→短編・その日、初めて知ったこと。
時が止まったような古びた内装のカフェで、僕は彼女と向かい合っていた。
柱時計が時を告げる。その音を合図にするように彼女は口を開いた。
「彼はさよならは言わないで、行ってきますと言いました」
僕たち以外客のいない店内に、彼女の静かな声が響いた。
「だから、待っているんですか?」
伏し目がちに彼女は頷いた。顔には微かな笑みが浮かんでいる。
「じゃあ……!」
声を荒げた僕と、弾かれたように顔を上げた彼女の瞳がかち合い、僕は二の句を飲み込んだ。
その瞳に浮かぶ、待つことへの不安と微笑みに宿る希望とのアンバランスが痛々しくも、彼女に特別な美しさを与えていた。
あの男のせいで僕の知る快活な彼女は消えてしまった。今いるのは、新しいアイデンティティを宿した知らない女性だ。
僕はカフェを後にした。胸元からタバコを取り出す。ひどくもたついた。
タバコに火を点けると、僕の中の何かも一緒に燃えてしまったように感じた。だからだろうか? いつもよりも喉に苦味が走る。
そして、今日初めて、タバコの薄い煙では涙を隠すことができないと知った。
テーマ; さよならは言わないで
12/4/2024, 6:08:09 AM