《ルール》
悪魔には破ってはいけない禁忌がある。
対価のない願いの成就や、契約者のいない時に『野良悪魔』と呼ばれる者達の実力の行使など、複数存在する。
そんな中で生きる悪魔とは、果たして自由なものか。
神話にあるように、神々までもを誑かした存在なのだろうか。
神父は時折、聖典を開いてそう思うのだ。
聖都、シュヴァルデンの中央にある聖教会は聖都のどこからでも望む事ができる大きな教会だ。
また、聖都は聖教会の本山とも言える場所だ、そこで働いている誰よりも力のある神父と言えよう。
神父——イーオンはただ、疑問を深めるばかりである。
「……悪魔とは、神々を堕落させし唯一無二の天界の汚点である? 聖典は嘘ばかりですね」
そうは思わないか、とイーオンが振り返ると、そこには黒に染った男が一人。
「……悪魔よりも、それが似合うのは人であろうが」
聖教会の象徴たる十字架に、杭で打たれた四肢から血を流し続ける男はそう言った。
「おやおや、久しぶりに話したかと思えば面白いことを仰いますね。貴方がそれを言うんですか」
「フン、そっくりそのままお返ししよう」
人好きのする笑みを浮かべたイーオンは、男の前に立つ。
おもむろに手を伸ばし、杭を捻った。
「——ッ、く……っ、ぁ……!!」
血が酷く滴り、男は歯を食いしばって声を殺した。それでも、抑え切ることなど到底できなかった苦痛の声が漏れる。
「でもね、私思うんですよ。例えば悪魔とは、天界の汚点ではなく……契約のある限り死なない存在だと」
「……ふ、ふはははは! そんな訳が無いだろう! 悪魔とは永く命があるだけの種よ」
「そうでしょうか? ……いえ、貴方の言う通りかもしれませんね」
不敵——男にとってはそう見えた——に笑って、イーオンは言う。
「けれど、こうして十字架に杭で打たれ、血を流しながらも貴方は五千もの夜を過ごしている。それだけで十分だとは思いませんか?」
「……何が言いたい、神父如きが」
「悪魔とは、かくも愚かな者ということですよ。そして狡猾で長寿な種だと」
イーオンはただ、嗤う。
「気付かないとは中々、貴方も堕ちたものだ。いや、悪魔には昇ったという方が正しいのか」
「——まさか、」
「抵触してはならない禁忌の一つ、己より高位な悪魔の領域を犯してはならない」
男の目の前で、神父としての仮面をゆっくりと外す。
その瞳は、人に有るまじき金色の瞳だ。
「お、お許しくだッ——」
「聞かなければ、気付かずに生きていられたものを」
禁忌に抵触したものを罰するのは、高位の悪魔の仕事であり——悪魔を滅するのは神父の仕事だ。
こうしてまた、イーオンは——永遠の名を有する悪魔は教会で禁忌を諭すのだった。
《たとえ間違いだったとしても》
「どうしてその女を庇う……!? わかっているだろう、これは命令だ、」
「はぁ〜?」
それがどうしたのさ、俺は。
「——“正義の味方”じゃないんだよ?」
力はあっても、お前らの為に使うと思うな。
大切な人は、あんたじゃない。
「この際だから教えてあげるけどね、俺はあんたら如きの命令に従ってあげてた訳じゃないの。ただ、彼女が一緒にやろうって言うからやってるだけ」
肩を竦めてみせると相手は、理解ができない、とでも言うかのように頭を振った。
「いい? よく聞け」
一息吸って、声を張る。
「この世界で一番大切なのは彼女なの。二番目が親友で、三番目が友達で……でも何よりも大切な彼女の為なら、俺は他の全てを捨てられる。邪魔をするなら斬って捨てる」
にこりと笑って、腕の中で気絶している彼女の髪を一房掬う。
口付けを落として、上着の上に寝かせる。
「つまりお前達も、邪魔で、俺が斬って捨てるべき雑魚なんだよ。わかった?」
「……っ、ふざけるな! そんな道理が通るとでも思っているのか!!」
「通るわけないじゃん、通すんだよ? もしかして馬鹿なのかな?」
「このっ、」
話しながら接近し、何事か口を開こうとしたその頭ごと剣で縦に裂く。
血飛沫が舞うが、既にそこからは離脱しているので問題ない。
「雑魚は雑魚らしくさっさと退場しな」
笑みをしまって、俺は剣を振るった。
当然、彼女に血が掛からない場所で、だ。
たかが五十六人で、俺に勝てるとでも思っていたのだろうか。
「……起きてよ、眠り姫」
当然返り血も浴びていないし、怪我もしていないから俺は彼女を抱き起こす。
ぴくりと瞼が動いて、その瞳が俺を映す。
「——……ん……あら? ごめんなさい、少し寝ていたみたいね」
「気にしないでいいよ、あーちゃん」
「……リク、申し訳ないのだけど運んでくれるかしら? 足が動かなくて」
「お易い御用だよ、お姫様」
彼女がいる限り、俺は大丈夫。
「……たとえ間違いだったとしても、俺は、君の為に生きるから」
「何言ってるのよ、わたしが、あなたの選んだ道を間違いになんてしないわ」
「……俺よりかっこいいわ」
お互いに笑って、そのまま血溜まりから反対方向に足を進める。
彼女の目に、映らぬように。
たとえ知っていても、俺は、いや——誰だって好きな人にはかっこつけたいから。
「……愛してるよ、あーちゃん」
「私もよ、リク」
俺の最高の彼女が歩む道はきっと、正しいだろう。
その光の道を、歩いて生きたい。
《何もいらない》
剣を振る度に呼吸が乱れ、姿勢が崩れる。
「はぁっ……はあ……ッ……!」
観客の声が五月蝿い。
その姿も全部、五月蝿い。
相手の剣とがぶつかって、金属音が嫌に響く。
——いなくなれ。黙れ。
苛立ちを隠せない自分に呆れすら抱きながら、そう、ふと思う。
すると、呼吸を重ねるにつれ、観客の姿が空に解けていく。
そういう感覚に陥っているだけだろうが、今はそれでよかった。
今度は、呼吸が邪魔だった。
自分の息が荒くて、それが鬱陶しい。
風の唸る音が呼吸の間に聴こえて、勘で攻撃を躱す。
また一合と切り結び、離れた。
——相手のも全部、邪魔だ。
繰り返される呼吸が、酷く煩わしい。
「はっ……はぁっ……ふー、ふッ……」
呼吸もまた、空に、解ける。
彼我の差は五メートルほどだろうか。
けれど、今はその距離すらも、いらない。
——これが最後だ。
剣先が動いて、自然に吸い寄せられる。
体も、まるでいらない。
何もいらない。
ただ一心にそこを斬るだけだ。
相手を殺す為の剣を。
「————」
果たして、彼の者の剣は相手に届いた。
無我のそれには、“生”の気配が感ぜられなかった。
それ故に、呼吸も置かず、瞬きもなく行動を起こせたのだろう。
「——ッはぁ、はあっ……はッ……!!」
大量の血飛沫を浴びて漸く、荒く呼吸を吐いた。
そうして彼は、後に剣聖として語られるまでに成るのだ。
誰かを殺すまで知れぬ境地など、知りたくもなかったろうが。
その境地こそが剣を殺し、生むのである。
《もしも未来を見れるなら》
窓枠に体を預け、少女は溜息を吐いた。
この国はどうなって往くのだろうか。
唯一無二の存在を喪ってしまえば、この国は崩壊してしまうのだろうか。
知りたいようで、知りたくない。
魔法使いという存在が世界を牛耳るようになって幾星霜、人々は彼らを畏れ敬ってきた。彼らを至上の者として扱ってきたのだ。
而して、時が経つにつれ畏れは変化を遂げた。
何故魔法使いよりも圧倒的に数の多い“ヒト”らが、彼らに媚びへつらうばかりなのか、と疑念に変わったのだ。
かつての魔法使い達は、その力を国やヒトの支配へと及ぼした。けれど、最近はどうだ、魔法を使ったところさえ見たことがないではないか、となったのだ。
それをきっかけにヒトらの疑念は畏怖の影で募り、やがて、一人の魔法使いが命を落とすまでに表面化されるようになった。
これ以降の歴史は、語る程のものでもない。
魔法使い達による、血祭りが始まったのだ。
国の何処を見ても血が流れており、断末魔が聞こえる。
後に魔法使い達の暴走として扱われるこの時代は、ヒトがヒトとして生きてはいけない時代であった。
だが、ヒトの歴史にとって地獄の時代は、ある男の存在によって終焉を迎える。
「ヒトは弱く脆い。だが、数多の同種を伴って何度も立ち上がる生き物だ。今こそ、我らの力を世界に示すときではないか」
そう唱えた男が一人、国の守護者となってヒトらの指導者となったのだ。
魔法使い達は彼を主軸としたヒトの群れを侮っていたが、気が付けば彼らによって魔法使いの数は減少していた。
一人二人と数は減って往く。
既に手を打つ時間もなく、魔法使い達は、狩られる側へと堕ちていたのだ。
これらの全てが、ヒトが覇者となる時代の黎明期となった。
けれど、魔法使いが全滅した訳ではない。
今度は国の守護者として、あるいは戦力としてヒトは彼らを囲うようになったのだ。
協力を拒む者には恐れを与え、死を与え、共に手を携える者には奇跡を与えろと。
それはヒトでも魔法使いでも同じだった。
時に同族を殺しながら、魔法使い達は各国で名を轟かせるに至った。
そんな存在の彼らがいなくなった世界とは、どのようなものか。
少女はそれを考えて、知ろうとしているのだ。
「もしも未来を見れるなら——」
ヒトも魔法使いも、幸せに過ごせる世界でありますように。
そう願って未来を見るだろう、と少女は思う。
もう二度と、仲間である筈の同族を殺したくはないのだから。
だが残念なことに、そんな魔法はない。
だから今日も、少女は一人で王城の塔の最上階に囚われているのだ。
《桜散る》《無色の世界》
世界の中心には、大きな桜の木が据えられていた。
樹齢千年は有ろうかという大樹だ。
それを取り囲む桜の木々は、それよりかは些か歳若い木である。それでも、何本も並ぶその様は一本の大樹に劣るとも限らない。
けれど、矢張り、気が付けば大樹に目が移るのだ。それほど美しく、魅せられる。
それだけに、大樹に咲いていた花が散ると、世界は色を喪った。
実際は、大樹の他に花は咲いているというのに。
「君がいなくちゃ、僕にとっては誰も同じだよ」