今日のテーマ
《今一番欲しいもの》
「ねえ、今、何か欲しいものってある?」
彼女の期待に満ちた眼差しに、僕は「うーん」と小さく唸って考えた。
質問の理由は、もうすぐ僕の誕生日だからだろう。
彼女はサプライズを狙うのではなく、僕が欲しいと思っているものを贈ってくれるつもりらしい。
思い浮かぶものはいくつかある。
だけど、プレゼントとして贈られたいものかと問われると少し微妙だ。
例えば、そろそろ万年筆のインクが切れそうだったな、とか。
あのアイスの新作が発売したから食べたいな、とか。
高校の頃から買ってるシリーズ物の新刊が週末に発売するから買わないと、とか。
どれも必要だったり欲しているものには違いないけど、彼女が求めている答えはそういう類のものではないだろう。
だったらプレゼントされたいものという括りで考えてみるものの、手頃な価格帯で「これ」というものも思い浮かばない。
他の相手だったら、当たり障りなく服や適当な小物などを上げる場面なんだけど。
でも、彼女のこんな顔を見てしまっては何となくそういうのでお茶を濁すのも憚られる。
だって彼女ときたら、僕の口からどんな回答が出てくるのか、それはそれは楽しげに待ち構えているのだ。
その表情からは「どんな物を提示されても期待に応えてみせる」という意気込みが感じられる。
彼女のそんな熱意を満足させつつ、僕が本心から喜べるもの――そんなの急には思い浮かばない。
どうしたものかと考えていると、彼女はくすりと笑って僕の袖をくいくい引いた。
「そんなに難しく考えないで。私があげられるかどうかは一旦脇に置いて、今一番欲しいものを教えてよ」
「今、一番欲しいもの」
「うん。物とかじゃなくて、行きたい場所とか、したい場所でもいいよ」
それをヒントにプレゼントを考えてもいいし、だからもっと気楽に考えて。
そんなことを言いながら彼女が笑みを深くする。
まるで出来の悪い生徒を見るような「しょうがないな」と言いたげな表情に、僕は自分が思いのほか肩に力が入り過ぎていたことを自覚した。
彼女は僕より年上で、非常に『デキる』人だ。
それに対して僕はといえば、平々凡々、どこにでもいるような、うだつの上がらない冴えない男で。
せめてこういう場面では、さらりと彼女の望む答えをスマートに提示できたらいいんだろうけど、そんなことさえ出来ずに彼女からフォローされる始末なのだから情けないことこの上ない。
「一番欲しいものなんて決まってる。あなたの隣で堂々と胸を張って立てる自信が欲しい」
思わずぽろりと本音が零れ落ちた。
本当は決して口に出して言うつもりのなかった言葉。
それが、意識もしないまま、僕の口から躍り出てしまった。
しまったと青ざめるも時すでに遅し。
覆水盆に返らず、一度口から出た言葉は戻すことも叶わない。
恐る恐る視線を向ければ、彼女はぽかんとした顔で僕を凝視していた。
「ご、ごめん、なんか情けないこと言っちゃって」
どもりながら詫びてみるけど、彼女は目を丸くしたまま微動だにしない。
気を悪くさせてしまったのではないかと思いつつ様子を窺っていると、ようやく我に返って再起動したらしい彼女がパチパチと瞬きをして改めて僕をまっすぐ見据える。
その眼差しは、心なしか、獲物を見定める狩人のような鋭さだ。
「自信……自信かあ……」
頭のてっぺんから爪先まで、観察するように彼女の視線が動いていく。
僕は知らず知らずの内に身を強張らせ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「自信なんてものは一朝一夕でどうにかなるものでもないけど、まずは形から入ってみようか」
「え?」
「ラノベなんかでよくあるじゃん? 自分に自信のない女の子が、外見を磨かれて少しずつ自分に自信を持ってく、みたいなやつ。大丈夫、自覚がないだけで素地は良いセンいってるし、磨けば光る逸材だから。もちろん、中身の方もね。でもまずは外側から磨いてみよっか」
にっこり笑って力強く断言した彼女は、慌てる僕を置いてきぼりに、早速美容院やらメンズエステやらの予約を入れていく。
服は誕生日当日に彼女のコーディネイトしたものをプレゼントするからと、それはそれは良い笑顔で宣言された。
中身の自信についても、後日ゆっくりじっくり自覚を促してあげるからね、と。
どうしよう、僕の彼女がイケメン過ぎてつらい。
これがラノベだったら完全に男女の役割が逆じゃないですか!?
こうして僕の自信育成計画の火蓋は切って落とされたのだった。
今日のテーマ
《私の名前》
私の名前は、ご主人様の大好きなゲームの『推し』というのと同じものらしい。
ご主人様が言うには「推しを愛でるのと同じ熱量で愛でたい」という理由でこの名前を付けてくれたらしい。
その言葉の通り、私はとってもご主人様からとても厚遇してもらっている。
元は野良猫の身の上であるにも拘わらず、美味しい食事に寝心地の良い寝床まで与えられる好待遇は、まるで夢でも見ているんじゃないかと思うこともしばしばあるくらい。
時々拷問のような水責めに遭ったり、薬臭い場所へ連れて行かれてあちこち触られたり痛い針を刺されたりもするけど。
でも、ご主人様も好きで私を虐めてるわけじゃないんだろう。
そういう責め苦の後はいつも以上に甘やかしてもらえるし、特別なおやつももらえるから耐えられる。
それでも嫌なものは嫌だから、暴れて爪を立ててみたり、部屋中を逃げ回ったりして抵抗もしちゃうけど。
私の名前を呼ぶ声にちらりと目を向けると、スマホという板状のものに向かって悶絶しているご主人様の姿。
どうやらご主人様が呼んでるのは私の名前じゃなくて、その元になった『推し』の方の名前だったみたい。
私のことは最近は名前を縮めて呼ぶことが多いから、たぶんそうだと思ったんだ。
「ああー!! 今回配信されたシナリオ、マジ神!! 推しの貴重な萌えエピソードあざーーーっす!!」
スマホを手に、ベッドの上でごろんごろんと転がるご主人様は、普段とはまるで別人のようだ。
普段は優しくて、たまにデレデレで、でも包み込んでくれるみたいな頼り甲斐がある人なのに、この『推し』が絡むと奇声を上げたり今みたいに悶絶したりして、何だかとっても情けなくなってしまう。
何より腹が立つのは、私よりもその『推し』に注意を向けてること。
いつもは「おまえが一番可愛いよ」って言ってくれてるのに、今は私のことなんか全然目にも入ってない。
今やご主人様の頭の中は『推し』のことでいっぱいなんだろう。
その『推し』と違って、私はふわふわの毛やぷにぷにの肉球で、いつもご主人様のことを精いっぱい癒やしてあげてるのに。
同じ名前なのに、私の方がずっと一緒にいるのに、何だかこっちの方が負けてるみたいじゃない。
ムカムカして、こっちを見てほしくて、その『推し』じゃなくて私の名前を呼んでほしくて。
だから、私は家具を伝ってエアコンの上の隙間によじ登った。
そこから距離を測ってぐっと体を縮め、思いきり勢いをつけてジャンプする。
目測違わず、私は狙った通り、ご主人様の背中に力いっぱい体重を乗せて飛び下りた。
「ぐへっ!! ちょ、こら、おまえどっから降ってきた!?」
渾身の体当たりを決めたことで、ようやくご主人様の意識を憎き『推し』からこちらに向けることに成功した。
ちょうどいいところに決まったらしく、ゲホゲホ咳き込むご主人様を一瞥し、その手元から転げ落ちてたスマホをパシーンと前脚で弾き飛ばす。
それからすぐさまご主人様の膝に陣取って、胸元に甘えるように頭を擦り付けた。
こうすると、大抵の場合、ご主人様はデレデレになってくれるのだ。
「ああ、もう……ホントに、おまえ、そういうとこだぞ!?」
ほら、今日もまたご主人様は私の魅力にメロメロだ。
無事に『推し』に勝てたことに気を好くして、普段よりもしっかり甘えておくことにする。
私を撫で回しながらスマホを拾ったご主人様は、その後暫くはその画面に『推し』を映すことなく、私を存分に構ってくれたのだった。
今日のテーマ
《視線の先には》
それに気づいたのは偶然だった。
いつも、誰に対しても無愛想な友人が、珍しく柔らかな表情を浮かべていた。
喩えるならば、愛しさだとか、慈しみだとか、そんな表現が似合う顔。
こいつにそんな情緒があったのかと、失礼なことを思ったのは内緒である。
オレは驚きのあまり、ポカンと阿呆のように口を開けてその顔を凝視してしまった。
こちらの視線に気づいた友人は、すぐに見慣れた無愛想な顔に戻ってしまった。
一瞬前まで見せていた表情が、まるで幻か何かのように消え失せる。
そのことを勿体なく思いながら、密かに奴が見ていた方向へ視線を向けてみる。
あんなに蕩けるような顔をしてたくらいだから、好きな子でも見てたのかと思ったのに、特にそれらしい姿は見当たらなかった。
それから数日後、オレは再び友人のその顔を見る機会に恵まれた。
今度は少し距離があり、オレの存在には気づかれていない。
今度こそ、あいつの視線の先に誰がいるのか確かめようと目を向ける。
そこにいたのは、なんとオレの妹だった。
え? なに? あいつまさかオレの妹が好きなの?
あのじゃじゃ馬を?
兄を兄とも思わずに顎で扱き使うような、あの妹を?
信じられない思いで、視線を行ったり来たりさせてしまう。
いや、中身を知ってるから意外に思うだけで、身内の贔屓目を除いても妹はそれなりに可愛い部類には入ると思う。
性格に難があるように思えるのは、身内だからこその甘えによるもので、他人に対しては礼儀正しく愛想もいい。
あいつは友人として非常にいい奴で、そんな相手にアレを押しつけるのは申し訳ない気もするけど、本人がそれを望むなら協力するのも吝かではない。
そんなことをつらつら考えていたら、あいつの視線に気づいたのか、妹がふとそちらを向いた。
たぶん、目が合ったんだと思う。
妹は、これもまた意外なことに、オレには決して見せないような、照れくさそうな、恥ずかしそうな、でもとても嬉しそうな顔であいつに会釈する。
え、ちょっと待って。
何だよ、あの顔!?
あいつ、あんな顔もできるの!?
いつものあの生意気な妹はどこ行った!?
ぎょっとするオレを置いてけぼりに、友人と妹はすっかり2人きりの世界にどっぷり浸かっている。
周囲なんてきっと目にも入っていないに違いない。
妹がパタパタとあいつに駆け寄ってきて、何か話しかけている。
それに対し、あいつは蕩けるように笑顔で妹の頭をそっと撫でた。
ああ、これは、オレが知らなかっただけで、もうすっかりできあがってるやつだ。
一体いつからつきあい始めたのか、これっぽっちも気づいてなかった。
反対されるとでも思って言い出せずにいるのか、それとも別の理由があって隠してるのか。
どちらにしても水くさいことこの上ない。
妹はともかく、友人に対しては何となく疎外感めいたものを感じるが、だからといって反対も邪魔もするつもりはない。
せいぜい、友人とは女の趣味は合わないなと思うものの、妹に関してはなかなか見る目があるじゃないかと思う程度だ。
何にせよ、友の立場からも兄の立場からも、2人の仲が順調に続いてくれることを祈るばかりである。
いつか話してくれるのを気長に待つかと思いながら、オレは2人に気づかれない内にそっとその場を後にしたのだった。
昨日のテーマ《遠い日の記憶》がタイムアップでギリギリ間に合わなかったので、今日の分《私だけ》と合わせて2本立てで投稿します。
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昨日のテーマ
《遠い日の記憶》
あっという間に日が暮れる冬とは違い、夏の夕暮れはずいぶんとゆっくりだ。
冬は濃いオレンジと影絵のように建物が黒く見えるコントラストが見事だけれど、夏は淡いピンクから青に変わっていく雲のグラデーションが美しい。
こんな空を見ていると、いつもあの時のことを思い出す。
それは遠い日の記憶――幼い頃の大切な思い出。
その年の夏休み、わたしと兄は父方の祖父母の元に預けられた。
弟を身籠もっていた母はその頃ちょうど臨月で、出産のため実家に里帰りしていた。
祖母は母と生まれてくる赤ん坊の世話だけで手一杯で、まだ幼い兄とわたしの面倒までは見きれないだろうということで、父方の祖父母を頼ることになったのだ。
父方の祖父母は伯父一家と同居していて、年の近い従兄弟もいる。
兄もわたしも、夏休みは彼らと一緒にたくさん遊ぶんだと、それはそれは楽しみにしていた。
最初の数日は、確かに楽しかった。
しかし、程なく従兄弟達はわたしを持て余すようになった。
男兄弟で育った彼らにとって、まだ小さくて一緒に遊べる内容も限られるわたしを扱いかねてしまったのだろう。
そして、その日、従兄弟達は兄と一緒に、わたしを置いてきぼりにして遊びに行ってしまったのだった。
その日はお祖母ちゃんは病院の日で留守だった。
伯母さんも町内会の用事で出かけてしまっていた。
だから、わたしを置いていこうとしても怒る人はいないと、彼らはそう考えたらしい。
「母さんも祖母ちゃんもすぐ帰ってくるから」
「そうそう、ちょっとの間だけだからここで待ってるんだぞ」
「ついてきちゃダメだからな!」
口々にそう言ってわたしを置き去りに外に飛び出していく従兄弟達と兄に、わたしは泣きながら追い縋った。
しかし片や小学生男子、片や幼稚園に上がったばかりの女児。
必死で追いかけたものの、走り去る彼らの背中はあっという間に遠離っていく。
追いかけてくるわたしを撒こうとしたのもあるのだろう。
彼らは闇雲にあちこちの角を曲がって走っていく。
おかげで、わたしが1人で取り残された時にはそこがどこなのか、帰り道がどちらなのかも分からなくなっていた。
完全に置いていかれた。
誰かに道を聞きたくても、お祖母ちゃん家の住所はおろか、電話番号さえも覚えていない。
このまま帰れないかもしれない。
そんな恐怖と絶望に泣きながら、わたしはとぼとぼと来た道を引き返した。
兄達の背中を追いかけるのに夢中で、周囲の景色なんか見ていなかった。
曲がり角に差しかかっても、自分が来た道がどっちかなんて分からない。
勘に任せて曲がったり直進したりを繰り返していく。
途中、すれ違った大人の人から親切に声をかけられたりもしたけど、相手が善人なのか悪人なのかの区別もつかない。
母からは常日頃から「知らない人についていかないこと」と厳しく言われていたこともあって、わたしは「大丈夫です」と答えることしかできなかった。
てくてく歩いている内に、わたしは公園に辿り着いた。
お祖母ちゃん家の近くの公園ではない。
ブランコと砂場しかない、狭くて小さな公園だった。
真夏の暑い日ということもあってか、遊んでいる子供の姿もない。
わたしはそこで水道を発見し、自分がとても喉が渇いていることを自覚した。
蛇口は少し固かったけど、頑張って捻って水を出した。
最初はぬるかったけど、暫く出していたら少し冷たくなってくる。
それを手で掬うようにして必死に飲んだ。
上手に飲めなくて手どころか顔や服までびしょびしょになってしまう。
それでも渇きは癒され、火照った腕や足も冷却されて、少しだけホッとした。
もしかしたら伯母さんやお祖母ちゃんが探しにきてくれるかもしれない。
でも、ずいぶん遠くまできてしまったから、見つけてもらえないかもしれない。
期待と不安がシーソーみたいに行ったり来たりする。
わたしは零れ落ちる涙を手の甲で拭いながら、木陰のベンチによじ登った。
ずいぶん歩いて疲れてしまっていた。
探しにきてもらえなかったら、また自分で歩いて帰り道を探さなきゃならない。
そのために、少しでも休んでおこうと思ったのだ。
そうしてどのくらい経っただろう。
炎天下の中、走ったり、たくさん歩いたりしたことで、相当疲れていたのだろう。
わたしはいつのまにかベンチで寝こけてしまっていたらしい。
子供達に帰宅を促すチャイムの音楽とアナウンスで目が覚めた。
濡らしてしまった服はすっかり乾いているけど、足はまだくたくたで、とても歩き出す気にはなれない。
それに、もし帰ったって、また兄や従兄弟達から邪魔者扱いされるかもしれない。
「おかあさん……おうちにかえりたいよぅ……」
夕暮れ時。
1人きりの公園。
自分を置いて走り去っていく兄と従兄弟達。
帰り道は分からず、帰れるかも分からない不安。
そうしたあれこれが一気に押し寄せて、わたしは堪えきれずに嗚咽と泣き言を漏らした。
お祖母ちゃん家に来てからずっと張り詰めてた気持ちが、ここへきてぽっきり折れてしまったのだ。
「見つけた!」
そんな時だった。
聞き覚えのある声が、狭い公園に響き渡った。
顔を上げてそちらを見れば、それは見知った少年だった。
お祖母ちゃん家の近所に住む彼は、従兄弟の友達で、わたしも何度か遊んでもらったことがある。
意地悪ばかりする、所謂『悪ガキ』な従兄弟達と違い、彼はいつでも優しくて親切で、わたしは彼が大好きだった。
知った顔を見たことで、これで帰れると安堵したわたしの涙腺は決壊し、そのままわんわん泣きじゃくった。
駆け寄ってきてくれた彼にしがみつくと、あやすように頭や背中を撫でてくれる。
彼は早く泣き止めと急かしたりすることなく、安心させるようにただ「もう大丈夫だよ」と何度も声をかけて、気の済むまで泣くことを許してくれた。
それから、ようやっと泣き止んだわたしは、彼におんぶされて家路を辿った。
手を繋いでもらえば自分で歩けるって言ったけど、あっさり却下されてしまったのだ。
「ほら、見て、一番星」
「どれ?」
「あの、ピカピカしてるやつ」
おぶわれながら、彼の言う方角を見る。
彼の肩越しに見た空は、ピンクから青へのグラデーションがとても綺麗で、その中に一際輝く星が見えた。
あれが金星で、あっちが火星で――時折立ち止まりながら説明してくれたけど、まだ小さかったわたしにはさっぱり分からなくて。
でもいろんな色で溢れてる空の色と、その中でキラキラ輝くお星さまが綺麗だなと、それだけはずっと心に残った。
帰ったら、当然ながら大騒ぎになっていた。
幼い子供が何時間も行方不明になっていたんだから無理もない。
従兄弟達も兄も、伯母さんやお祖母ちゃん、果てはお祖父ちゃんや伯父さんにまでがっつり怒られることとなった。
わたしもちょっとは怒られたけど、こっちは殆ど被害者扱いだったから、程々で解放された。
見つけてくれた近所のお兄ちゃんは、それを機にちょくちょく遊んでくれるようになった。
ずっと妹が欲しかったんだと笑いながら。
大きくなって、妹枠からの脱却にはとても苦労したけど、これには従兄弟達が何くれとなく協力してくれた。
おかげで今、彼はわたしの夫として共にある。
夏の帰省の度に懐かしい思い出話としてこの迷子の件が話題に出され、従兄弟達が渋面を作るのもお約束。
今となっては、わたし達の縁を結ぶきっかけになったと感謝すらしているのだけど、それは兄や従兄弟達には内緒の話である。
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今日のテーマ
《私だけ》
「え、もしかして、私だけ?」
みんなで夏祭りに行こう。
仲の良い友人達でそんな話で盛り上がったのは終業式のこと。
だというのに、いざ当日になって待ち合わせ場所に着いたと思ったら、まるで示し合わせたみたいに次から次へとグループLINEに「行かれなくなった」というメッセージが舞い込んできた。
バイトで欠員が出て呼び出された。
家族が体調不良になった。
親戚に不幸があった。
食中りで動けない。
遠方の親戚が訪ねてきたが、親が不在で相手をしなきゃならない。
どれも理由を聞けば仕方ないと思えるものではあるけど、全員が全員ドタキャンってどういうことよ!?
実は気づかない内に私が何かやらかして、みんなから避けられてるんだったらどうしよう。
内心動揺しながらも、私はみんなに「しょうがないよね、気にしないで」と返信した。
それ以外に返信しようがないとも言う。
改札からは電車が到着する度に多くの人が吐き出されてくる。
浴衣姿の人や、甚兵衛を着た男の人、楽しそうな親子連れの姿――いずれもお祭り目当ての人達だろう。
ここのお祭りは規模も大きめで、毎年人出も結構ある。
お祭りの後半には小規模ながら花火も打ち上げられるので、それを目当てに来る人も多い。
わたしはスマホをポーチにしまいながら、これからどうしようかと頭を悩ませた。
せっかくのお祭りだけど、だからといって1人で回るなんて気には到底なれない。
かといって、ここまでわざわざ足を運んだのに、そのままトンボ返りするのも悔しい気がする。
お祭りの会場に向かう人の流れを見るともなしに眺めながら迷っていると、ポンッと肩を叩かれた。
「かーのじょ、もし1人なんだったら、良ければ一緒に回らない?」
「友達待ってるんでお断り……って、え?」
いかにもナンパですといった口上で声をかけられ、反射的にピシャリと断りかけた私だったけど、振り返った先にいたのはものすごくよく知る人物で、断り文句は途中で消えた。
笑いながら立っていたのは同じクラスの男子――それも、私の好きな人だった。
終業式の日にお祭りの話が出た時、そういえば近くに彼もいた。
というか、お祭りの話題を振ってきたのは彼だった。
もしかしてという思いと、まさかという思いが、頭の中で行ったり来たりする。
内心ではすっかりパニックになっていたけど、驚きすぎて逆に反応ができない。
たぶん、私は今、超真顔になってると思う。
「あー、ごめん……実は、みんなに根回しした」
「根回し」
「あの時、本当は誘おうと思ったんだけど、出遅れて……」
「え、待って、つまり、どういうこと?」
「だから、その……一緒に祭りに行きたくて……2人で回りたくて、そっちの友達らに事情話して譲ってもらった。たぶん彼女達も本当は近くにいるんじゃないかな。もしオレが断られたり、おまえが迷惑なようだったら、彼女達と合流もできると思う」
こんな誘い方しかできないチキンでごめん。
とても恥ずかしそうに、照れ顔でそんなことを言う。
これは一体何のご褒美だろうか。
いや、友人達にどこかから見られてるんだとしたら、ある意味罰ゲームに近いかもしれない。
でも。
だけど。
そうだとしても。
こんなチャンスはきっともう二度とない気がするのも事実で。
友人達はみんな私の気持ちを知っている。
きっと、だからこそ彼のお願いに快く協力したんだろう。
私が絶対に断らないって、絶対に喜ぶって、分かってるから。
「それは、つまり……自惚れてもいいってこと、なの?」
「そう思ってくれていいです。ダメかな?」
「ううん、嬉しい……」
たぶん今の私は、屋台のりんご飴にも負けないくらい真っ赤な顔をしてると思う。
彼もまた、同じように真っ赤な顔をしているからお互い様かなと思うけど。
嘘の理由でドタキャンした友人達には、あとでしっかり説明してもらおう。
こっちもいろいろ根掘り葉掘り聞かれそうだけど、そうしたら存分に惚気てやればいい。
そうして、私達は、2人で連れ立ってお祭りの会場へ足を向けたのだった。
今日のテーマ
《空を見上げて心に浮かんだこと》
「あ、飛行機雲」
「どこ?」
「ほら、あそこ」
彼が窓の外を見ながら指差す先に視線を向けると、白い線のような雲がたなびいていた。
雲の線を辿った先には上空を通過していく飛行機の姿。
よほど高いところを飛んでいるのか、その姿はずいぶんと小さい。
彼はすかさずスマホを取り出して何かのアプリを起動すると、あれがどの航空会社の飛行機か、行き先はどこかなどを得意げに教えてくれる。
わたしは大して興味がないことを悟られないよう注意しながら「そうなんだ」と熱心に聞いている振りをした。
いや、全く興味がないというわけでもない。
空港に行った時などに飛行機を眺めるのも、離発着の様子を眺めるのも嫌いじゃない。
ただ、それがどこの航空会社のものかなどはいちいち覚えていないし、仮に覚えていたとしてもあんなに遠く小さくしか見えない機影では判断がつかないというだけで。
それでも興味がある素振りをしてしまうのは、それが数少ない彼との共通の話題だからだ。
好きな男の子と、少しでも共通の話題で盛り上がりたいと思ってしまう乙女心というやつである。
ちなみに今わたしが空を見上げて心に浮かんだ感想は、単に「空の青と飛行機雲の白のコントラストが綺麗だな」くらいのものだった。
「夏休みになったらチャリで空港の近くまで行って飛行機の離発着を見に行こうと思ってるんだ」
「え? 電車でじゃなくて自転車? 結構距離あるよね?」
「でも電車だと金かかるじゃん」
「それはそうだけど……」
空港なんて旅行の時くらいしか行ったことないけど、見送りの人とかもいるんだから施設内に入るだけならお金はかからないはず。
それなら、暑い炎天下で眺めるより、空港の施設内から眺めた方がいいんじゃないだろうか。
移動だって自転車で行くより電車の方が安全だし、移動時間も短くて済む。
何より、熱中症にでもなったら大変だ。
というようなことを、辿々しくも説明したら、彼は目を輝かせてわたしを見た。
好きな男の子からそんなキラキラした眼差しを向けられて、わたしの鼓動が急速に上がっていく。
え、何? わたし何か変なこと言っちゃった?
そんなわたしの動揺をよそに、彼は身を乗り出さんばかりの勢いで口を開いた。
「じゃあさ、一緒に行かね?」
「えっ?」
「オレ1人だったら別にチャリでも暑くても平気だけど、おまえも一緒に行くなら電車の方がいいもんな」
え、ちょっと待って、それはどういう理屈なの!?
何だかよく分からない急展開に半ばパニクりながらも、わたしの中の冷静な部分が「これはチャンスだ」と告げてくる。
ここで頷けば、堂々と大手を振って彼とデートできるってことだよね――と。
彼は大の飛行機好きで、たぶん1日中だって飽きずに飛行機を眺めていられる人だ。
それに同行するとなれば、わたしも1日そのノリにつきあわされることになるだろう。
飛行機に全く興味がないのなら、きっと途中で飽きて苦痛になるかもしれない。
けど、幸いなことに、彼ほど熱心ではないにしろ、わたしも飛行機を眺めるのは嫌いじゃない。
さっきみたいにアプリで「あれはどこの会社の飛行機で、目的地はどこで……」なんて解説までしてくれそう。
それならたぶん飽きることなく過ごすことができそうな気もする。
何より、好きな人が楽しそうにしてるのをすぐ側で合法的に眺め放題なんて、そんな美味しい機会を逃すのはもったいない。
わたしの心に浮かんだのは、盲目的な恋心によるそんな打算的な考えだった。
そんなわけで、一も二もなく頷いて、彼とのデートの切符を手に入れることに成功したのだった。
ちなみに、クラスの子達からは「飛行機オタク同士で出かけるらしい」程度の認識で冷やかされることもなかった。
それをきっかけに、わたし達の仲は夏休みの間に急速に進展し、2学期には彼氏彼女の関係になっていたというのはまた別のお話。