→短編・合言葉
「いつもありがとう。オヤスミ」
夫は寝る前に必ず言った。新婚のときから、ケンカでぎこちないときでも、そうでもない普通の日々も、そう言った。
はじめこそ、戸惑いながら「こちらこそ」などとゴニョゴニョと答えに窮していた私も、いつしか「いつもありがとう。おやすみなさい」と同じように返すようになった。
「いつもありがとう」はオヤスミの枕詞みたいだと私は笑ったことがある。彼は眼尻を下げ「一日を気持ちよく終えるための合言葉」と穏やかに言った。彼の健やかな人柄に触れて心が温かくなったことを、私は昨日の事のように思い出す。
何百、何千もの合言葉を繰り返して、私たちは歳を重ねた。
夫の検査入院が入院生活の始まりとなり、寝室を違えることになった私たちは、合言葉の回数を減らした。
長い入院が続き、夫は微睡むことが多くなっていった。
彼の目が開いた。焦点の合っていない瞳が私を探す。最近では会話もあまり成り立っていない。それでも私は彼の耳に口を寄せる。
「私はここよ」
驚いたように口と瞳を開き、夫は私を探した。少し呼吸が荒い。
私は彼の手を取り、もう一度言った。
「私は、ここよ」
ようやく白内障で白く濁る瞳に私を捉えた夫は、私の手をキュッと握った。彼の痩せた腕に筋が浮き立つ。妙な力強さに、私の心臓が早鐘を打った。
彼は努めて温和な微笑みを浮かべ、ガラガラと喉をならし喘ぎながら言った。
「いつもありがとう、オヤスミ」
それは、とても久しぶりに聞いた合言葉だった。
長い夫婦の時間が阿吽の呼吸が、その言外を読み取らせる。
目頭が熱くなり、唇が震えた。
終わりのときが、来てしまったのだ。
彼は喉をヒュッと鳴らした。瞳が涙で湿っている。薬はほとんど効いていない。常態化した痛みが彼を蝕み続ける……。
私は大きく深呼吸をした。
「いつもありがとう、おやすみなさい……」
一言一言に想いを込めて私は言った。自然と脳裏に二人の思い出が過ぎる。
とてもゆっくり彼の目が閉じられてゆく。
「本当にいつもありがとう。ゆっくり休んでね」
力が抜けてゆく彼の手を、私はいつまでもいつまでも握り続けた。
私たちの合言葉は今日で終わり、彼との思い出に変わる。
テーマ; 愛言葉
→短編・一人飯 〜行列の二人・1〜
人気のおばんざいビュッフェ店の行列に並ぶこと30分。まだ順番は回ってこない。
私の前には、高校生らしき男の子が二人で並んでいる。少年と青年を足して2で割って、ちょっと大人にした感じの二人だ。
その一人が急に言った。
「では一句。秋深し 心の友より 飯の友」
彼の声は落ち着きと不思議な力強さに溢れ、玲瓏と周囲に響いた。
なるほど、おばんざいが山と並ぶビュッフェを前にして、食い気に一本の芯を感じる。なんと正直な一句だろう。
ふむふむと私と同じように居並ぶ人たちも聞き入っている。
そんな中、彼の友人が呟いた。
「じゃあ、俺、帰っていい?」
「ごめん! ウソ! 帰らないで!」
大人びた声の説得力は何処へやら。焦りに声を裏返らせた彼は立て続けに言った。「一人飯ムリ! あっ、そうだ! えっと……、秋深し、心の友とぉ、飯の友! どう?」
ん? 彼の芯の通った部分はどこに行った?
「マジで受けとんな。ここまで並んで、今さら帰らねぇよ。腹減ってるし」
周囲がいっぺんにホッとした。何故か広がる見守りの連帯感。
「――次、お並びの〜〜」
お店の案内が告げられ、列が進んだ。二人の少年も進んでゆく。
最近は一人飯が多いけど、今度は友だちを誘おうかな。
友だち同士も楽しいもんね、と二人の背中を見守りながら、私も彼らのあとに続いた。
テーマ; 友達
→短編・女郎蜘蛛
あら? そろそろご出立なさるの? でもねぇ、ご覧くださいな。雨が……、まるでジョウロで振りまいているかのような大きな雨粒ですわ!
荒天もありなん、とラヂオのお天気予報通りでございますねぇ。まぁ、ご存知でらっしゃらなかったのですか? あらあら、まぁまぁ。
こんなお天気ですもの。もう少しごゆっくりなさっても宜しいのではなくて? お茶を淹れ直して参ります。渡来品の砂糖菓子もお持ちいたしますわね。
え? お茶はもういい? そんな、ご遠慮なさらないでくださいまし。え? そうではなく、朝からすでに何杯もいただいた、と。
まぁ! なんて謙虚なお方なのかしら! 訪問販売員をなさってらっしゃるとは思えないほど、内気なご性分ですのね。
あっ! わたくし、良いことを思いつきました! 夕餉をご一緒いたしませんこと?
え? そろそろ日暮れ前だから帰社をお考えに? まぁ、残念! 持っていらした包丁セットを全て購入させていただいて、当家の料理人たちに与えようかと思案していた矢先だったのですが……。お帰りになるなら、そのような込み入ったお話をするわけには参りませんわねぇ。本当に残念!
あら? 思案顔をなさって、可愛らしいこと。どうかなさったの?
まぁまぁ! もう少しお時間の都合がいただけそうですの!? 嬉しゅうございますわ! さっそく、新しいお茶とお茶菓子、それに夕餉の準備を指示いたしますわね。
ところで、少しばかり顔色がすぐれないご様子ですが、大事ございませんか? 身体が重い? あらあら、お薬に弱い体質でらっしゃるのね。
あぁ、独り言でございます。お気になさらないで。無理をなさらず、そちらの長椅子でお寛ぎくださいませ。
ご安心なさって。包丁セットはさっそく上手に使わせていただきますから。
テーマ; 行かないで
→短編・進路希望調査用紙と屋上
あ~、何もかもメンドクサイなぁ。
将来とか進路とか、なぁ……。
たった一枚の紙切れが重い。
真剣に考えなきゃいけないんだろうけどさ、全くノープランだわー。しかも、皆、案外考えてんだよなぁ。
置いてけぼり感が、また辛い。
うー、ヤな落ち込みモードに入りそう。
よし、決めた!
確か……、こうやって、ここを折って、こっちは谷折り?
うん、いい感じじゃない?
私は、さっそく紙ヒコーキを飛ばした。
どこまでも続く青い空に白い紙ヒコーキが飛んでゆく。
第一志望も第二志望も、空に飛んでいったので、
今日だけ、今だけ、私は『私』を休むことにした。
なぁんにも考えず、ぼんやり昼寝するのさ。
テーマ; どこまでも続く青い空
→短編・名作探訪 第87回
天麩羅屋台『天』の『衣替え』
『天』は、全国津々浦々を行脚する天麩羅屋台だ。
地どれの食材にこだわり、その土地の気候風土を加味して天麩羅に仕上げるので、同じ食材でも土地によって味が違う。例えばニンジンなどは、寒い地方では甘く、暖かいところではさっぱりと風味が立つ。店主の食材への深い愛情と探究心の所以だろう。
さて、メニューを持たないことで有名な『天』には、年に2度だけの特別コースがある。
それが、時候をコンセプトに掲げるコース『衣替え』である。人々が季節に装いを整えるように、『天』の天麩羅も時候に合わせて衣を変える。
コース『衣替え』は、同じ食材を薄衣と厚衣で提供される。衣という装いを変えた食材たちの異なる味わいは、いずれも滋味深いと評判を呼んでいる。
電話番号なし、予約不可。
屋台ののぼりを見かけたら、即来店が望ましい。
テーマ; 衣替え