渚雅

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懐かしい、香りがした。


誰もが視線も交わらせない凍えるような雑踏の中。ふわりと鼻に触れた慣れた、かつて傍にあった特有の匂い。

纏わりつくように甘く、覆い尽くすような煙っぽい、何処か退廃的で危うい崩れそうな あの人の好んだ影を被せる不可思議な世界の香り。


「っ……」

急いで振り返った視界に映るのは忙しないマネキンだけで。思い出だけを引き出したその分子は直ぐに空気に混じって風に流された。

アスファルトの上の水溜りが暗く歪んだ人影を覗かせていた。それが自分自身だと理解するのに有した数十秒。どこかで鳴ったクラクションに現実に意識が過去に飛んでいたことを思い知らされた。馬鹿馬鹿しいほどに幸せで夢のようだった日々。


(本当に、馬鹿だ)

なくしてから、気づいたんだ。

繋いだ手の温もりを。眼差しの輝きを。声音の滑らかさを。熱も、色も、音も、感触も 嗅覚ひとつで。思い出してしまって。

こんなにも求めてしまうのに、それらはすべて取り零してしまった過去で。もう、戻らない。


(大切なもの、だったのに)

後悔はもう叶わない。いまさら何も変わらない。







«大切なもの»

4/2/2024, 2:54:11 PM