「あなたがいたから」
感謝の意を表すはずの言葉は,口から零れ落ちた瞬間に呪いへと姿を変える。伝えられた相手を縛る鎖となり雁字搦めに縛りつける。
それくらい重い言葉に聞こえるのはどうしてなのだろうか。純粋なはずの感情がどろりと濁った粘着質の愛と名付けられた何かへと変貌を遂げるのは。
言葉には意味などない。単語の羅列はただ文字と音となり伝わるだけ。意思疎通のためのツール。だから。それが表そうとする何かを 背景を裏側を想像してはいけない。
言葉は呪縛。特に純粋で混じりけのない言の葉はそれ故に毒となりうる。心を切り裂く刃ならまだいい。傷はいつか癒えるものだから。けれど分解されずに堆積していく遅効性の劇物は致死量に達した途端 唐突に牙をむく。
「あなたのおかげで」
「あなたの」
降り積もる
その後ろに込められる無言の訴えは何。
「落下って言えば?」
「林檎?」
ニュートン
物理選択でも,理系ですらない君は首を傾げて呟く。F=ma なんて思わず懐かしい公式を諳んじれば僅かに眉をひそめた表情と目が合った。連想するのはニュートンでも物理は眠くなるから嫌いらしい。そう言えば,読んでいる小説に知らない公式が出てきてもそのまま読み飛ばすのだと言っていたっけ。
「で それがなに?」
「いや,どうって訳でもないんだけど」
ただなんとなく君は何を思うのかなって気になっ
ただけ なんて流石に言えやしないけど。何となしに微笑んで見せれば言うほど興味はないのか追求されることも無く話は終わった。
夜の風が肌を撫でてゆく心地と無言の空間。同じ部屋の中でただ各自 時を過ごす感覚は嫌いではない。どこからか聞こえてくる虫の音色が添える夜の香り。遠くで電車の走る音がした。
「お前は?」
そう問われたのは会話が終わってから何十分もたった後。それが指すのはさっき己がした質問なのだと理解するまでに数秒を要した。
落下で連想するもの……
「アリス」
うさぎを追いかけて穴に落ちていった好奇心旺盛な女の子。帽子にケーキと時計 ティーパーティーにトランプ兵 摩訶不思議なおとぎ話のような物語
なんてちょっとメルヘンチックすぎるかな。
「ふっ」
堪えきれないように小さく吹き出したような声がした。顔を上げて暗い部屋の中 目を凝らしてみればさも可笑しそうに笑みを浮かべる姿。
瞬きを2回ほど繰り返せば軽い謝罪が落とされる。それから伸ばされた手に引き寄せられて気づけば君の腕の中に納まっていた。自分のものより低くゆっくりした鼓動を微かに感じる。
「逆だって思ったら おかしかった」
理系で現実主義な自分と 文系で夢想的な君
ああ確かに 反対。互いのイメージとは逆の言葉を想像してた。意外 なのかもしれないけれど,けどやっぱり納得出来る。違うけれど似ていて,だからこうして傍に居れる気がした。
「じゃあ 真夜中のお茶会しよう。りんご味で」
なんでもない日を特別に。内緒話のように耳元で囁かれた言葉。それは甘い蜜がたっぷり滴る赤い果実の匂いがした。
月夜の下で二人だけの秘密のティータイム。さらさらと砂が溜まっていく度にゆっくりと自覚する。落下していく赤い実は きっと恋心。
テーマ : «落下»
よくわからなかった。
好きとか嫌いとか良いとか悪いとか。
ぜんぶぜんぶ楽しかった。
どれもこれも面白かった。
何もかも興味があった。
全て どうでも良いけれど
正直何にも思い入れがなかった。だって固執したところで疲れるだけで 期待するだけ裏切られて 信じたところで何も変わらない。
なら,おいしいところだけ 綺麗な面だけ 欲しいものだけ見つめていたら幸せになれる。不幸も不快も知らずにいられる。世界は美しいだけで完成する。それが己の思う箱庭の幸せだった。
「なんで嫌いなものに関わるの?」
それは純粋な疑問だった。君は僕が嫌い なら距離を置けばもっと楽に過ごせるのに。無意味な労力を消費せずに済むのに。個人的に,嫌いは無関心に似ていた。
単純な思考回路で動く僕には,いちいち嫌味を言いに来る目の前の人物の行動はどこまでも奇怪に映る。
「あ? そんなの決まってるだろ」
嫌いなくせに反応は返してくれる。目を逸らしたりはしない。僕にとって複雑極まりない感情を教えてくれるのはいつだって君だった。知らない気持ちに名前をつけるのは毎回君だった。
無関心と嫌いに境目を引いたのも君だった。
「きらいだからだよ」
彼の言う好きや嫌いは僕と違って選んだものだった。だからそんな言葉ですら少しだけ眩しくて不思議な気持ちになる。それは不愉快ではないから きっと明日もこうしているのだと思う。
それを "好き"だと気づくのはもう少し先の話。
テーマ : «好き嫌い» 110
「眩しいだけ」
「今の時期が好きなんだけどなー」
日に向かって歩きながら戯れにそんなことを話す。学び舎は山を越えた向こう,必然的に対面するそれに目を細める横顔。
ガラスに乱反射する光線が万華鏡のように忙しなく目を刺し眩む視界が嫌だと語る。曰く酔いそうだと。
「葉桜の時期がいちばん優しい。これから更に目まぐるしくなる。憂鬱」
暑いし。夏本番がこれからとか信じられない。心底嫌そうに言うそれについては,激しく同意する。この穴が開きそうな暑さの中30分も歩くという行為は耐えようのない苦行。けれど,日が長くなり行動時間が増えるその一点で夏は嫌いではなかった。
隣を歩く人物は 日照時間が伸びた分その熱から逃げるように早く行動し,あがりきったら冷所を求め校舎に閉じこもり,日が沈みそうになってからまた行動し始めるのだから。ようはそれだけ長く一緒に居られる。
だから,いつも天気予報を眺め早朝日が差し込むその温もりを楽しみに目を塞ぐ。雨は君との逢瀬を邪魔する。雨音のメロディーを楽しむ君には悪いけれど,梅雨なんて終われと願うしてるてる坊主は密かに常備している。
「なら集合時間早くするか」
不満げに縦に動いた顔を見てほくそ笑む。やっぱりこれからの時期が好きだ。なんて言えるわけもないが。
テーマ : «朝日のぬくもり»
「世界の終わりはどんなふうに過ごしたい?」
それは,たわいもない ただの世間話。誰も世界滅亡なんて与太話を信じてもいないしほんの暇潰しのような話題だった。
ただただ話すこと自体を求めるために用いるテーマのひとつ。大抵はなにか特別で素晴らしい最後の晩餐を開くと答えるのが常。けれど,つまらなそうに本を眺めるその人物は 思いもよらない回答を返した。
「ねぇ,君は?」
直接話しかけてようやく視線をあげる。あからさまな程に渋々と言った様子のそれはいかにも話しかけるなと主張していたがそんなことは気にしない。
「……いつも通り過ごす」
それだけ口にしてまた文字を追い始めたその視線を遮り質問を重ねる。意味がわからなかった。
慎ましくとも最大限の日にしたいと願うのが当然だった。少なくとも僕達にとってはそれ以外の選択肢などありえなかった。
「なんで? 最後なんだよ」
「……なんで最後の日にまともに社会が機能してると思うの。それに最後なんて誰にもわからない」
だから事前に準備して普通に過ごす。明日が来てもいいように。
見下ろした先 影はそう言って小さく笑った。唐突に理解した。理解してしまった。あっさりリアルを語るこの人は日常に不満などないのだ。特別など さほど求めていないのだ。先を見通し幸せな未来を過ごす術を知っているのだ。だからもしもの時は普通に過ごしたいと言えるのだと。
ずるいと思った。だってこんなにも,僕達は もしもに縋るほどに生きることに必死なのに 君はひとり余裕を幸せを持っていた。
「過ごしたい日々があるなら叶えればいいんじゃないの?」
どこか不思議そうな表情で そんな当然な理屈を手渡してくる君は,誰より大人で自由で やっぱり憎かった。
君と過ごしたい。なんて言わせてもくれないくせに。
テーマ: «世界の終わりに君と» 104