ずっと、リピート再生ボタンを押している。終わってしまったら、また最初から再生している。目で見て、耳で聞いて、得た五感を足りない脳味噌で想起させている。
もう形は残っていない。あるのは記憶だけで、写真もベッドもネックレスも、全て無くなってしまった。それでも、記憶には残っていた。それだけで十分だった。
いくら形にしても、それはいつか滅びてしまう。形のある物が劣化しないわけがなくて、写真だって色褪せるし、壊れたベッドは使えずに捨てられて、ネックレスはどこかに落としてしまった。一つひとつと物をなくすたびに、永遠という概念を求めることは間違いだと思った。
でも、そこにそれがいたという事実だけは永遠だった。わたしが知っている限り、それはこの世に残る事実で、わたしがいなくなってしまっても、誰にも知られない、でもそこにあったはずの事実だと改めて認識したその日、わたしはやっと、すこしだけ楽になれた。
だから、今日も、いつも、いつでも、あなたと過ごした日々を思い出している。
檻の向こうにいるらしい。三食ごはん付きで働いている。24時間労働中のブラック待遇ではあるが、命は保証されている。そんな空間らしい。
永遠に出てこれないらしい。下手に外に出したら、人を襲うかもしれないらしい。かといって人のいない場所に放すわけにもいかないらしい。彼の世界はずっと広がらないらしい。
簡単には会いに行けないらしい。彼の方からは行けないので、わたしから会いに行く。交通費1200円らしい。物価が高くなったらしい。檻を運営する人たちも、ちょっと大変らしい。裏に畑を作ったり、エコなことをしているらしい。
離ればなれだったらしい。わたしとあなたは、ずっと動画や配信で観ていたけれど、実は離ればなれだったらしい。でも、今日は離ればなれではないらしい。
しばらく行けていなかった動物園のチケットは、やっぱり値上げしていた。
私の双子の姉は、私とそっくりだ。大きい瞳に長いまつ毛、茶色の髪は伸ばして三つ編み。体型も同じ。唯一異なるのは利き手くらいだった。私は右利き、姉は左利き。
そんな姉は、もう既にこの世にはいない。1人での散歩中、飲酒運転のトラックに轢かれて、あっけなく死んでしまった。葬式には私のことを知らない姉の知り合いが数人いて、私を見て驚いていたのを、他人事のように覚えている。
それももう2ヶ月は前の話で、しかし私は未だに、実感が湧かないでいる。
私は、私の双子の姉とそっくりだ。唯一異なるのは利き手だけで、体型も、伸ばして三つ編みにした茶色の髪も、長いまつ毛に大きい瞳も、そっくりだ。
だから、利き手さえ反転させてしまえば、私は姉になる。例えば、洗面台に、風呂場に、ドレッサーに。私が覗き込んだその板の中には、姉がいる。
毎日、顔を合わせ、笑いあい、互いの話をした、姉がいる。
毎日、目の前で顔を洗い、歯を磨き、メイクをしている姉を、私は真正面から見ている。私の動きに合わせて、右へ左へ、手を動かしている。そんな姉を、私は黙って見ている。姉は喋らず、私を黙って見ている。
「……お姉ちゃん」
毎日顔を合わせているのに、いなくなったなんて思えない。ただそれだけの話だった。
鏡の中の私を、久しく見ていない。ただそれだけの話だった。
ルーティーンというものがある。私の場合は、眠りにつく前に単語帳を眺めながら、月を撮って送ることだろうか。
まだ、この国の言葉に慣れていない。学問の都合で渡った「海の向こう」で、私はいまだに意思疏通すらできないのだ。せめて単語だけでも覚えておかなければ、という思いで、まずは渡ってくる前に本屋さんで買った易しめの単語帳を、頭に叩き込む。
そして、合間に月を眺める。休憩がてら、満月も三日月も、新月の一歩手前あたりの月も楽しむつもりでいる。そして、撮る。一枚、ブレの無いように、なるべく自分の見ているものと同じ月になるように撮る。
送り先は、地元の親友だ。
同じ言葉でも、人によって思い浮かべるものは違う。例えば、さっきの「月」という単語に対して、西洋的な魔女や黒猫を思い浮かべた人もいれば、日本的な縁側での十五夜なんかを思い浮かべた人もいるだろう。月の模様がウサギに見えると言う人もいれば、私の渡ったこの地では、カニに見える人も、髪の長い女性に見える人もいるらしい。
そんな多種多様なイメージがある中、それが偶然にでも、自分と同じイメージを思い浮かべる人がいたら、ちょっと嬉しいかもしれない。
「そっちの月は今日も綺麗だね」
「どう思った?」
「ロケットで行きたい。旗突き立てたい」
「私も!!!一緒に行こうね!!!!!」
「そっちで頑張ってね、宇宙工学」
「頑張る、君も情報工学頑張れ!!」
……同じものを見れているように感じられて、嬉しいかもしれない。
この先ユートピア歓迎。樹海に崖から、あなたのお家のドアノブまで。理想郷に行き着く方法なんてものはどこにでもあって、それはどんな人生を送っていても必ず辿り着くところではあるけれど、早く行きたいのなら、早く行ってもいい。どんな人生を送っていようが、終着点はこの世のどんな光景よりも美しい。
そんな考えから発明された不可逆性の理想郷が、各地に設置されてから、もう2年が経った。ヒト一人が難なく入れるくらいのカプセルで、内側にあるボタンを押すと、カプセル内が窒素で満たされて、苦痛を感じずユートピア行き、一名様ご来店。からっぽになった中身はいつの間にかなくなっていて、もうその時にはお次のかたをご案内。どんな仕組みでできているのだろうか。中にチューブが入っていて、からっぽの死体を火葬所まで直送していたり、とか。
初日では1日のうちに、累計利用者数100人を達成。スーツを着た中年男性から地雷系メンヘラ少女、不健康に太ったスウェットの大人に、小綺麗にした老人まで。みんな等しく、廉価なチケットを購入し、理想郷を求めて旅立った。
実際、死んだら何があるかなんて分からない。それなのに、目に大きなクマをたずさえた女も、腕に切り傷が綺麗に並んだ男も、一見何もなさそうに見える人々も、「死後の世界は理想郷」だと信じて疑わない。オープン2日目、長蛇の列が並ぶカプセルに、あとどれくらいで世界は滅びるんだろうなんて考える。1日100人で住むなら、人類の滅亡はまだまだ先の話だろうに。このカプセルは、世界中どこにでもあるのだ。
思い詰めたような利用者の顔が、ボタンを押すと緩む。その光景をわたしは、向かいの個人経営の喫茶店から眺めている。仕事の作業をするつもりで持ってきたノーパソは、もう一時間は眠っている。頭脳がはたらいていない状態、眠っている状態。それは死んだ後も同じことで、だったら理想郷なんてところでは、なにかを考えたりすることは一切できないだろう。そんなの、辛くはないだろうか。考えることのできない人生なんて、考えられない。
そんなことを考えていると……ふと、何も追加注文なんてしてないのに、店員がやってきた。その片手には、錠剤と水の乗ったお盆。
「サービスです」
「あら……どうも」
「思い詰めてる顔を、していたので」
「………はあ」
「考えすぎるのもよくないです。結局のところ、わたしたちは勝てないから」
「………何の話でしょうか、それ」
「考えるのを終えられるのなら、それこそユートピアだと。個人の意見です」
そう言った店員さんは、錠剤と水を、わたしの前に置いた。
「エクスタシーです。まだ裏の方にもたくさんあります」
「……ありがとうございます」
「特に、考えることが大好きなら、それを嫌いになりたくないのなら、今のわたしたちにとっては、それがユートピアじゃないでしょうか」
「……何が言いたいんですか」
「下手に真実を求めちゃダメですよ」
気付けば、錠剤と水が目の前に置かれたまま、店員さんは消えていた。
結局のところ、わたしはずっと、理想郷へと向かう人々のことを考えている。そこにある思いが何なのか、わたしはまだ理解することができないでいる。
店員さんが言った言葉の真意を掴めたその時には、わたしもあのカプセルに入ることになるのだろうか。それか、目の前の錠剤を飲むか。