「日常ってさぁ、小説の題材になり得ないと思うんだよね」
「…いきなりなによ」
「そもそも何で本を読むかってさ、一瞬でも日常を忘れるためだろ?日常から逃げるための手段であるべき小説が、逆に日常を突きつけてくるなんておかしいと思うんだよ」
「ま、たしかにそういう考え方もあるかもね」
「だろ?大体、そんなに日常が好きなら、小説じゃなくてエッセーとかを読めば良い。息苦しい日常から逃れるための小説に日常を書き入れるなんて、そんな悪辣な趣味俺には理解できないね」
「だからあんた、平凡な日常が描かれるだけのハートフルなホームドラマとか嫌いなのね」
「いや、それはまた違う。ああいうのは単純に、『幸せの正解』を押し付けてくるから嫌いなんだ」
「…なるほどね。でもあんた、日常の要素なんて全くない、SFやらファンタジーやらも嫌いじゃない」
「ああ、あれは非科学的だからな」
「…ややこしい人!」
小説家崩れの彼と私の同棲中。
私が一番幸せだった頃の日常。
(日常)
ぼくの世界は生まれたときから不完全だった。
いわゆる「色盲」というやつで、ぼくがいるのはいつも色のない世界だった。
でも、ぼくの目はきみの瞳の色だけは認識することができた。
きみの瞳が何色なのか、ぼくにはわからないけれど、ぼくはその色が一番好きだ。
きみと過ごした長い年月のなかで、ぼくはもう何も見ることが出来なくなってしまったけれど、今でもきみの瞳の色は、ぼくの心にしっかりと焼き付いている。
(好きな色)
小雨が降る中、安産祈願に訪れた相合傘の二人。そのうちの一人、懐妊した妻に甲斐甲斐しく傘を差し向ける男の声に、わたしは聞き覚えがあった。
──かつて、妊娠したわたしの腹を無慈悲に蹴りつけ、流産させた男。
そんな男が、別の女と幸せになろうとしている。わたしの子供たちは、あの男のために生まれることさえ許されなかったというのに、あの女の子供は同じ男に生まれることを望まれている。
許せない……許さない。
──────
「あっ、」
「ん?どうした?」
「今、黒猫が横切ったの。」
何か不吉~、と私はごく軽い気持ちで言ったが、夫はなぜか、何か後ろめたい事でもあるかのように、奇妙に顔を歪ませて言った。
「…そんなの、ただの迷信だよ。」
(相合傘)
私は幼い頃から夕焼けが怖かった。理由はわからないが、真っ赤に染まった空を見ると、それだけで体が硬直し動けなくなった。そのせいか、その頃から私の心は常に緊張し、同時に疲弊していた。何をするにも情熱を持てず、派遣社員として無為に仕事をするだけのつまらない大人になった。その日も終業時間まで誰とも話さず定時にタイムカードを切った。
私は得体の知れない何かに怯え続ける人生に疲れきっていた。私は死ぬつもりで、一人会社の屋上にいた。建物の端に両足を揃えて立ち、下を覗き込むと、はるか下に道路が見えた。その瞬間、私は全てを思い出した。
それは私がまだ小学校に上がったばかりの頃。その時私は一人で学校からの帰りを急いでいた。夕暮れ時、空は血のように真っ赤だった。古い巨大な団地の前まで来たとき、足早に歩く私の目の前になにかが落ちてきた。人間だった。私の視界は、団地の屋上から飛び降りた男の血と空にかかる夕焼けで真っ赤に染まった。
……。
なんだ。そうだったのか。私はたった一人のろくでもない欲望のために、これまでの人生を台無しにされてきたのか。そう思ったら、全てが馬鹿馬鹿しくなった。私は死ぬのをやめた。自分のためにこれからの人生を生きようと思った。屋上から見る夕方の空は赤く染まっていたが、もう怖くはなかった。
(落下)
[閑話休題]好きな本
・三島由紀夫『春の雪』(豊饒の海 第一巻)
同上 『金閣寺』
同上 『午後の曳航』
同上 「鹿鳴館」(『鹿鳴館』より)
同上 「斑女」(『近代能楽集』より)
・太宰治『人間失格』
・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
・シェイクスピア『十二夜』
同上 『オセロー』
同上 『リア王』
同上 『リチャード三世』
・ワイルド『幸福の王子』
『サロメ』
・ソポクレス『オイディプス王』
・森鴎外『高瀬舟』