《君と》&《桜》
いつか、君が言っていた。
『桜の樹の下には、死体が埋まってるんだって』
まぁこれ有名な小説の冒頭らしいけど、と続けた君は、どんな表情だったろうか。
僕はそれを聞いた時、桜が咲く時期じゃないのにどうして今そんな話をするんだろうか、なんてことを思った。口に出したのかもしれない。
今の季節は秋で、桜はもうしばらくは殺風景な景色と同化する季節だから。
『桜はあんなにも儚くて、綺麗なんだよ。どんな人でも綺麗な花だって思うし、桜が咲いてたら、思わず顔上げちゃうでしょ? 君みたいにさ!』
君の一番好きな植物だからじゃないか、とも思ったけれど、そうかもね、と返した僕に君は笑った。
いや、覚えてないけど、多分そうだったような気がする。
それくらい、僕は君とたくさん話をしたんだ。
君の存在が僕にとって何なのか、正直他人に聞かれたときは困った。いつも数十秒考えて、結局、友達というありきたりな言葉で返すんだ。
本当に友達なのかはわからない。
だって、そういうことを互いに確認することはなかったし、わざわざ関係性を言葉にして表す必要がなかったから。
でも、お互い特別だった。
『私ね、死んじゃうの。お医者さんが言うには、治らない病気なんだって』
冬が来て、君は僕に教えてくれた。
普通に暮らすことができるのに、人より遥かに寿命が短いのだと。生まれたときからそうで、十数年しか生きられないのだと。
僕は一切知らなかった。
これまでの君の日々が薄氷を踏むような時間だったことを。
これからの君の日々が奇跡が終わるまでの猶予だということを。
突然に死が訪れるそうだ。そういう難病で、決して治せるようなものではないことを。
『けど、死ぬ前にはわかりやすくなるんだって。体がね、少しずつ死んでいくの』
君の説明は丁寧で、わかりやすかった。
多分、生まれたときからそうだったから、いつかは僕に話そうと準備してくれていたんだと思う。僕に話すときに、理解しやすいように。
わかりたくなんてなかったけど、悲しいくらいに君はすべてを教えてくれた。
死が近づくまでは不調なんてなくて、急に終わりが始まるんだって。
僕のためなんだろう、わかりきっている。
『それってさ、花みたいだと思わない? 花は、咲いて、散っていくでしょ』
そうだね、と返した声には温度がなかった。僕の声なのに、まるで違っていた。
当事者じゃない僕は受け入れたくないのに、君はその状態であることが当たり前だったから、とっくに受け入れている。そんな表情をしていた。
見ているだけで苦しかった。
それでも、僕は逃げないことを選んだ。
『おはよー。ごめんね、家から出られなくなっちゃってさ』
冬が終わりに近づくと、君は少しずつ体調を崩していった。
『今日はなんだか眠くってさー、また明日ね』
少しずつ会える時間も減っていく。
寂しいけれど、仕方がない。
『あー、ごっめん。今日は会えないんだよね。ごめんね、本当』
気にしないで、って言葉も掠れてしまった。
そうして、君は。
『……私、綺麗に死ねると思ってたんだ。まだ若いから、綺麗に死ねるんだって思ってたのにね。君は、もう、私のこと嫌いでしょ?』
そんなわけないだろ、馬鹿言うな。
そう叫んでしまった僕に、君は笑った。
『仕方ないなぁ、もう』
諭すような目で、君は。
『泣かないで。苦しいわけじゃないから、私は、大丈夫だから』
そうやって最期まで、僕のことを気にかけてくれた。
それが酷く苦しかった。
君に抱きついて泣いたのは、それが最初で最後だった。
——君の葬儀は、驚くほど早く終わった。
少なくとも、僕にとっては。
君が本当にいなくなったのだと改めて感じたけれど、僕の目から涙は一滴も零れなかった。
昼下がりの帰り道、君の家の近くにある桜の木の前で足を止める。
満開の桜は、最近俯きがちだった僕の目を引いた。
顔を上げる。
「……桜の樹の下には、死体が埋まってるんだっけ」
君の望みは、これで満たされるだろうか。
わからないけど、僕は正しいと思うことをした。
爪の間に入った土は後で綺麗にしないと。
日が落ちて辺りはすっかり暗い。
「僕は……君と、また、桜を見たかったんだ」
僕の隣に、君が立っているような気がする。
それで僕は、もう、満足だった。
《記憶》
日の明けきらぬうちに、目を覚ました。
上体を起こして、枕元に置いてある剣を手に取る。
鞘から出してやると、使い込まれた刃が微かな陽の光を反射した。
「……今度鍛冶屋にでも行って、しっかりと刃の手入れを頼むか」
鞘に戻し、サイドテーブルからコップを取って水を飲む。
そして、いつものように軽装に着替えた。
中庭での朝の稽古の為だ。
日が昇って少し経つまで、素振りや過去の稽古の復習、反芻を行う。
「……ふぅ」
部屋に戻る前に水場に寄り、頭から豪快に水を被る。どうせ着替える、問題はなかった。
髪を拭いて、クローゼットから騎士団の制服を出そうとして——その隣にある、畏まった衣服を手に取った。
今日は正装を身に付けるのだった。
式典や夜会など公の場に出席する際に着用を義務付けられている。
騎士であれば正装は、普段の制服の上に、自身の階級を示すエンブレムと勲章の付いた上着を着る。
第一騎士団であれば剣と盾、第二騎士団であれば盾、第三騎士団であれば剣のエンブレムである。
第一騎士団は身分の差異はなく完全実力主義の精鋭揃い、第二騎士団は基本的に次男以下の貴族のみで構成、第三騎士団は平民のみの構成であることが皮肉られている気がしなくもない。そんなエンブレムなのだ。
だが、今身に付けているそれは違った。
良く言えば貴族らしい、悪く言えば動きの制限されるものだ。
上衣から何から、触れればその生地の質の良さがわかる。
「平民がまさか、こんなにも上等な服を着ることになるとはな……」
そう独り言ちて袖を通す。
コートも羽織ったところで、剣を履く為の理由を考える。
本来は絶対に帯剣してはいけないだろう。
それでも、如何な状況に陥るやも知れぬ場所へ行くのに、剣を手放す訳にはいかないのだ。
騎士としての性だろうか。
「……忘れるところだった」
靴も履き替えなくては。
明らかに上等な革のブーツに足を突っ込み、いつもは部屋の隅に追いやられている面長の鏡の前に立つ。
「……誰なんだか」
いつもとは全く違う装いに、いつも通りの顔が浮いて見えた。
金の目がこちらを不機嫌そうに見ている。乱れた銀の髪に気付き、紐で纏める。金の細工のおかげで幾分かマシに見えるだろう。
光を受けて、コートから緻密な意匠が現れる。これの為にどれだけの時間が掛けられたのだろうか、分かる由もない。
窓の外を見ると、玄関前に馬車が一台停まっていた。一介の騎士を迎えるにしては、豪奢な馬車だ。
「迎えに行くって押し切られたんだよな……」
目立つ為固辞したのだが、向こうは聞き入れてはくれなかった。なんでも、こちらが呼んだのだからせめてこれくらいはさせて欲しい、との事だ。
実際は直前の逃亡防止の為だろう。馬車に問題が発生したとか言えば、免れられる可能性はある。
御者が門を叩く寸前、
「こちらは準備ができている。問題ない」
「では、こちらへどうぞ。男爵様」
そう呼ばれると違和感しかないが、この男性に言っても仕方がない。
「すまない、よろしく頼む」
反射で出た溜め息を隠すよう軽く頭を下げて、馬車に乗り込んだ。
窓に映る顔は暗く、これから茶会に出かける顔とは思えない。
結局着けたベルトに下げられた剣に自然と手を伸ばす。
「……いや、もう、違うのか」
騎士としての己は望まれなかったのだ。
男爵の爵位を受けたのも、揶揄い半分実力半分だろう。
平民上がりの上級騎士に対しての扱いは、そんなものなのだ。
茶会の会場に着いたところで、警戒しながら馬車を降りた。
大方、主催者たる大公爵閣下が護衛を配置しているのだろうが。
必要がないと分かっていても。騎士としての自分の記憶を、追いかけてしまう。
《もう二度と》
光と風とが収まってすぐ彼を襲ったのは、拒絶反応だった。
全身が痙攣しているようで、足元がふらつき地面にへたり込む。
前へと伸ばしていた手も自然と下がった。
「ッ……! あ、あぁ……」
手に感触がある訳でもなければ、実感が伴っている訳でもない。
ただただ、目の前で人が倒れていく様を見ていただけだ。
数多の裂傷を抱えて、濃密な死の気配を漂わせる死体の。
「こんなはずじゃっ……ちが、違う……こんな、俺が……お、れの……」
動揺。
視界の方がおかしくなったのか、と錯覚するほど震えの止まらぬ右手を、左手で包み込む。それでも、震えは増すばかりだ。
寒い、寒い。
違う——あたたかい。
右手に付着したぬめりとした液体が、あたたかいのだ。そう、まだ。
「あ、ああ、ぁ……うわぁああああッ!」
咄嗟に手を払うが、手のひらは既に赤く染ってしまっていた。
それがどうしようもない事実を刻む。
人を手に掛けてしまった。
「……はっ……はぁ…………ぁ、あぁ……」
ただ風の魔法を使っただけだ。
それなのに、何故か暴走した。
理由があるのかないのかすら、分からない。
けれどこうして、憐れな悪人が斬り刻まれてしまった。
正当防衛のはずだった。
本当は。
そのはずが、過剰どころではない結果を招いてしまった。
急いでその場から逃げても、変わらない。
震えは収まらず、事実は消えない。
事情を話せば事故だと思ってくれるだろうか。
そうだとしても。
もう二度と、罪のない者としての生を歩めないことは事実だ。
そこに、他意も殺意も何もなくても。
犯してしまったのだから。
《どこ?》
おれの未来は、どこ?
もう、なにもわからない。
きっと、これから一生そうなんだろう。
俺の手首に自由という枷が存在している限り。
どこ?
……答えなんて、そもそも。
未来なんてものは、確かに、ここになかったのか?
《花の香りと共に》
純潔。無垢。無邪気。誇り。高貴。
白百合の香りは、いつだって笑顔を運んでくれる。
どんなときも、そうだ。
あれは少し暖かい季節のこと。
「本当に好きだよな、その花」
「うん、大好き! 落ち着くんだよね、なんだか」
呆れて言ったわけではないが、シリスの自然と漏れたため息に、
「私が花から離れないからって、怒らないでよ〜」
「違う、偶然だ。……もう少し距離をとってほしいのは事実だけどな」
「それは難しい相談かな!」
「あぁ、知ってた」
間髪入れずにセナの拒否の声が届き、適当に返す。
シリスも、既に幾度か試したのだ。
それとなく離れてみたり、手を引いたり。
まぁ、どれも無駄に終わったことである。
「……さて、と。そろそろ行くか?」
「もうそんな時間か、わかったよ。……行きたくないなぁ〜」
「文句言ってないで、ほら」
セナはシリスの手を取って立ち上がった。
その拍子に、ふわりと百合の香りが広がる。
「諦めて頑張るとするかな……マナーだっけ?」
「違う、普通に公務だろ……」
「あ、そうでした。シリスありがとう! それじゃあ行こうか——参りましょう、シリス」
「……はい、セリーナ王女殿下」
二人は連れ立って中庭から去った。
二人きりのときだけが、二人が仮面を外すときだ。
それは決まって、この中庭である。
王城で唯一中庭で咲く、白百合の花が風に揺れて香りが綻んだ。