→短編・素人目利き
二人の紳士の姿が、標本室にあった。
マホガニー材をふんだんに使った重厚な造りの部屋である。ここは、グリューワーズ・ラララ公爵家が有するグレイテスト・ウィッカーハウスの一室だ。
書き物机の天板に、一つの標本が置かれている。
紳士の一人が嘆息した。
「これが、かの有名な秘密の標本……!」
標本の所有者であるグリューワーズ・ラララ公爵は、相手の反応にニヤリとした。
「えぇ、運良く手に入れることができましてね」
訪問客は、ライティングビューローに覆いかぶさるように、小さなマッチ箱程度の標本を凝視した。
「なんと神秘的なのだろう!」
「まさか本物のユデモォボ―ル結晶なのですか?」
「もしかしてユデモォボル結晶かとお疑いですか? そんなものを家に入れるはずないでしょう! これは正真正銘のユデモォボ―ル結晶ですよ」
公爵は、ユデモォボ―ルの「ボール」部分をわざとゆっくりはっきりと発音した。
「我々が見ているあいだにも、色の変化が止まりませんね。これもユデモォボ―ルの特徴ですか?」
「はい、形も一定をなしていないでしょう? それにこのとろけるような香華! しかし昨日は鼻を刺すような悪臭を放っていた。辟易することもありますが、まさにこの縦横無尽な不安定さこそユデモォボ―ル結晶の最大の特徴なのです」
訪問客は、ううむと唸って腕を組んだ。
「このような国家を転覆させるほどの富を約束する標本は、早く手放されたほうが宜しいのでは?」
公爵は、その懸念を笑い飛ばした。
「この秘密の標本を家宝とすることで、我が一族は未来永劫に繁栄するのです」
約束された未来を語る公爵の口上は、さらに続いてゆく。富を、繁栄を、と熱を帯びてゆく公爵とは対極に、訪問客は押し黙った。しかし、次の瞬間、彼は片眉をあげてニヤニヤと揉み手を始めた。
件の標本がパキッと小さなクラック音を鳴らしたのだ。
それを耳にしたのは、訪問客ただ一人だった。実はユデモォボ―ル結晶をよく知る彼は、その性質に精通していた。
「ところで公爵? 運を味方につけていらっしゃる公爵には、大したリターンにはなりませんが、手堅い投資のお話がございまして……――」
今日もたくさんの観光客で、グレイテスト・ウィッカーハウス美術館は賑わっている。かつてはグリューワーズ・ラララ公爵家の邸宅だったが、はるか昔に一族が滅んで以降、国管理の美術館となった。
「は~い! ご注目くださ〜い。これがこの美術館最大の目玉である、ユデモォボル結晶の標本です」
小さなマッチ箱の標本がアクリル板に覆われ、高々と掲げられている。
「汚い石だね」
「これがユデモォボ―ル結晶だって勘違いされてたヤツ?」
「ユデモォボ―ル結晶なら、家が滅びなかってのにねぇ」
「バカだよね。専門家でも見極めが難しいのに、素人診断で一族滅亡ってさぁ」
「悪縁上昇のユデモォボル結晶と、幸運の永久機関のユデモォボ―ル結晶ねぇ〜」
「まるで光と影だね」
ひとしきり盛り上がった観光客は、次の場所へと移動してゆく。
美術館の順路に従えば、次に進む場所は、莫大な借金を抱えた公爵がその命を終わらせた寝室である。
テーマ; 秘密の標本
→理想の朝
冬の早朝、静かな朝に深呼吸。
まだ世界が目覚める前の凍った空気を、体の隅々まで送るように吸い込む。。
眠った身体が覚醒める。心が静謐なもので満たされる。
1日の始まりを、朝と迎える。
テーマ; 凍える朝
(理想ト現実ノ乖離ハ、寝具ノ誘惑zzz)
→認識
影踏み、影絵。
子どもにとっては、光も影も遊び道具の一つである。
いったい何歳くらいから、光や影にレゾンデートルのような哲学的な意味を見出すようになるのか?
それは思考の発達なのだろうか? それとも、世慣れした大人の斜に構えた考察なのだろうか?
テーマ; 光と影
→夜、去る。
そして、夜行バスは出発した。
遠ざかるバスターミナル。
後ろに小さくなってゆく。
私は振り返らない。
絶対に振り返ったりしない。
太ももの上に置いた手を固く握りしめる。
緊張は、まだしばらく解けないだろう。
後ろに小さくなってゆく、町。
生まれ育った町。
大嫌いな町。
田舎で、凡庸で、誰もが知り合い。
歴史で習った五人組制度を地でゆく近所付き合い。
寄り合いとか、町内会、共同体の極地。
遠慮なくプライバシーに踏み込んでくる。
仲の良いフリの腹の探り合いは愚かだ。
私は、彼らに溶け込んたりしない。
私は、彼らに迎合したりしない。
私は、私一個人なのだから。
窓から風景を見る。
遠くに町の明かり。
私の育った町の明かり。
さようなら。
テーマ; そして、
→短編・香水のかほり
洋行帰りの叔母様が、お土産をくださった。小さなガラス瓶に黄金色の液体が入っている。
私は光にかざして瓶を振った。瓶の中に黄金の波。
「香水よ」
子供っぽい私の素振りがおかしかったのか、叔母様はクスクスと笑って私から香水瓶を取ると、私の手のひらの付け根にシュッと一吹きした。
「素敵な香り」
お花の香りのような、西洋の砂糖菓子のような香りが辺り一面に広がった。心が華やぐ。
「tiny loveという名前の香水よ」
瓶のラベルを私に示して、叔母様は私の手に再び瓶を押し込んだ。
「タイニーラブ?」
叔母様に倣って外国語のその響きを繰り返してみたけれど、全く発音が違っていた。叔母様の発音は早回しのレコードのようで、思わず聴き入ってしまうほどに素敵。
「どういう意味ですの?」
「小さな愛というのが直訳でしょうけれど、tinyはもっと小さな……そうね、包み込むほどに小さい、かしら?」
包み込むほどに小さい! なんて愛おしい言葉。
「では、愛の赤ちゃんですわね」
私は生まれたばかりの弟を思い描いていた。母の手に抱かれた小さな小さな赤ちゃん。
叔母様は「詩的ね」と、にっこり笑った。「差し詰め、初恋や一目惚れのようなものかも知れないわね」
夜、寝具の中で、私は香水瓶を両手でもてあそんでいた。曲線を描くガラス瓶は触り心地がよく、ひんやりとしている。
ほんの少し、天井に向かって香水を振る。タイニーラブの甘い香りが小糠雨のように降り落ちてきた。
いつか私が恋に落ちるとき、この香りを思い出すかしら? 夢現でそんなことを思った。
テーマ; tiny love