「ココロオドル」という曲が昔あった。
ヒップホップのようなレゲエのようなテンポがあって
ノリがよく、メロディーラインは好きだった。
今でもサビは明瞭に思い出せる。
しかし歌詞は「恋愛に心高鳴ってドキドキするぜ!」
という内容だったため、性に合わず、
総合的にはどっぷりとハマるには至らなかった。
大好きな方々には申し訳ないが、
恋愛の歌詞であるだけで一歩引いてしまう性分なのである。
そのため、アイドル全盛期と重なってしまい、
どうにも流行歌に乗り切れない青春時代だった。
その代わり、比較的恋愛曲が少ないロックバンドの
曲に、共感者を見つけられぬままのめり込んでいた。
現在人気の米津玄師やYOASOBI、Adoさんで
盛り上がることができるティーンエイジャーが
少し羨ましい。
彼らの曲はメロディー、歌詞共に大好きなのである。
今、私が中高生だったなら、
共に盛り上がることができる仲間がいたかもしれない。
こればかりは運の巡り合わせである。
勤務の間に挟まる1時間だけの束の間の休息。
正直なところ、1時間では足りないと思ってしまうのは
私だけだろうか。
この休み時間の中でできることはかなり限られる。
まず、同僚との付き合いで一緒にランチなんてことになれば、1時間全てが根本的に「休息」ではなくなる。
人付き合いに神経を使うので、休まる暇が無い。
なんとか1人になったとしても、
半分はもちろん昼ご飯に費やされる。
残りの時間を睡眠に振り分けて体力回復させるか、
スマホ片手に趣味に没頭し精神を満たすか。
できれば両方やりたいが、どちらかしかできない。
だが、仮にこの休みが2時間に伸びたとする。
そうすると、今度はその分の業務のスケジュールが
押すので、退勤時間が遅くなってしまうのだ。
家での休息が短くなってしまうのも由々しき事態だ。
いや、自分の場合は1人でいることが休息になっている
タイプなので、こちらのほうが厳しい。
そうやって逡巡して、諦め、
今日もまた1時間をやりくりするのである。
私は昔から握力が無い。
例えばペットボトルを開けようとして、
キャップに力を込めて思いっきり捻ったとする。
………びくともしない。
こんな経験を何度もしてきた。
だから当然、体力テストでの握力の値も
クラスの中でもドベかブービーが定位置であった。
と言うか、握力計が想定している手の大きさより
私の手のほうが明らかに小さいので、
握力計がジャストフィットした試しがない。
そのため、握力計に全力を注ぎ込めたことがない。
理不尽である。
それはともかく、冒頭の話を踏まえれば
どちらにしろ握力が無いのは疑いようがない。
今はキャップに輪ゴムを巻きつけて
摩擦力を上げることでなんとか開封にこぎつけている。
しかし、もっと歳をとったらどうなるのだろうか。
そう思うと、今のうちに握力ボールで
トレーニングしておくべきなのかもしれない。
過ぎた日を想う。
でも想い出すのは、辛い日だったり、
現在には繋がらない失われた幸せだったり。
だから、その行為自体が精神的な自傷に近い。
何度も何度も想い出しては、
何度も何度も心に傷を刻み続ける。
本当に楽しかった、今でも幸せに浸れる日々を
全部放り出して、薄れさせてまで。
そうして、その傷のせいで歩みを止め、
未来に手を伸ばすことそのものに恐怖する。
…まさに、自分自身だ。
呆れるほどに変わらない、昔からの悪癖だ。
気づいているのに。頭の中ではわかっているのに。
こうすればいい、という解決策だって、
描けてはいるのだ。
だが、身体が拒否反応を起こす。
でもそれに負けずに、一歩踏み出せば
何かが変わるはずなのだ。
がんばれ、がんばれ自分。
心の傷にふり掛ける消毒液は、とてもしみて痛い。
星座。私は大好きだ。
時々、ウィキペディアで88星座のページを
片っ端から読破し始めるくらいには。
だが、なかなか配置と星の名前が一致しない。
今でもすぐにわかるのはオリオン座と、
夏の大三角形や北斗七星くらいなものである。
そもそも、今の日本で星座盤と同様の星が
はっきりと見えるのは、地方のド田舎だけでは
ないだろうか。
私の実家周辺も田舎には違いないが、
隣町が県庁所在地だったこともあり、
そこそこに街灯が整備されていたので
細かい星々まで完全一致という訳にはいかなかった。
上京した今の住まいに至っては、
一等星すら判別が困難である。
これでは、実際の空を見て星座を見つけ、
かつ名前を一致させるのは至難の技だ。
星座は人々の憧れを背負っている。
しかし、その感動に毎日自然に辿り着けるのは
もはや生まれたお土地ガチャで
最高レアを引いた場合のみだ。
だから、定期的にプラネタリウムのお世話になるのである。