今日のテーマ
《誰にも言えない秘密》
誰にだって人には言えない、言いたくないことのひとつやふたつはあるだろう。
私にとってのそれは「将来の夢」がそれである。
小学生の頃、仲の良い友達に打ち明けたら、翌日にはクラス中に知れ渡っていた。
正確には、彼女が率先して言い触らしたわけではない。
彼女がしたのは、ただ、口の軽い他の友達に話してしまっただけ。
お調子者の男子から散々からかわれたのは苦い思い出だ。
その時の私は、悔しさと恥ずかしさに身を焼かれる思いをしながら「本気で言ったわけじゃない」と強がった。
当時と今では抱いている夢の内容は変わったけど、それでもそれ以来、将来の夢の話は決して誰にも明かすことはしていない。
小学校の卒業文集には、当たり障りのない無難な職業を書いておいた。
中学以降は誰かに聞かれても「特にない」と答えている。
そして高校生の今、私は一枚の紙を前に、頭を悩ませている。
「あれ? 進路調査の紙、まだ出してなかったのか?」
「うん……ちょっと、迷ってて」
「まだ受験まで間があるし、これから変更もできるんだからそんな難しく考えなくてもいいんじゃね?」
「それはそうなんだけど」
先生にはもちろん、親にも話してない、将来の夢――漫画家になること。
家族や親しい友人には絵を描いてることは隠していない。
みんなきっと単なるオタク的な趣味だと思ってるだろう。
でも、本当は、私はこれを職業にしたいと考えていて。
大人に話したら、たぶん荒唐無稽な夢だと否定されることだろう。
私だって本気で「なりたい」とは思っていても「なれる」という自信はない。
このまま趣味で終わらせた方が、挫折を味わわずに済むだろうとも。
本気で目指すとしても、そのことは誰にも明らかにしないまま、密かに挑戦し続けた方が……
「おまえの漫画、すごく面白いし、漫画家でも目指せばいいのに」
「え?」
「ネットに上げてるだろ。実はこっそりフォローして毎回チェックしてるんだ」
「ちょっと待って、なんで私のアカウント知ってるの!? 誰から聞いたの!?」
たしかにネットに漫画をアップはしてる。
ただハンドルネームは当然本名とは違うものにしてるし、そういう趣味で繋がってる友人以外には教えていない。
なのにどうして彼は私のアカウントを知ってるなんて言うんだろう。
それとも、もしかしてカマを掛けただけ?
混乱する私をよそに、彼は悪戯に笑ってスマホを操作すると「ほら」と画面を見せてくれた。
そこには確かに私の漫画が表示されている。
「フォローしてたのは結構前からだけど、少し前に授業中にノートの端に描いてるの見て気づいたんだ」
「う……」
予想外のところからの身バレに顔が引き攣った。
隣の席だからこそのバレ方ではあるけど、だってまさかクラスメイトにフォロワーがいるなんて思うわけないじゃん。
恥ずかしいなと思いながら、よくよく画面を見て二度目のびっくりが私を襲う。
だって表示されてる彼のアイコンに激しく見覚えがあったから。
「え? もしかして、このアカウントって」
「うん、いつも“いいね”してくれてありがとな」
それは、私が大好きな漫画をアップしている人のアカウント。
更新される度に評価とブックマークを欠かさずしてるほど。
アイコンとハンドルネームからてっきり女の人だと思ってたのに。
「実はさ、誰にも話したことないんだけど、俺、漫画家になりたいんだ」
「そうなんだ」
「うん。でも1人で目指すのは挫けそうだから、道連れにしたいなって」
「何それ」
「だっておまえの漫画、超面白いし。あくまで趣味で、職業にまでするつもりないっていうなら無理強いはしないけど、それじゃもったいないなって思うから」
「……」
「やる前から諦めるより、やって諦めた方が後悔も少なくて済むだろうしさ。だから、おまえさえよければ一緒にプロ目指さない?」
教室に残ってるのは彼と私の2人だけ。
たぶん彼は私の夢を打ち明けても嗤ったりしないだろう――漠然とだけどそう思えた。
だって、彼は私よりもずっとまっすぐに目をキラキラさせながら夢を語っているのだから。
だから、私は小学校の頃以来、初めて自分の夢を口にすることにした。
叶うかどうかは分からないけど、彼と一緒に、その夢を目指すために。
誰にも秘密の同志として。
今日のテーマ
《狭い部屋》
実家を出て一人暮らしを始めた俺が住むことになったのは大学から程近いワンルームマンション。
必要最低限の家具も設置されてるから持ち込んだ荷物はそう多くない。
服に小物に食器類、あとは授業で使うノートパソコンと本が数冊。
大して荷物もないせいか、実家の部屋と同じ6畳とは思えないくらい広く感じた。
月日が流れ、物も増え、気づけばだいぶ手狭になった我が家。
それを更に手狭にしているのが、半年前にできた彼女の存在。
同棲しているわけではないが、いつの頃からか週の半分ほどは入り浸るようになっていて、そろそろ半同棲と言っても過言じゃない。
今もレポートに明け暮れる俺をよそに、我が物顔で俺のベッドを占拠して、俺が買ってきた漫画を読んでる。
視界の端でゆらゆら揺れる色白の素足。
気が散らないと言えば嘘になる。
レポートなんか放り出して、俺もゴロゴロしながら漫画を読んだりダラダラしたい。
「ねえ」
「んー?」
「お昼、何食べたい?」
「うどん」
「暑くない?」
「じゃあ冷やしぶっかけうどん」
「りょーかーい」
煮詰まってイライラし始めたのを察したのか、彼女が間延びした声で聞いてきた。
どうやら昼飯は作ってもらえるらしい。
読んでた漫画をぱたりと閉じて、彼女はベッドから降りるとキッチンに向かう。
冷蔵庫を開ける音、レンジの稼働音、シンクを水が叩く音。
人の気配と生活音が途切れていた集中力を引き戻す。
昼飯ができあがるまでにあともう少し進めてしまおう。
レポートの傍ら、いつか広い部屋に引っ越して、彼女と暮らす未来を夢想する。
できることなら家族として、共に暮らしていけたらと。
遠い未来を夢に見ながら、今はこの狭い部屋のそこここに感じる彼女の存在を味わおう。
手を伸ばせばすぐ届く距離に愛しい人がいる幸せを噛み締めて。
今日のテーマ
《失恋》
「好きです!」
「駄目!」
好きです、の最後の一音に被せる勢いで食い気味に駄目出しされ、私は完全に出鼻を挫かれた。
望みがないだろうとは思ってたけど、まさかここまで呆気なく、秒で振られるとは思わなかった。
まるでコントか何かのような失恋っぷりに、涙よりも笑いが零れてしまう。
未練を残さないように木葉微塵に恋心を打ち砕くその心意気は流石としか言い様がない。
「ありがとう! ここまでバッサリ振られるとは思ってなかったけど、きっぱり振ってくれて、いかに望みがなかったのかよく分かった」
「ごめん、あの、そういう意味じゃなくて」
「気にしないでいいよ。さすがにすぐにまた今までと同じにってわけにはいかないかもだけど、周りから変なコト言われないようになるべく今までと変わらないようにするから」
「いや! だから! そうじゃなくて!!」
さっきの「駄目」よりも更に食い気味に遮られて、何だか雲行きがおかしいことに気づく。
彼はものすごく気まずそうな顔をしていて、その頬は夕陽のせいとは思えないくらい赤い。
私が目を丸くしながらも足を止めて聞く姿勢になったことで、彼はやっとホッとしたように息を吐く。
「違くて。駄目ってのは、断ったんじゃなくて」
「え? それはどういう……」
「男とか女とか、考えが古くさいってのは分かってるんだけど。好きな子には男の俺から告白したかったっていうか」
「は?」
「だからって『駄目』はないよな。ほんと俺、何様だよ。いくらテンパってたからって好きな子傷つけてどうすんだ俺」
「えーと、それはつまり?」
秒で振られたはずなのに、これはどういうことだろう?
いやいや、まだ期待したら駄目だ。
なにせ彼はちょっと天然なとこがあるからね。
そういうとこも可愛くて推せるんだけど!
そうは言ってもこの状況で期待するなというのは無理で。
正直な私の心臓は、告白する時以上にスピードを上げて激しく脈打ってる。
「それはつまり、俺が君のこと好きだってことです」
「マジで!?」
「マジで! こんな場面でウソ吐く度胸なんかないし!」
「よっしゃー!」
ロマンもムードも全くなく、私はその場で飛び上がって喜んだ。
だって正直叶うと思ってなかったし、「振られたけどこれからもいいお友達でいてね」って強がる心の準備しかしてなかったのだから仕方ない。
普段は信じてもいない神様に心の底から感謝の祈りを捧げながら、私は勢いに任せて彼に抱きついた。
こうして私の失恋はあっというまに撤回され、この日、人生初の『彼氏』を得ることになったのだった。
今日のテーマ
《正直》
修学旅行を数日後に控えて、クラスはいつもより落ち着かない空気が流れてる。
中学の修学旅行は感染症の真っ最中で結局中止になってしまった。
うちの中学だけじゃない。
近隣の学校――ううん、日本中の殆どの学校がそうだったんじゃないかな。
だから、私達の学年は特にこの修学旅行を、とても、とっても楽しみにしてる。
自由行動の時はどこを回ろうか。
お土産は何を買おうか。
夜の自由時間にはこっそり部屋を行き来しようね。
男子も女子も関係なく、みんながそんな風に盛り上がっている。
私もスマホを片手に情報収集に余念がない。
美味しい食べ物は逃したくないし、時間もお小遣いも無駄にはできない。
ネットでオススメのお店を見つけてはスクショとブックマークをしまくっている。
「まさかそれ全部回るつもり?」
「まさか。全部はさすがに回りきれないっしょ」
「だよな」
「正直言えば全部回りたいけど、時間もお小遣いも足りないもん」
真剣な顔でスマホを眺めながら、効率よく回るにはどうすればいいかと考える。
自由行動は班行動だから、当然同じ班の人達の意見も聞かなきゃならない。
「通り道のお店とかなら、ほんのちょっとだけ抜けさせてもらって走って追いつけば行けないかな?」
「班のみんなに言えば協力してくれるんじゃない?」
「いくら何でも私の食い倒れツアーにみんなを巻き込むのは駄目でしょ」
「食い倒れツアーレベルでチェックしてるのか」
「そこまでじゃないけど」
言いながらチェックしたお店を見せる。
もちろんこれで全部じゃない。
馬鹿正直にそんなの見せたら引かれそうだし。
これはあくまでチェックした中から絞りに絞って厳選したリストだ。
でもこれでも全部回るには時間もお金も足りないほどで。
我ながらどんだけ食い意地が張ってるのかとちょっとだけ恥ずかしくなる。
「こことここ、あとこの店はこっちにも支店ある」
「え?」
「隣の県だけど、この店とこの店も」
「え? え?」
「ここはたまにデパ地下に出展してるから地元で手に入るし、この3店は通販やってる」
「待って待って! 今メモるから!」
慌てて言われるままにリストにチェックを入れていけば、その数は半数以下にまで絞り込めた。
尊敬の眼差しで見つめると、彼は苦笑しながら肩を竦める。
「うち、母親が食い道楽でよくお取り寄せとかデパ地下とかでこういうの買うんだ。隣の県とかだと休みの日に家族で車で買いに行ったりするし。俺も何だかんだで母親譲りで食うの好きだから結構詳しいよ」
「すごい! ありがとう!」
「土産買うの、良かったら一緒に回らね? 母親情報でお薦めの店とか教えられるけど」
「いいの!? やった!!」
思わぬ天の助けに私は小躍りせんばかりに喜んだ。
彼もまた楽しそうに笑ってるところを見ると食い倒れ仲間が欲しかったのかもしれない。
頼もしい協力者を得てすっかり有頂天になってた私は、だから全く気づくことはなかった。
彼が、食べること大好きな私のためにお母さんからいろいろ情報を仕入れてくれていたことも。
彼にとっては、美味しいお土産よりも、私と一緒に買い物しに回ることの方が重要だったなんてことも。
最終日の飛行機でそんなことを告白と共に正直に打ち明けられた私が、片想いが叶って嬉しさに真っ赤になりながら頷く日がくることも。
今日のテーマ
《梅雨》
電車を降り、駅を出ようとしたら外はザーザー降りの雨。
梅雨の真っ最中、朝から雨も降ってたから傘は当然持ってるけど、こんな降りの強い中を歩くのは避けたい。
少し待てば小降りになるだろうか。
電車が遅れるかもしれないからと早めに出て来たからまだ少し時間の余裕はある。
このままここで様子を見るか、それともどこかで時間を潰すか。
人の通行の妨げにならないよう端に寄りつつ空を見上げていたらポンと肩を叩かれた。
「おはよう、そっちも雨宿り?」
「お、おはようございます」
声をかけてきたのは同じ部活の先輩だった。
同じ中学出身という縁もあって、こうして気さくに話しかけてくれる。
もっともそれはわたしにだけじゃない。誰に対しても同じ。男女問わず親切で優しいみんなの兄貴分みたいな人。
特に際立ったイケメンではないけど、わたし以外にも憧れてる子は多いらしい。
そっか、先輩ってこの時間の電車なんだ。
それともわたしと同じで、雨での遅延を見越して早く来ただけだろうか。
何にしても、こうして朝から会えて言葉を交わせるのは幸運以外の何ものでもない。
梅雨に入って雨の日が続くのは憂鬱でしかなかったけど、こんな恩恵があるなら雨も悪くないな、なんて調子のいいことを思ってしまう。
「しかし、朝からよく降るよなあ」
「ほんとですよねえ」
話しながら、先輩は何やらスマホを操作している。
あ、もしかして彼女か誰かと待ち合わせとか?
そういう話は聞いたことないけど、噂に疎いわたしが知らないだけという可能性も大いに有り得る。
せっかくの浮かれた気持ちが瞬時にぺしゃんと凹んだけど、横目で覗き見たスマホの画面はメッセージアプリのトーク画面じゃなくて水色や青や緑で埋め尽くされた画像のようなものだった。
「何見てるんですか?」
「天気アプリの雨雲レーダーなんだけど……これは暫く小降りになりそうにないな。しょうがない、バス使うか」
「バス?」
「あれ? 知らない? 学校のすぐ近くってわけにはいかないけど、ちょっと行ったとこにバス停あるんだよ」
「そうなんですか!? 全然知らなかった!」
驚きに目を丸くしながら、そういえば入試の時の学校案内にバスで来るルートも載ってたかもし思い出す。
入学して2ヶ月もしてそんなことも知らないのかと呆れられちゃったかな。
恐る恐る隣を見上げれば、先輩は得意げな顔で笑ってた。
ああ、そういう顔も大好きです! 朝からいいもの拝めました! 神様ありがとう!
「じゃ、せっかくだから教えてやるよ。あ、でも混むと嫌だからあんまり広めるなよ」
「はい!」
元気よく頷いたわたしに先輩はくすくす笑う。
そのまま強雨の中をバス停まで早足で移動すると、ちょうどバスが来たところだった。
降車場で人を降ろした後らしくバス自体には運転手さん以外誰も乗っていない。
バス停で待ってる人の姿もまばらだった。
今の時間帯だと住宅街を循環して通勤客を駅まで乗せてくるのがメインなのだろう。
バス停にも申し訳程度の屋根はあるけど、この降り方じゃ足元で跳ね返る雨水までは避けられないから、すぐに乗れたのはラッキーだった。
先に乗った先輩は迷わず奥まで進んで、後ろから2番目の2人掛けの席に座った。
え? これは隣に座っていい流れ?
躊躇したわたしに、狭いと思ってるとでも思われたのか、先輩が少し身を縮こまらせるようにして詰めてくれる。
「あっ、大丈夫です! お隣お邪魔します!」
「そんな畏まらなくていいのに」
またもくすくす笑われながら、こっちもできる限り身を縮めて隣に座る。
あわよくば先輩とぴったり寄り添って座れたら、なんて欲望が頭を掠めたけど、図々しくそんな真似する度胸はないし、太ってるとか思われたら凹みきって死ねる。
「そんなガチガチだと学校着くまでに疲れちゃうだろ」
「いや、ちょっと緊張してるだけなんで」
「なんで? もしかして、俺、怖い?」
「全然そんなことないです! ただちょっと畏れ多いというか烏滸がましすぎて死ねそうというか」
「え?」
「いえ! ほんと全然何でもないんで!!」
ああ、これ絶対、挙動不審な変な女だと思われたやつ!!
時間巻き戻せるなら今の会話全部なかったことにしたい。
だって仕方ないじゃん!
中学時代から憧れ続けてた人と心の準備もなく密着イベントなんか発生したらテンパりもするでしょ!?
動揺のあまり誰にともなく心の中で言い訳をしてしまう。
恥ずかしさで居たたまれず、ますます身を縮ませていると、先輩がどこか悪戯な笑顔で覗き込んできた。
「緊張してるのは、俺にセクハラされる心配とかじゃないよね?」
「は!? 逆ならともかく先輩がセクハラとかマジ有り得なくないですか!?」
「逆ならともかく?」
「あ、いえ、その、何でもないです」
シャツ越しに伝わってくる体温だとか、仄かに香る制汗剤の匂いだとか。
そういうものを意識しすぎて心臓バクバクさせてますなんて口が裂けても言えないし知られたくない。
というか、これは口にしたら絶対駄目なやつ! まさにセクハラじゃん!
のぼせたように熱くなっていく顔を手で仰ぎながら、誤魔化すように笑う。
「その、蒸し暑くて、ちょっと汗の匂いとかしちゃったらやだなーって」
「ああ、確かに。俺、匂わない? 大丈夫?」
「全然っ、いい匂いしかしないので問題ないです! ……あっ」
ああ、またやってしまった。
もう駄目だ。
先輩とこんな風に話せたのも、並んで座ってバス乗れたのも、心の底から幸運だと思うけど――たぶんわたしはそこで運を使い果たしちゃったんだろうな。
だからこんなにも墓穴を掘りまくってるんだろう。
情けなさのあまり涙目になってるわたしを余所に、先輩が笑いを堪えるように手で口元を覆いながら肩を揺らす。
その横顔を盗み見ながら、やっぱり好きだなあ、と、わたしは密かに自覚を強くする。
こんなに挙動不審な後輩に対しても、呆れたり気持ち悪がったりするでもなく、面白がってくれるなんて、どれだけ心が広いんだろう。
「嫌われてたり、気持ち悪がられたりしてないなら良かった」
「そんなの絶対絶対有り得ませんよ」
「じゃあさ――もしかして、少しは脈あるのかなって期待してもいい?」
「え?」
膝に乗せた鞄の上で頬杖をつきながら、先輩が首を傾げてわたしを見つめる。
その瞳に、何かを期待するような、甘やかな熱が灯っているように思えるのは、わたしの自惚れ?
まるで時間が止まったかのような沈黙に耐えられなくて、でも何も言えなくて。
止まっていたエンジンが掛かって、運転手さんの「発車します」というアナウンスが聞こえて、現実に引き戻される。
まるで白昼夢でも見ていたかのよう。
あまりに現実感がなくて、もしかして今のはわたしの妄想か何かかなと思っていたら。
「全然脈がないわけじゃなさそうだし、意識してもらえるように気長にいくか」
思い掛けない言葉が聞こえてきて慌てて隣を凝視する。
そこには、挑戦的ににやりと笑う先輩の顔。
そんな顔もまた素敵すぎて、ときめきのあまり頭もクラクラし始めて。
今まで大嫌いだった梅雨が、今年から、少しは好きになれるかもと、単純なわたしはそんなことを思ってしまうのだった。