→短編・A or B
会社の同僚が体調不良で仕事を休んだので、昼休みに私は彼女にメッセージを送った。
―帰りに何か差し入れ買っていこうか?
彼女と私は同じ沿線上に部屋を借りていて、私は何度か彼女の部屋を訪れたことがあった。
彼女からの返信が来ていたのは、夕方だった。
―ありがとう、でも遠慮しとくね。全然元気だから心配しないで。
生気のない彼女の顔が脳裏をよぎり、妙に心がざわついた。最近の彼女は塞ぎがちで、タスク管理ができなくなっていた。
どうメッセージを返そうか? 深追いして追い詰めるようなことになってもよくないよな。
マゴマゴしているうちに、スマートフォンが彼女からのメッセージを知らせた。
そのメッセージに私は固まった。
―眠れないほど、辛いことはない。
え? 何これ? これはどっちに読み取ればいい?
→A.眠れないことが一番つらい
→B.辛いけれど睡眠不足になるほどではない。
ヘルプなのか、日常会話の一端なのか。私は食い入るようにそのメッセージを眺めたが、デジタルの行間は何も教えてはくれない。
返信を考える時間がもどかしい。きっとこれはAのヘルプだ。突き動かされるように私は彼女の部屋に向かった。
もしBなら、お節介だと笑い飛ばしてくれたら上々だ。
テーマ; 眠れないほど
→短編・あなたが落としたのは……
「あなたが落としたのは、夢ですか? それとも現実?」
近所の裏山を散策中、すっ転んで山の斜面を滑り落ち、尻もちついたところが湖で、私の中から何かがぽちゃんと湖の中に落っこちた。
そしたら女神様が出てきて、さっきの選択を迫ってきた。
「えーっと、自分でどっちを落としたのかわかんない時はどうしたらいいんですかね?」
女神様は両手にキラキラ光る玉を胸の位置に掲げ、小さな子どもをあやすような穏やかな声で言った。あの両手のヤツ、どっちが夢で、どっちが現実なんだろう? 両方ともキラキラしてるけど。
夢と現実、どちらも必要だけど、選べるんなら答えは決まってるかな。
「そういう時は直感重視……」
「マジか!?」
ヤベッ! 神様相手に食い気味に言っちゃったよ。
コホンと咳払いの女神様。そして、そこはさすがに神の懐の広さでニッコリと笑った。「直感重視の人もいますが、やはり私は現実をお勧めしますよ」
「やっぱそーですよねぇ」
私は釣られて愛想笑いを浮かべた後、自分の選択を伝えた。
「私が選ぶのは………」
おっ、空にクジラが泳いでる。いいねぇ〜。
私、昔から漫画の主人公になりたかったんだよなぁ〜。世の中、何があるかわからんもんだね。夢叶っちゃったよ。
裏山をおりた私は、ご機嫌で帰路についた。
テーマ; 夢と現実
→短編・その日、初めて知ったこと。
時が止まったような古びた内装のカフェで、僕は彼女と向かい合っていた。
柱時計が時を告げる。その音を合図にするように彼女は口を開いた。
「彼はさよならは言わないで、行ってきますと言いました」
僕たち以外客のいない店内に、彼女の静かな声が響いた。
「だから、待っているんですか?」
伏し目がちに彼女は頷いた。顔には微かな笑みが浮かんでいる。
「じゃあ……!」
声を荒げた僕と、弾かれたように顔を上げた彼女の瞳がかち合い、僕は二の句を飲み込んだ。
その瞳に浮かぶ、待つことへの不安と微笑みに宿る希望とのアンバランスが痛々しくも、彼女に特別な美しさを与えていた。
あの男のせいで僕の知る快活な彼女は消えてしまった。今いるのは、新しいアイデンティティを宿した知らない女性だ。
僕はカフェを後にした。胸元からタバコを取り出す。ひどくもたついた。
タバコに火を点けると、僕の中の何かも一緒に燃えてしまったように感じた。だからだろうか? いつもよりも喉に苦味が走る。
そして、今日初めて、タバコの薄い煙では涙を隠すことができないと知った。
テーマ; さよならは言わないで
→短編・お土産品
宇宙旅行から帰ってきた友人からお土産をもらった。小瓶詰めの宇宙。宇宙旅行といえばコレ、と言われるくらい定番のお土産品。
小瓶の中を薄いベージュ色の気体がほわほわと行き来している。もちろん中身は宇宙ではなく、宇宙線をギュッと圧縮した疑似宇宙だ。
日当たりの良いところに1日置いておくと、宇宙塵、素粒子やら重力が発生し銀河ができる。もちろん星も。
可愛らしいミニ宇宙は1週間ほど膨張し続け、最終的に星が超新星爆発を起こしてブラックホールになる。そうなると小瓶は光を通さない漆黒に満たされる。やがてブラックホールは収縮し、小瓶の中から全てが消える。
ロマンを誘うよくできた土産物だと思う。
噂では、ブラックホールの収縮消滅の際、一瞬だけブラックホールが真珠玉のような光を瞬かせるらしい。それを見たら幸せになれるとか。
今まで何度も挑戦しているけど、一度も成功したことがない。
光と闇の狭間での刹那の光、見てみたいなぁ。
テーマ; 光と闇の狭間で
→短編・杞憂
60歳を超え、健康のためにジョギングを1年ほど続けている。走るのは夕方の1時間程だ。コースは、近所の公園内のジョギングコースから始めて、その日の気分でコース周回か、町中を走るかを決めている。
今日は公園1周の後、近くの線路脇の道路を走るつもりだ。
私と同じようなランナーとすれ違い、公園を通り道にする人々を追い抜く私の視界の端に、1つのベンチが過ぎった。
脳裏にそこに座っていた一組の年若い男女の姿が浮かび上がる。
彼らを見たのは1ヶ月ほど前のことだ。2人はベンチに距離を少し開けて腰掛けていた。ケンカしたカップルだろうと私は見立てた。私が公園を3周するあいだ、彼らは話すことなく俯いていて、3周目には姿を消していた。仲直りできたかな、と私はベンチ前を通るたびに彼らを思い出すようになっていた。年寄りの無責任な願望たが、若い人には幸せであってほしい。
そんなことを考えているうちに、私は公園から線路脇の道路にやってきた。行き交う人の顔も見えない暗い道だが車の往来がなく走りやすいのだ。
前からの人影に気がついた私は道を譲った。何事もなかったかのように行き交う。
ちょうどその時、電車が通り過ぎた。車内の明かりが道路を照らす。
人影が見覚えのある顔を持ったように感じ、ふと私は足を止め振り返った。
そこには隙間がないほど肩を寄せ合って歩く一組男女の背中があった。
一瞬ではっきりしなかったが、たぶんあのベンチの2人だ。
そうか、良かった。仲直りしたんだな。
私は再び走り出した。もうベンチを通りかかっても気がかりを覚えることはないだろう。
テーマ; 距離