それは幸せの結晶
時に華やかで色鮮やかに、ときに慎ましくシンプルに。送り手や造り手の気持ちが溢れるほどに込められたフラワーブーケ。
卒業式に結婚式 合格祝いや退職祝い 退院祝いに出産祝い。おめでたい事には必ずと言っていいほど花がある。私たちの人生においてきっと花は切っても切れない関係にあって、日々をほんの少し明るくしてくれるのだと思う。
「あの、お世話になった教授の退職祝いで」
ほらこんな風に。自分ではよくわからない花というものを色や形 匂いに花言葉など様々な意味を持たせて世界にたった一つの 感情の詰め合わせのような花束へと織り込んでゆく。
花だけではない。ラッピングペーパーにリボン メッセージまで人揃いにして そうしてようやく相手に渡すためのブーケが出来上がる。
だからきっと、相手のことを考えて幾万パターンのうちから選ばれたそれは 世界に2つと無いあなたの為だけのプレゼント。
怒りとか悲しみとか そういった負の感情は、何か起こる度に多分コップのような何かに溜められて、ゆっくりゆっくり気が付かない間に満たされて、それから表面張力が耐えられなくなった瞬間に決壊し溢れ出すにだと思う。
だから、突然キレただとか冷たくなった訳ではなくて、今まで堪えていたそれが限界に至ってしまったのだろう。きっとあのひとも。
「……ごめんなさい なんて今さら」
言えやしない。
その言葉は所詮自己満足に過ぎないから。謝る権利も自分にはなくて、許されたいだなんて傲慢だ。
テーマ : 溢れる気持ち
(Chu ♡)
耳元で軽いリップ音が鼓膜を揺らす。触れた熱は一瞬で離れて、微かに残る感覚と鼻腔をくすぐる香りだけが これまで幾度も繰り返された行為が現実であると訴えていた。
そう。それは幾度も繰り返された行為。感謝と親愛を伝えるためだけの特別ではない行動。
「ありがと、遥。大好き」
「どういたしまして。何度も言うけど、ここは日本だから」
本当に何度このやり取りを繰り返したことであろうか。いい加減慣れてきて表情と声色だけは平然を装っているが、内心は未だにどぎまぎしていて鼓動も通常の比ではない。
目の前のこいつは帰国子女であり感情表現の基準がそちらによっている。嬉しければ抱きついて、感激すれば抱きしめて、感謝すれば頬に口付けをする。そういう生き物である。
それが悪いとは言わない。言わないけれどまぁ 心臓には悪いし嫉妬もする。それがどんなに無意味な感情だとわかっていても 心はコントロールできないから。
「そんな簡単に触れちゃダメだよ」
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(Chu ♡)
感激したふりをして口元すれすれに唇を触れさせる。こういう時帰国子女だという自分の経歴に感謝する。けれど、
「ありがと、遥。大好き」
「どういたしまして。何度も言うけど、ここは日本だから」
(君以外にはしてないのにな)
帰国子女が誰彼構わずスキンシップするみたいな勘違いが起きていることだけは不満だ。だいたい親愛のキスは頬か額にしかしないし、基本は家族にしかしないものなのに。
「そんな簡単に触れちゃダメだよ」だなんて。
(君は酷い人だね)
テーマ : «Kiss »
「ゴールってどこにあるのかな」
「いきなり何」
突然意味のわからないことを言い出した友人に突っ込む。慣れてきたとはいえ抽象的すぎる質問に答えるには説明が不足し過ぎである。
「人生?」
「重いな?」
素で突っ込んだ。いきなり壮大かつ堅苦しい話をされれば現実逃避も兼ねて突っ込みたくもなる。というか何故人生について語られているのか。同じ人生に語るについても夢とか将来とかそういう明るい話にしてくれ。高校生の世間話のテーマとは思えない。
目の前にいる友人は別に悲観主義なわけでも退廃主義な訳でもない。ただ少し現実主義が行き過ぎて考えすぎなだけで。で 今回は人生のゴールについて気にかかったと。
思うにこの場合のゴールは終着点とかそういったものであろう。何故自分に聞いた?人生相談なら教員にしてくれ。
「終の眠りとか?」
「やめろ,終えるな」
なんで強制的に終わらせた。確かにゴールはゴールに違いないが、それは強制終了だ。シャットアウトをゴールにするな。
「なら何?」
「……ないんじゃないか」
こいつは目標に向かって生きてるようなやつだ。目指す場所がなければ迷子になるような、そんな人間。願いや夢といったものに向き合って進むことは得意だけれど、道標がなければ途端に崩れる。
なんというか素直な子供みたいな。誰かや何かに行く先を決められなければ進めないタイプの生き物。世の中そんな簡単じゃないのにな。
「どういうこと」
「途中経過の中間ゴールはあっても、辿り着いたら終わりのゴールなんてない」
そうでなければ夢を失った抜け殻ができるだけだから。人生という旅路には幾つものポイントはあってもゴールなどは存在しない。旅路の果てなんて、本当の終焉に知ればそれでいい。
「お前はずっと何かを追いかけて目指してるぐらいがお似合いだ」
「……そっか。ありがと」
だから、そんな悲しそうな顔でゴール(終わり)について語ってくれるな。そんな言葉は飲み込んだ。
テーマ:旅路の果てに
『こんな夢を見た』
日本語というのはつくづく不可思議で難解な言語だと思う。例えば『夢』といえば布団の中で見るものか、叶えたいと願う事柄のどちらを指すのかわからないから。
けれど、今回の場合は転寝の時に見る方の夢についてのテーマなのだと思う。もう一方は"みる""みていた"という表現はしても"見た"とは言わないから。
私はあまり夢を見ない。眠りが深いせいか全くと言っていいほど夢を見ない。たまにベット以外で寝落ちした場合はその限りではないが、それでも夢を見る確率は低い。割と昔からそうであった。だからだろうか、その分フィクションに心惹かれたのは。
周りの子達は夢の中で何にでもなれると語った。私は本の中で何者にでもなれると知った。彼らにとっての夢は私にとっての本であった。
けれど、たまに、本当にたまに羨ましくなる。私も夢を見たいなって。そんな夢をみた。