いだと思う」
「当然の願い。の割には、随分と含みのある表現ね」
それは責めるような諌めるようなニュアンスは含まれていなかった。ただ、どこか物憂げでまるで何かを諦めたような、それでいて酷く芯の通った色をしていた。
「願うだけじゃ、叶わないから」
"叶わない" 僅かな諦念の混じったその声には、それでも絶望も悲観の欠片もなく、寧ろ洞窟を抜けた先に見えるような遠く小さいけれど確かな光のような希望の色が見えた。
太陽のような身を焼き尽くす明るさではなくて、月の光のような仄かで静けさを伴うどこか寒さすら抱える しかし柔らかな光源。
「だから。足掻いてみようと、私は、そう思う」
「……そう」
彼女は強い人だとずっと思っていた。悩むことも迷うことも傷つくこともない、そんなもの瑣末なことだと切って捨てれるような強い人だと。
しかし、違ったのだ。確かに彼女は強いのかもしれない。けれど、その強さは身を守る強さではなく 前を向いて現実を受け止める目を逸らさない しなやかな強さなのだ。
(あぁ、本当に彼女は……綺麗だ)
真っ直ぐで気高い、自分というものに対する誇りのある生き方をしているのだろう。羨ましいと、言う事すら憚られる毅然とした態度。
それはまさに月のように美しくあった。
『誰もが 幸せになりたいと願う』
──個人的な考えだけれど不幸になりたいと心底願う人間はいないと思うわ。
彼女はそう呟いた。不幸になることが心の平穏を保つのであれば、それはその人にとってある種の利益や救いとなるのでしょう と。
そんな風に 誰も己の為に生きている のだと。だからこそ他人に優しくもできるのだと彼女は言った。
「幸福を願う。それ自体は悪いことじゃない」
摂理だわ。寧ろ そうでなくては生きている意味もないでしょう? 自分の為に生きていればそれでいいのよ。
ただ、己の為の人生を彩る一部として他人の存在がそこにあって、例えば笑顔やお礼に価値を感じて そうやって親切は広がっていくのだと。
「だからね、自己中心的でも別に構わないのよ」
自分を大切にするように相手を尊重して認めてあげさえすれば それだけで。
そうやって花のように笑う彼女はきっと誰より芯のある優しさに充ちていた。