『神様』なんて
信じたことはなかった。
だって、そんな存在があるとしたら今の私の置かれている現状はいったいなんの冗談? それとも神様とやらにも私は嫌われているとでも言うの。とんだトラジェディ。
どちらにしても私を幸せにしてくれもしない幻想なのなら有も無も同じことだった。路肩の石よりもなお無関係な例えばそう未確認生物みたいな。
でも確かに信じたことも、いいえ、信じようとしたこともあったのだけど。どうしようもなく何かに縋り付きたくなって神頼みだなんてらしくないこともした。
なぁに? ええ、そうね。他力本願じゃ救われない。あなたの言葉は非のつけ所もない正論よ。正しくって痛くて妬ましいわ。
そうでしょ? そんなふうに何かを信じれる時点で恵まれているのだもの。悪いなんて言うつもりも責めるつもりもないけれど。でもそうね。残酷だとは思ってしまう。
だって、
カミサマ
「あなたは私を救ってくれないもの」
吸い込まれそうだと思った。
そのひとの煌めきを宿した黒いガラス玉は飾り気などなにもなく温度というものを感じさせない凛とした色をしていた。
鏡のように鋭く真っ直ぐで曇りも歪みもない、只只ひたすらに現実を映し出す穢れのない瞳。それがあまりに気高く美しすぎて直視するには胸が切り裂かれるほどに痛くて。それが、どうしようもなく怖かった。
何だか自分の弱さとか狡さを白日のもと晒されてしまうような、潔癖さや清らかさを湛える迷いのない上向きの眼差し。羨ましくて妬ましくて、それからやっぱり恐ろしかった。
(水鏡を覗き込んだみたいだ)
深く底が見えないのにただ青だけはどこまでも続いていて、清水よりも尚濁りのない静けさを伴う張り詰めた空間。人を音を温度をすべて排除しているかのような閉ざされた厳格で神聖な雰囲気。
それに自分という異物が写り込むことがどうしても許せなかった。それはきっと……
『〜でいい』
同棲中の彼は口癖のようにそう言う。"〜がいい"でも"〜の気分"でもなく『〜でいい』と。他のものがいいけれど仕方ないから代替品で妥協してやっているとでも言うかのような口調で、そう言うのだ。
もしかしたら、悪気は無いのかもしれない。深い意味は無いのかもしれない。あくまでそういう風にしか喋れない人なのであろう。
……ただ、それでも。いつまでも胸につっかえたような釈然としないモヤモヤが日に日に育っていって、なんとなく彼とこのまま過ごす未来が見えなくなっていった。
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『中華と洋食どっちがいい〜?』
珍しく彼が出かけてくるから食事はいらないと言った土曜日の昼下がり。普段は彼の都合に合わせているから思いがけず得た久々の休みを満喫しようと出かけた先で、見覚えがあるような人影が視界に飛び込んできた。
フリルの着いた可愛らしく乙女チックな己より数歳下であろう女性の横にエスコートするように佇む彼。他人の空似を疑ってみても今朝見送った時のままの服装では勘違いの仕様もない。
『そうだなぁ。中華もいいけど洋食がいいかな。美味しい洋食屋さん知ってるから案内するよ』
『ほんと? 楽しみ! ありがとっ!』
キャッキャと楽しげに笑う女性は頬を紅潮させて彼を見上げている。当の彼も普段の仏頂面とは打って変わって優しい表情で女性を見下ろしている。……いやはやなんとも絵になる2人だ。まるでドラマでも見ているかのようだ。
二股? なんて詰め寄る気はさらさらない。どう考えてもこの場において異分子であるのは私の方で。彼はまだしも彼女の方を責める気持ちは微塵も湧かない。
ただ、心のどこかが冷え切って やっぱりなと諦念にも似たような感情にかられた。
「そういう、こと」
彼女が本命なのなら、彼にとって私の存在そのものが『でいい』ものだったのだ、きっと。
「よし、別れよう」
そうと決めれば善は急げ。楽しんでいる最中の女性には悪いけれど、おじゃま虫が消えて無事フリーになった彼と是非ともお幸せになってもらおう。
心の底からの笑みを浮かべながら、なんでもない仕草で2人に近づく。
「楽しんでるところごめんなさい。お別れしましょう」
「え? 〇〇ちゃん?」
突然の闖入者に彼が動揺を見せる。いや、それは彼女も同じか。目を丸くさせて口を小さく開けている。ごめんなさいね、すぐに居なくなるからほんの3分だけ時間を頂戴ね。
「今までありがとう」
「……は?」
別れを切り出したというのに彼はまだ理解が追いついてないらしい。動揺のひとつもしてくれないなんて本当に貴方にとっての私の存在は軽いものなのね。もう構わないけれど。
「私、妥協で選ばれるの好きじゃないの」
「何言って」
「だから、別れましょう。さようなら。そこのあなたはどうぞ彼と幸せにね」
「っ、ちょっと……!」
デートの邪魔してごめんなさいと謝罪を残して踵を返せば、我に返った彼が引き止めようと腕を掴もうとしてくる。それに口を開いたのは私ではなく怒りを宿したような可愛らしい声。
「あんた何なの!?」
「……っ、」
彼から伸ばされた手は女性の言葉でビクリと震え、そのまま力なく下に降ろされる。それを視界の端に捉えながら振り返らず歩みを進めて人混みに紛れれば、追ってくるような気配もなかった。
(ほらね。それでいい、なんて嘘じゃない)
闊歩した街の空気は意外な程に清々しくて。新しい自分を見つけたようなそんな気がした。
『1つだけ叶うなら』
─── 努力し続ける才能が欲しい。
素晴らしい誰にも負けない能力も、永遠の美貌と命も、使い切れないほどの大金もいらないから。だから、自分の望みを自力で叶えられるだけのチャンスが与えられる力が欲しいと、その人は真っ直ぐに言った。
誰もが非現実的な夢のような御伽噺を願った。そんな軽いほんのアイスブレイクのテーマで、背伸びして届くギリギリの実現させることを視野に入れた望みを囁いた人物。
周りは彼の人を指して変わった人だと形容した。空気の読めない人物だと。けれど、私にとっては目がさめるような言葉であった。叶えたいのなら叶えるまでだと、なんの疑問も持たず言えるその真っ直ぐさと強さは 既に自分が無くしてしまったそれであったから。誰よりも現実的なリアルを語っていたにも関わらず、無垢な子供の純粋さで夢を届くと言っているように聞こえたから。
(あなたは簡単に手を伸ばせてしまうのね)
懐かしい、香りがした。
誰もが視線も交わらせない凍えるような雑踏の中。ふわりと鼻に触れた慣れた、かつて傍にあった特有の匂い。
纏わりつくように甘く、覆い尽くすような煙っぽい、何処か退廃的で危うい崩れそうな あの人の好んだ影を被せる不可思議な世界の香り。
「っ……」
急いで振り返った視界に映るのは忙しないマネキンだけで。思い出だけを引き出したその分子は直ぐに空気に混じって風に流された。
アスファルトの上の水溜りが暗く歪んだ人影を覗かせていた。それが自分自身だと理解するのに有した数十秒。どこかで鳴ったクラクションに現実に意識が過去に飛んでいたことを思い知らされた。馬鹿馬鹿しいほどに幸せで夢のようだった日々。
(本当に、馬鹿だ)
なくしてから、気づいたんだ。
繋いだ手の温もりを。眼差しの輝きを。声音の滑らかさを。熱も、色も、音も、感触も 嗅覚ひとつで。思い出してしまって。
こんなにも求めてしまうのに、それらはすべて取り零してしまった過去で。もう、戻らない。
(大切なもの、だったのに)
後悔はもう叶わない。いまさら何も変わらない。
«大切なもの»