誰もがみんな死ぬときは一人だけどこの先の時代はまた変わってくるのだろうかどちらにせよ自分は独りで死ぬのだろう。いつかの未来を垣間見てきっとろくなことにならない人生を思うどうしょうもない自分の怠惰さで因果応報の人生を歩むのを恐れる割には努力するのを諦めという逃げで甘やかす。無能のダメっぷりをとことん自覚しながら生きるくせに何処かでどうしょうもない諦めがどこまでも積み重なる。生きるのが苦しいくせに死ぬこともできない。他人の幸せや努力の成果に羨ましさと嫉妬というどうしようもない感情を抱えて変わろうとする努力もできないままこのまま死ぬまでのぼんやりとした人生の薄暗いレールをなんとなく察して諦めに押しつぶされている。
花束を送りたいと思えるような相手がほしいと花屋の前を通るたびに思う。渡したところで邪魔になるのではとか数日たてば枯れてしまうものだとか相手に迷惑になるのではないかというそういうことをあれこれ勘繰って仕舞わないぐらいの信頼関係のもとでただ相手のために喜びが浮かぶように願いながら思いを込めて送ってみたいとぼんやり浮かぶ。案外に様々あるのだと思いながら幸せの花束みたいな愛をたくさん持ってみたかった。心から送り先のない愛がすっかりと枯れていくのをさみしく思いながら生きていく。どうしょうもないさみしいが根をはる心とともに。
時計の針は戻らないわかっているけど後悔ばかりが針が進むたびにのしかかるこうしていればああしていれば悩んだところで変わるはずもなくただひたすらに苦しみの中にいる。その間にも針は進むさっさと切り替えればいいものをどうしょうもなくただただ自分の無駄を積み上げるどうしょうもないのはわかっているがそれでも泥のような後悔はどこまでもどこまでも積み上がる。いい加減に諦めてしまえばいいものを諦めかたがわからないどう生きたって後悔ばかりの人生。死ぬに死ねない残り物のように生きるただ何もない人生。
溢れる気持ちがだいたいろくでもない、どうしょうもない負の感情ばかりが溢れる。どうせならもう少しマシな気持ちで満たしたいのに。悩むのが好きなのか迷うのが好きなのか。まったくもって自分に酔うのが好きなのだろう。もっと無神経に慣れれば楽なのだろうに、そうなることが悲しくて仕方がない楽になる気はするがそのような自分を嫌いになりそうだと思って、ふとやっぱり悩む自分が好きなのだろうと思った。自己愛に浸って苦しむのは不毛なことだろうに、それでもそういう自分を捨てられない。どうしょうもない自分を憐れんで愛するからこそ自己愛なのか。
忘れな草の名前だけは知っている。名前の割に印象深くて覚え易い。自分のことなど百年さきどころかもっと短くても誰も覚えてないだろうが勿忘草はきっと百年先でも生えているだろう。調べてみると美しいブルーの花弁が随分と艶やかだ。忘れな草には紫色のイメージがあった、なんとなくその名前から寂しさのような感情を感じてそこに紫色を連想した自分の感覚が不思議だった。自分の中で紫色が寂しさと繋がるともあまり思っていなかったからだ。小さな花に自分の感性のようなものを自覚するきっかけもらったことに感謝しつつ庭の手入れにそれを摘む、随分と広がってしまった姿は忘れな草と言いつつ主張が強くて忘れられなさそうである。