雪だるま

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6/20/2023, 12:39:50 AM

 小雨が降る中、安産祈願に訪れた相合傘の二人。そのうちの一人、懐妊した妻に甲斐甲斐しく傘を差し向ける男の声に、わたしは聞き覚えがあった。
──かつて、妊娠したわたしの腹を無慈悲に蹴りつけ、流産させた男。
 そんな男が、別の女と幸せになろうとしている。わたしの子供たちは、あの男のために生まれることさえ許されなかったというのに、あの女の子供は同じ男に生まれることを望まれている。

許せない……許さない。

──────

「あっ、」
「ん?どうした?」
「今、黒猫が横切ったの。」
何か不吉~、と私はごく軽い気持ちで言ったが、夫はなぜか、何か後ろめたい事でもあるかのように、奇妙に顔を歪ませて言った。
「…そんなの、ただの迷信だよ。」

(相合傘)

6/19/2023, 3:26:24 AM

 私は幼い頃から夕焼けが怖かった。理由はわからないが、真っ赤に染まった空を見ると、それだけで体が硬直し動けなくなった。そのせいか、その頃から私の心は常に緊張し、同時に疲弊していた。何をするにも情熱を持てず、派遣社員として無為に仕事をするだけのつまらない大人になった。その日も終業時間まで誰とも話さず定時にタイムカードを切った。
 私は得体の知れない何かに怯え続ける人生に疲れきっていた。私は死ぬつもりで、一人会社の屋上にいた。建物の端に両足を揃えて立ち、下を覗き込むと、はるか下に道路が見えた。その瞬間、私は全てを思い出した。

 それは私がまだ小学校に上がったばかりの頃。その時私は一人で学校からの帰りを急いでいた。夕暮れ時、空は血のように真っ赤だった。古い巨大な団地の前まで来たとき、足早に歩く私の目の前になにかが落ちてきた。人間だった。私の視界は、団地の屋上から飛び降りた男の血と空にかかる夕焼けで真っ赤に染まった。

 ……。
 なんだ。そうだったのか。私はたった一人のろくでもない欲望のために、これまでの人生を台無しにされてきたのか。そう思ったら、全てが馬鹿馬鹿しくなった。私は死ぬのをやめた。自分のためにこれからの人生を生きようと思った。屋上から見る夕方の空は赤く染まっていたが、もう怖くはなかった。

(落下)

6/16/2023, 6:48:42 AM

[閑話休題]好きな本

・三島由紀夫『春の雪』(豊饒の海 第一巻)
  同上  『金閣寺』
  同上  『午後の曳航』
  同上  「鹿鳴館」(『鹿鳴館』より)
  同上  「斑女」(『近代能楽集』より)
・太宰治『人間失格』
・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
・シェイクスピア『十二夜』
  同上    『オセロー』
  同上    『リア王』
  同上    『リチャード三世』
・ワイルド『幸福の王子』
     『サロメ』
・ソポクレス『オイディプス王』
・森鴎外『高瀬舟』

6/15/2023, 6:36:06 AM


 あの人を失ってからというもの、私の世界は全てが曖昧になってしまった。空も、海も、山も、建物も、時折部屋に入ってくる見知らぬ男も、全て灰色。私にとってはどうでもいい。

 灰色の空虚な世界から逃げ出したくて眠りのなかに身を投げても、あの人の思い出は遠く霞んで二度と鮮やかには戻らない。あの人と見た空も、海も、山も、建物も、全てが混ざり合って一つになってしまう。





 私は、これが夢か現か、それすらも曖昧な世界で、今日も魂を失ったまま彷徨い続ける。

(あいまいな空)

6/14/2023, 3:13:23 AM

 私の道は、私がこの世に生を受けた時から既に決められていた。

 私は由緒ある寺の跡取りとして生まれた。私は生まれた瞬間から、周囲に期待されていた。私はその期待に応えようと努力し続けた。荘厳で広大な寺の境内だけが、私の世界の全てだった。

 時が経ち、私は周囲からこの寺の正式な跡継ぎと目されるようになった。私には二つ下の弟があったが、彼の性分は厳格な禁欲主義とは相容れず、様々な騒動を起こした末に破門されるに至った。

 弟の破門以降、私に対する期待はこれまで以上に過剰なものとなっていった。この寺の最高権力者である父からは、必ずや次代当主となるように、と釘を刺された。私は彼らの期待に沿うように、今まで以上に努力を重ねたが、私はそんな毎日に疲弊し始めていた。

 ある冬の晩、私は父に呼ばれた。父は私に、私を正式な後継とすることを告げた。
「とはいえ、おまえはまだ精進が足らん。皆への周知は夏まで待ってやる。この半年のうちに今一度身辺をあらため、家督を継ぐに恥じぬよう、これまで以上に精を出して勤めよ。」
 この頃になると、私の心は疲れきっていた。父の言葉は、私をいたずらに焦らせるだけだった。
 
 目立った成果を出せぬまま、梅雨の季節になった。まとわりつくような沈鬱な空気の中、私は庭の掃除をしていた。
 父のいる本堂の方から、妙齢の女が出てきた。女は私を見て挑発的に笑った。境内では、この寺にあるはずのない紫陽花が、魅惑的な表情で花ひらき始めていた。

(あじさい)

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